1
蒋介石日记(手稿本)
[美国斯坦福大学胡佛研究所档案馆藏]
[一]
时间:1917 至 1936 年(1924 年散佚)
2
目 录
1917 年.................................................................................................... 1
1918 年.................................................................................................... 3
1919 年...................................................................................................11
1920 年.................................................................................................. 16
1921 年.................................................................................................. 25
1922 年.................................................................................................. 43
1923 年.................................................................................................. 54
1925 年.................................................................................................. 78
1926 年.................................................................................................113
1927 年................................................................................................ 158
1928 年................................................................................................ 203
1929 年................................................................................................ 251
1930 年................................................................................................ 297
1931 年................................................................................................ 312
1931 年回忆录.....................................................................................357
1932 年................................................................................................ 360
1933 年................................................................................................ 404
1934 年................................................................................................ 446
1935 年................................................................................................ 490
1936 年................................................................................................ 540
1
1917 年
1917 年 中国民国六年前事略
自由日记栏
余年未足五岁时即送入学塾,塾师为任介眉先生
每遇放学视为大赦,其愉快之情,莫能言喻。
甚感祖父时对余钟爱异常,~余八岁,不幸而祖父逝世。
九岁,先父亦病没。
余于八岁时从蒋谨藩先生。
余十四岁,从读于榆林陈表伯之家,师为毛凤美先生。
十五岁,聘笠景崧先生为师。
~入奉化县城之凤?学堂。
~最后仍旧于离异,此中国早婚之恶果,余母于家庭教育之严正有方,无与伦比,而独于此
一□□,亦为旧社会之习俗所误?
(十八岁,从顾清 先生于宁波)
~孙文先生之名亦由于顾先生谈~事所闻,乃知孙先生为革命领袖,故乡响往之,急思欲以
一见为快,并闻其言,如欲大成求新,应出洋留学,故余于是年已下出洋之决心。
顾先生亦甚称孙子?法之妙,勗余熟读,以为将来干城之选,不料至今真为军事治兵家矣。
十九岁 肄业龙津学校,当时,~留学
决心出洋,当时亲戚故旧,莫少尼阻,甚至痛哭,余既痛国事之衰坠,满族之凌夷,复痛家
事之孤苦被欺受凌,更欲发奋图强,以为非出洋求学加入革命,再无其他出路。
~自余少年十岁时因父亲之故,而兄不顾家,故已屡被人欺,余母隐忍茹痛,当为之暗泣不
置。
~余自此乃知社会之黑暗与不平,而更恨世态之炎凉与人情之浇薄。
~然当时并不知此即~革命哲学之基础,惟知嫌恶土豪劣绅,贪官污吏之狼狈为奸,压迫孤
寡之情,不可言说,故自寻出路,以为只有出洋求学,力求自强,当时亲友阻力虽大,但余
决心难移。
母亲至此虽不忍。~离乡国,但事既至此,知余之决心难以挽回,亦只有筹凑经费,允余出
洋,以成余志也,余到日本,本来志习陆军,只因限格甚严,非由本国陆军部保送不准入陆
军学校。
~于是年由陈英士~介见总理于宫崎家中,并结识在东之革命先士,对民族~益深,而驱逐
满清,恢复中华之心更不可抑矣,但余学习陆军之志,未之稍杀,以为非入陆军学校,由军
队入手不易奏革命之效。
二十岁 春往游杭州 寄住于奉化,试~,陆军部保定全国陆军速成学堂招考,须由各省督练
公所考送,当时投考者千余人,而所取之额除武备、弁目等各校保送外,所余者只十四名,
余竟获选。
乃于二十一岁春季送往日本,直入东京中区?振武学校,此为余平生惟一之愿望,幸得达成,
自足饮慰。
~加入同盟会
以余即入陆军,希望甚大,故会中同志不令余回国参加战役。
当时革命党员,余所最敬爱者以竺绍康为最。
2
廿一岁,廿二岁,廿三岁,各暑期中余皆□国省亲。
余在振武学校。~
回忆在校期间,大半时间皆结识革命志士,与之讨论革命计划,当时阅邹容所著革命军一书,
百读不倦,梦寐之间亦常有如邹容与我对谈,相与共同驱逐满人者也。
幸于廿三岁时经国产生,乃得含饴弄孙,稍宽其怀,余亦略得告慰于慈母矣。
廿三岁冬,由振武毕业,送入日本高田野炮兵第十三联队为士官侯补生。~正松宽吾师团长。
~初入联队,正在冬季,雪深丈余,朝操刷马,夕归刷鞋,劳苦一如新兵,当时甚觉将来与
邻邦之作战或有苦于今日者,故事事争先,不感其苦,而日本兵营阶级之严,待下之凶,营
内之清洁整齐,余皆于此见之。
~乃于是年秋九月回日本联队消假,未及一月,即得武汉起义之报,余乃决心回国,故不假
而归,当时犹恐公使馆暗探侦查,故与张群潜抵长崎,登船后回上海,英士属余赴杭主持起
义事,余即作书寄慈母与胞兄,明告余为革命牺牲之决心,并劝慈母勿以儿之~
民国元年,为余廿五岁,是春以骄矜自持,为同事所排挤,乃即买掉东游,专习德文,亟思
留学德国,并创办军声杂志,当时以外蒙自治为俄国勾诱,心甚愤慨,故鼓吹征蒙,并征蒙
作战芻议,甚思提一旅之众~
~盖此时力思研究外交与军事为政治上植一基础,以深悔是年挫折,全为交友不良,与智识
浅薄耳。同季?回沪,以环境未改,诚不改狎邪游,一年奋发,毁之一旦,仍未自拔也。
民国二年,廿六岁新春在家,母亲爱之甚,仲春在沪准备赴德留学,适宋教仁同志为袁贼派
应桂馨暗刺于沪宁车站,乃知袁贼私心自用,决无效忠民国之望,孙先生乃命英士留余在沪
候命,不准赴德,乃止。
民国三四年间,余自觉进德不浅,专在悔字上,注重每悟昨非,而今犹不足也。曾文正、王
阳明、胡林翼全集研究至再,觉有心得,甚至梦寐之间亦不忘此数书也。
~回沪后,乃即东渡亡命,专攻理学,力求品性,亟思悔改昔日之非也,曾文正全集看完,
而目力亦伤矣。
民国四年,廿八岁,是年上半年余在东京专心于政治学与军事学,每日习字、读书、皆有常
课,毫不间断,英士以革命势急,袁氏称帝,野心亦露,日本廿一条密约将成,乃驰回东京,
日夜与余,~适总理娶孙宋夫人事起。
~是秋余乃应召回国。
民国七年三十一岁
是年为余族修谱之期,余自撰祖父斯干公及父之事略,又撰哭胞弟瑞青文,以聊解母亲之哀
痛,并名经国为建丰,继于青弟,以慰母亲念子之心,名纬国为建镐,以继承我后。
3
1918 年
1 月 8 日开始 提要(交际)、(通信) 气候、温度
1 月 20 日
提要(通信)栏:纬儿今日能开步行走数步
1 月 22 日
提要:乡人器小局窄,不知国家为何事,又不知吾为何如志,见余之所为,未有不为之惊骇
也。正为乡愿是似而非者所排斥,吾惟求吾志之不泯,吾心之无愧而已。 点楚辞,看中
国哲学史。
1 月 23 日
吾岂可为乡人之毁誉荣辱,而易我初心乎,所念者惟母在也,梦寐间亦忧贫困,与治诚清算
问数,恨其不知困难,而耗费如此也,早间一起床,与其争论也。
1 月 24 日
哈郎药自今日服起。
1 月 26 日 近日宗族关系,思念甚切,今年修谱时,极思追溯祖始,详序一篇,无信妄
动者。不可不断绝关系,以为将来事如计也。
1 月 27 日
吾何贪滥如此,以暴弃远大之前程耶。
1 月 30 日 午前整书,研究历史,午后温习陆军大学参谋演习记事。
良知未改,静敬淡一之功未全也。
NO1-3
2 月 1 日
2 月 2 日
洽卿贷款五百元,含前数为三千元。
午后因有人窥探,故至事务所暂避,晚至吴家寄宿。
爆竹之声,增旅人怀乡之感。
2 月 9 日
自出世办事以来,拮据困穷,未有如今年者也,然而尚能从容过年,不可谓非幸事也,忧愁
之余,反增一番快乐之象也。
今日至阴历正月一日,尚有二六小时之久,战战兢兢,不可谓我已过年矣。
2 月 10 日
膺白之狡诈,使人痛心,人而无诚可乎。
午后在寓敬神。
今日为阴历除夕,余在沪安乐如常,而家中老母妻子,当又为余系念也,思之凄怆。午前整
顿房屋,午后看参谋演习记 10 页,晚邀知友沧白、景梁(丁景梁)、淡游、佩箴在寓饮杜苏,
亦一乐也。
2 月 11 日
午后马君武,丁景梁等来会,赌牌。
六时起床敬神,自七时起静坐一点七分时。
2 月 14 日
人心狡诈恶劣,不堪回首设想,此中国所以日弱也。晚看平浙纪略。
2 月 15 日
4
各友在寓滴红,余亦动心同赌,是不能不为小利所诱也。
2 月 16 日
极忧人才缺乏,部下无人,甚为出化虑也。
进行时,要预为退后着想也。
2 月 18 日
拟改“专静纯一,和平虚明”八字为“虚中”二字。
近日记忆力顿减,差忘之事更多矣。
2 月 21 日
~与二、三同志扑克。
2 月 22 日
昨日杨君、沧白为吾母追述五旬寿序之稿,其文之美,且有嘉奖吾之弟过甚处,感愧交集,
思之不能成寐。
午前略看日俄战史地图。
晚沧白为我在家饯别,戏牌。
2 月 23 日
奸民恶党,趋炎附势者不杀,不足以挽民风而救中国。
2 月 26 日
午后及晚看防海纪略。
2 月 27 日
军事之胜负,在最后五分钟,能忍耐者胜也。
NO1-4
3 月 1 日
致一濑函。
午前看阵中勤务令,午后看战略论。
3 月 2 日
九时搭小汽船,十时半至吴淞口上船。
3 月 3 日
终日看初级战术。
3 月 5 日
九时船抵香港口外,验照。以有俄国人同船,英人恐其敌探。
七时前车抵广州。~睡于西濠酒店。
3 月 6 日
午前往见中山先生。
3 月 7 日 季陶来谈,~往元帅府照相。
3 月 8 日 午后往见中山先生,回馆后,看鬼语,嬉女色,晚应仲恺招宴。
3 月 9 日 七时半搭船,午后看鬼语完,~三时登岸,投宿于大东旅馆。
3 月 10 日 鬼语当为基督教徒所著,而参以哲学之旨欤,然灵魂学,余亦极愿研究者也。
午前九时上船,十时出帆,午后看初极战术,野战炮兵基础战术完。
3 月 11 日 今朝九时船至汕头口,十时登岸。
四时后投住于幸坂洋行。
3 月 12 日 午前往总司令部阅各规程。
3 月 13 日 午前往总司令部
3 月 14 日 自今日起,改专静纯一,与和平虚明二语为“虚灵”二字。
5
午前往总司令部与仲元兄商议作战计划。
晚与季陶,仲元畅谈往事。
3 月 15 日
忍耐五年,用功五年,不过卅六岁,何事不可为,何事不可成。
午前到总司令部,就上校参谋职。
晚应总司令陈公竸存之宴毕,与邓参谋长商议计划。
3 月 16 日略
3 月 17 日 二时醒后,色念妄想,纷杂不堪,四时起床。
3 月 18 日 七年以来,茹辛含垢,未有如今日之甚者也。
3 月 19 日 七时由黄冈乘马起程,行近十里许。
3 月 20 日 十时后,由樟林起程,午后四时半抵汕头。
3 月 21 日 研究作战计划。
3 月 22 日 四时半至潮洲城。
3 月 23 日 略
3 月 24 日 午后四时船抵留隍镇。
3 月 26 日 午后四时由三河开船,赴松口。
3 月 27 日 半夜醒后,色念野心不已也。
午前十一时船抵松口。
3 月 28 日 七时二十分由松口乘舆起程,至午后五时半方抵焦岭。
3 月 29 日
午前与汝为、礼卿二兄商谈一切。
晚应许司令招宴。
3 月 30 日
二时半由蕉岭,起程,六时至新铺渡,搭民船。
3 月 31 日 七时船抵松口,~午后零时三分抵三河坝,六时在船中晚餐。
4 月 1 日
今日几与卫兵又起冲突,暴躁殆甚,须改之。
午前十一时船抵潮洲,竹篱山,~(午后)二时半抵汕头,入司令部,即外出,往幸坂洋行
入浴。
4 月 2 日
接家书,每见家兄字句,俗不可耐,鄙陋尤甚,读其书,未有不为之闷闷也。
4 月 3 日 午前写冶诚~各函。
4 月 5 日 作今后南北两军行动之叛断。
4 月 6 日 今日滇军内部冲突,几用武力,军情如此,焉能打仗,焉能救国,吾手恨无三千
兵,否则不难制敌人之死命也。
4 月 8 日 中国之乱,乱于军队,中国之亡,亡于军官也。
4 月 11 日 午前总司令开秘密会议,决定攻击开始日期,晚傍外出探色,即回。
4 月 12 日 终日修改训令稿,晚傍外出探色,即回。
到此尚不自觉其身世之艰难,此身究不知如何结果。?志卑思,重起炉灶,尚忧不及,而乃
悻悻于色者,其何为哉。
4 月 14 日 三时乘火车,四时半至潮安,晚宿于潮安旅馆。
4 月 15 日 六时由潮安搭轿起程,~午后七时半抵饶平,宿于夏述唐司令部,商议进行方
法。
6
4 月 16 日 午后二时起程,五时半抵东关。
4 月 17 日 午后三时抵潮安,~四时半由潮安搭火车,七时至汕头,回总司令部报告情况。
4 月 18 日 午前参谋会议,决定兵力配备及第二线防阵地。
4 月 19 日 看参谋要务。
4 月 20 日 革命至今可以止矣。
晚傍与参谋长商议计划,知南雄失守,闽赣联络,包围之局已成。内部复杂如此,革命至今,
现象如此,不觉心酸矣。
4 月 21 日 午前会议,决定战期,写先生信。
4 月 22 日 得唐立尧遥戴冯国璋为副总统,推岑春萱为总理,□□此种奸谋必出于李烈钧与
李根源二人之手,呜呼,西南派乱国,其肉不足食矣。
4 月 23 日 看经史百家简编。
4 月 24 日 午后~看拿破仑本纪二十页,晚与总司令议事。
4 月 25 日 看拿破仑本纪至第七章。
4 月 26 日 看拿破化本纪至第十二章。
4 月 27 日 终日看拿破仑本纪至第十八章止。
4 月 28 日 终日看拿破仑本纪至二十四章止。
4 月 29 日 午前看拿破仑本纪迄午后四时,至三十三章止。
4 月 30 日 午后看拿破仑本纪。
5 月 1 日 午前看拿破仑纪完。十时起程:午后二时抵潮安,~五时由潮安起程,搭小汽船,
船中看佛学浅说。
5 月 6 日 午后写果夫、子培,淡游,仲元,精卫,伯澜及冶诚各信。
5 月 8 日 十时半抵汕头,即入总司令部,见总司令、参谋长,知孙大之帅已辞职,以非常
国会改组军政府也。
5 月 14 日 西南土匪官僚之肉,其足食乎。
5 月 26 日 恭迎孙大之帅 驾。
1918 年六月
6 月 1 日
午前同中师商议进行事宜,及受编制之教。
午后补录日记。
6 月 12 日 军队不奉命,及办事之无手续,是为最苦之事,使我脑为之痛,心为之忧也。
6 月 21 日 见李炳荣司令,面斥其遁逃之非。迄今思之,未免太过矣。
6 月 22 日 今日写述唐、仲元、星羽、冶诚各信。
6 月 25 日 自就职以来,受耻思辱,为从来所未有,决辞职三次,而卒不果辞,半以时势
所迫而不得辞,半以忍耐为主而不即辞也。心则愤激、耻辱、辞退、牢骚、疑虑、妄想、求
心、机心,患得、客气;言则卖智,惭懦、淆涩,欺妄、半解途说,动则怠惰,怨色诸过未
改,良知略致,静敬淡一之功未全也。
6 月 27 日 事之最可畏者,非真敌,乃在于内部不诚,知其奥巧,而进退两难之时也。
6 月 28 日 看太平天国外记。
6 月 30 日 兵在精而不在众也。
1918 年 7 月
7 月 1 日 军纪不整,军法不严,未有能胜敌者也,故辞退之心甚坚。
7
7 月 2 日 看西洋通史八页。
7 月 4 日 今日见岑春煊通电,知其已于二日到粤,将就总裁职,呜呼,此老不死,国亡无
日矣。粤省自杨永泰为财政厅长,钮永建为兵工厂监督,李根源为边防督办,李烈钧为边防
总司令,大权皆落于岑派之于,作恶更甚。
7 月 13 日 接精卫函,知所谋不成,心甚愤激也。
7 月 16 日 午后看西洋通史完。
7 月 17 日 本军开战至今,正两足月矣。
7 月 24 日 西比利亚、霍尔瓦斯政府,与海参威政府,两相分离,皆为日本所利用,而置
国家于不问,其不步中国之后尘者几希矣。
午后~看沪报,始悉十五日左右,日本政府已主张出兵于西比利亚,,各国似亦赞成其事,
以后吾国战局,当不因此变更,以段派联日,或因此更助其炎乎?
7 月 25 日 ~见许司令汝为覆电,再三支吾,不遵令攻大埔与峰市命令,愤激殆甚,汝为
为吾私友义交,而总司令与我固无一点私情者也,予见此,不能不为吾友羞也,故辞退之甚
坚,明白事理者,尚属如此,无复何言。前途悲观,可想而知矣。晚八时睡,不能成寐,起
而办公。十时后再睡。
7 月 26 日 今晨整装,决心辞退。
接家书及家物。
7 月 31 日 今朝六时起床,写辞职书。~自即搭民船下潮安,决计归沪。
1918 年 8 月
8 月 1 日
正午搭火车赴汕,车中遇陈其尤,~总司令特派其来沿途挽留也,接其手书,~百言,有粤
军可百败而不可无兄之一人等语,其言~,使人心悲,不免含泪而思也。
8 月 4 日
八时起床,船抵香港口外。入松原别馆寄住。
8 月 5 日 英文又不可不读也。
8 月 6 日 有日人形似侦探者来馆,而馆役傲惰,轻视中国人之态度,见之心恶,被乃与此
形似侦探者耳语?顷,心甚疑之,而胆未怯也。晚辗转不寐,看民国野史。
8 月 7 日 与仲恺乘自动车游香港,约两小时。
8 月 9 日 今日看明鉴易知录,卷九完,看民国野史若干篇,此书诚荒谬极矣。
8 月 10 日 正午与仲恺兄往访日人泽田及三井住香港支店长林君,见日友自觉惭羞无地,
而另生一种不可思议之感触,抑郁殆甚也。
8 月 11 日 受馆仆日人之轻侮,愤恨殆甚,与此下等社会之计较,又无益,故忍耐之。
8 月 13 日 今日之患,不在国政之不良,而在人心之狡猾,卑污,毫无宗旨,以致善恶不
明,惟个人之利是图,如吴承斋,张群者也。
午后以馆仆不敬,侮辱华人,心甚忿怒,以其为下等社会,权恕之,及出而兑换船票,其邮
船公司之店倌,言语形容之间,无不有一种轻侮国人之意,刺激殊甚,国未亡而民先辱,东
奴之骄横,一至于此,有心人如不为之愤斗兴起,则亡国灭种之□,必有甚于今日受辱~来
也,可不戒哉。
8 月 14 日 看天演论卷上完。
见东奴之侮辱,未有不切齿痛心,彼以华人之可侮,故偷者偷,欺者欺,人格固无,民德殆
罔,岂可谓有教育之国民乎,思之发指,恨不能以独力歼其种,灭其国也。国人有耻,当不
忘今日之受辱也。
8 月 15 日 提要:根基不固,礼让不讲,徒尚武力,专恃侵探,而以野蛮横暴,为习俗者,
8
久则百年,短则无定,其国未有不衰亡也。
见东奴而心恨,以其为侮慢国人,仇雠之念,不可压抑,其为吾人神经作用之所致,亦有若
干关系乎。
九时后睡不成寐,十一时后,方得安眠也。
8 月 16 日 一言之不合,一事之不如意,乃即忿忿,辞职独行,不特于理不合,而且于法
亦不对也,上官不以罪责,而反以情留,亦云极矣。而乃又以言责上官之留我为太过,是诚
不自友之极矣。昔以以志帅气,以静制动劝友人,而今日不志不静,一至于此,每一念及,
不禁惶愧无地矣。
八月十九日正午誌。
8 月 17 日 仲恺来谈,提及军政府交代事,岑春暄不承认,为之愤激不堪,然而本党办事不
周,手续不完,往往弄自,~之政策,亦可叹也。
十一时半出帆。
注 8 月 17 日 日记有两张,其中一张提要部分被涂,另一张未被涂掉,其内容如下:见女色
而起势利卑污之心,甚矣,色之为害也,可不戒哉。
8 月 18 日 今次船由台湾基隆埠经过,寸衷萦怀于昔日之历史,大有感慨不置之状也。
8 月 19 日 闻日本民乏食,忽起骚扰,天有不测风云,而况专制之政乎。
今朝六时前起床,登游廊,眺望台北基隆港之形势,其港水似不甚深,两岸列山成港,而山
不甚高,其右岸沙滩礁石较多也,以无意游览,故未登岸,而所见所闻者,无非日人日语,
抚今思昔,感叹不置。
8 月 20 日 吾心目中常有一至大迷信,常以为无(天?)道循环之理不灭,吾国必不至于
灭亡,以今日世界民权澎涨时代,帝国决不能久存也。
8 月 21 日 九时后,船抵黄浦江中,由?平君来船招待,即登岸乘汽车到家。
8 月 23 日
北京新国会,众议院举王揖唐为议长,刘思格为副,参议院举梁士治为议长,朱启铃为副,
而朱启铃尚不肯就职也。
近日复辟风潮甚剧,将来南举岑春煊为领袖,北举徐世昌为总统,则此祸终不能免也。
8 月 23 日 晚访中师,心甚悲郁,极忧党魁之公平,不适于国情,以致党务不能发达也。
8 月 24 日 午后~习英文,自由自在一章。
8 月 25 日 午前习英文,写胞兄及星垣信。
8 月 26 日 习英文。
8 月 27 日
8 月 28 日 午前习英文,~晚傍习英文。
8 月 29 日 午前习英文,~午后~读英文。
8 月 30 日 午前习英文,~午后~读英文。晚统中师家,商决余返汕复往事。
8 月 31 日 午前习英文,~午后~习英文,看易知录六页。
国是不定,乃人心狡猾之故也。当今之世,如欲换风易俗,非涤除污秽政客,囫囵策士不可
也。
1918 年 9 月
9 月 1 日 午前习英文看报。
9 月 2 日 晚宴日友筱崎医院长。
9 月 3 日 接仲元信,催予回军纪事。
9
晚~访中师。
9 月 4 日 午后~访孙中师,~晚访精卫。
9 月 5 日 七时往山田家,八时前起程,上鹿岛丸,开船时刻,改至午后四时,以寂寞,乃
招纬国母子来船游玩,聊解寂寞,午后三时半,纬国母子上岸,告别,四时开船,船中略习
英文。
9 月 8 日 午前七时船抵香港口外,十一时分着岸, 登陆入东京旅馆,以其轻侮华人,招
呼不灵,乃于午后,迁至大东酒店。
9 月 9 日 晚餐,招妓雪丽红侍酒。
9 月 10 日 泽田来谈。
9 月 11 日 午后访泽田。
9 月 13 日 午前十时上岸,赴总司令部,见邓参谋长。
9 月 21 日 午前同总司令议事。
1918 年 10 月
10 月 7 日
军队最忘拥肿与麻木,麻木则不仁,拥肿则不灵,本军今日正面之队伍,实蹈此二病也。
10 月 19 日 (戊年九月十五日已亥) 土曜日
阴历本日为我诞先日,上午~后,敬神~。
10 月 20 日 今日为我援闽粤军第二支队司令部成立之日,下午写冶诚、景梁、元冲信。
10 月 26 日 战争在最后五分钟忍苦而艰,坚拒不动,使敌人寒心,乘其怯畏而击之,则胜
矣。
1918 年 11 月
11 月 2 日 上午拟军中歌
11 月 3 日 上午拟军中训诫。
11 月 17 日 晚宴乡绅。
11 月 18 日 致镇巨,益卿两儿各函。
11 月 22 日 晚会地方士绅。
11 月 24 日 上午写总座信、办公,拜谒县长及绅耆皆档驾也,县长以饷粮关系,避而不见,
愤激已极,然此种劣官,以后方□戈之技为依据,余亦无可如何。及其来见余时,晓之以大
义,不可准种鸦片,及纳鸦片捐,彼竟公言禁之不得,故不如放之,以利库饷,闻之心痛,
其余言行之恶劣放肆,忽不可述,此朱不除,不足以快民心也。下午会当地士绅,晚请士绅
及本支队官长。
11 月 25 日 午前邀请朱县长及各乡绅来部,谈商筹款事,而无一人到者,惟县中科长来探
消息,而余则始以和言相劝,终以恶言相吓,盖心甚愤激也。
11 月 26 日 ~途中心甚急促,以饷款无着也,~到永春城知筹款事,毫无头绪,官劣绅贱,
非情理所可,~召绅商会议,以余不在场,出言诸多亵渎,刺激不堪,决意用强权对付之,
非此无法也。闽民之犯贱,较他省尤甚也,~然朱县长骄劣极矣。
11 月 28 日 强迫筹饷,问心有疚,然官劣绅狡,非此不能支持也,然而愚民无知者苦矣。
上午接覆吴礼卿兄信,指示出发各员,交涉筹饷事宜,派拔部队往五里街监视富商,以为示
威募饷之计,盖非此不能出发进攻也,下午入浴看纬儿写真。
朱县长派人来谈饷筹事,余以情理说之。
11 月 30 日 今日由永春城出发,向永泰县之嵩口地方前进,昨日朱县长已交来饷项三分之
一,而其籍此威胁中饱者,不知凡几,小民何罪,吾之阴骘伤尽矣。
1918 年 12 月
12 月 9 日
10
三时后至永泰县城,入县署,闻各营争论入城首功,及望县知事之职,甚烈,后闻予自兼知
事,则各人方散,而第三统领所部之赖营长冠春,匿印不交,第三统领争据盐局事,心甚愤
激,然亦无可如何也。各士绅及美教友来会,强疾一见也。
12 月 22 日
回忆此次失败之原因甚多……
12 月 24 日
接总统手函命令,悲伤不堪,为之泪下。
12 月 30 日 近日朝醒,色念甚浓。
今日所念念不忘者,在永泰失却应用及已看书籍甚多,而去年日记簿未知□在其内否。
杂录
今年晚间静坐时,所定默诵诸条如下,一、万象森然,冲漠无朕,二、去人欲,存天理,三、
心体,意动,致知,格物,4 句要诀,四、静坐收心之条,五、纷杂思虑之条。以上皆由王
文成公集中所采取者也。
7 年十月二十日支队司令部成立,祭旗文,优愿尔今尔后,战必胜,攻必克, 统一中华,
平定全亚,威振寰宇, 光耀西极之几,皆自今日始,皆自神灵赐也,祷我神祗,来格来歆。
RP 生物器病英名
(1)kali hyper 日语
(淋病用)上流入尿道(红色) 水银软膏 日语
2、上注入尿道(白色)
3、(内服)上分~二日服(利尿解毒)
4、血淋~一日服(止血)
一濑 东京京桥区日吉町、潘城南,~转
东京府大塚宫仲 2230 中野二~转
洁如 松上羊市红庙前廿八日
季陶 成都少城四道街廿九号
11
1919 年
1 月 其他日期不清楚
27 日 注射*******.。(日期不明)下午看政治学大纲,习英文 。
2 月 没有**. 3 月 7 日
上午写竸公,及启民信,访周寿卿君,决意下午搭船,由港回沪也。下午写信,预备起程,
三时后上船,四时后由厦门出帆,以浪大未食而睡。
3 月 8 日
一时后到汕头即登岸,投借日本旅馆,以其工人有轻视华人劣态,故即出而至壹春中食,4
时回船。
4 月 1 日
为次男纬国牵扰,心甚散漫。
4 月 2 日
下午应?霖,招宴,访中师,叙谈一小时。
晚会友, 久侯湘娥,~甚嫌恶也。
注:1919 日记有很多地方被涂掉,应是蒋本人所为。
1919 年 6 月日记最后一页
蒋,一国名,周公之后,今河南固始县东,东将~国也,
二、姓也,周公子伯龄,封于蒋,其子孙以~。
8 月 1 日
杀敌攘夷,用谋扬威,吾以班仲升为师范也。
8 月 4 日
陈总司令派其尤兄劝回原职,余决不回位,惟言语躁切,有毁诋仲元之语。
8 月 9 日
俞樵峰军需来谈,言及淡游后事,及乡人谣言,心又愤恨,牢骚无状,举动失常矣。
8 月 13 日
近日看通鉴,略有趋味,觉有看之已晚之悔也。
8 月 23 日
吾人最大之心病有四。逆来者,以客气妄想未除,而正诚平实不足也;恋往者,以仇恨耻辱
太多,而涤荡湔雪不到也;杂念者,以贪恋驰鹜未绝,而守素?一不勇也;慌忙者,以轻浮
躁急太甚,而静敬沈深不重也。
8 月 24 日
自拟儿童应读之书,曰尔雅,曰诗经,曰易经,曰左传,曰孟子,曰庄子,曰离骚,曰三才
略,曰读方舆纪要序,曰九通序十种,其余如史记,菁华,经史百家简编,亦宜熟读也,反
省平时弊端,择字以自警惕。
1919 年 9 月
9 月 1 日 拟将欧战,和局结果,及今年国内学生风潮经述大要,而无暇及此,尝用牵念。
9 月 3 日
晚往屿南海滨游览,心甚依恋,及口占数语,以论之,曰:明日当空,晚潮汹涌,国事朦胧,
私心忡忡,几时洗得我念净,照得我境空。
9 月 6 日
今日接母亲谕。
12
9 月 7 日
上午奉寄母亲大人禀。
以后课程表如左
上午六时,起床,静坐三十分时记事。
七时读英文,八时朝餐,九时至十二时看通鉴。
下午一时至二时休息,二时半至四时看鉴。
四时半至五时半读英文, 九时静坐。
9 月 9 日
晚应美国人麦斯德之宴。
9 月 13 日
上午闻邻舍凶妇闭门鞭婢,残虐凶狠之状,心甚担恻,去年在永春,亦闻陈妇鞭婢凶狠,甚
为可怜,今则更甚,不胜代忿,中国奴婢之制,不驱除殆尽,尚何有社会平等之可言乎,吾
觉欲求平等,第一步当先除奴婢毒制也。
9 月 18 日
上午~往医目疾,据医者诊断,非(笃拉霍姆)甚可医愈,心方安平,以可以赴美国也。
下午~与纬儿玩笑, 心殊愁闷。
9 月 25 日
写作梁胞弟泽田来访。
9 月 27 日
今日候船不到, 心甚急促,以待沪友来信,方定去向也,未刻船到夏,傍晚,往邮局取信,
信()自取,殊为可笑,中国政务之腐败,皆如此也。
9 月 28 日
六时起床,宁波号船由厦出帆,与纬儿在舱外散步。
9 月 29 日
上午与纬儿玩笑,此儿〇跳跶活泼,日甚一日,为可喜也,~明日必可抵沪也,甚喜。
9 月 30 日
本定今日抵沪,为风浪所阻,不~。
1919 月 10 月
10 月 2 日
7 时起床,静坐二十分时,上午遍觅房屋而不得,在季陶寓中遇朗西,叙谈同志中死亡诸友,
不禁流泪,呜呼,伤心极矣。下午假眠一小时,往访各友,晚在季陶寓住宿,半避豺狼政府
之毒焰,半避卖笑妓女之圈术也,今日灰心无聊愤闷抑郁,悲伤极矣。
10 月 4 日
上午往访徐李龙先生,谈耶苏教事约二小时。
今日心绪抑郁无聊,举动辄多阻窒,不胜自惭自愧,凡所见所间,所思所虑,无不为我可悲
可观之境,内疾日?,外遇多恶,瞻前顾后,世界之大,竟无方?立足之地也,世态炎凉,
本所常尝,然而今日未可谓之炎冷。是乃吾神经作用。(以下被涂掉半行)
以后个人方针,先求经济独立,不依于人,然后培养后进,尽力国事,注重社会,激浊扬波,
涤荡秽污之日,当以五年为期也。
以后个人之学问,以欧语,经济、哲学、军事、历史、地理为重,近日拟以欧语与历史二者
着手用力也。
学问之道有次序(即前后)有轻重、有深浅、不可好高骛远,亦不可助长欲速也。
10 月 8 日
近日极思泉林之趣,如能作三家村主人翁之一,自课自料,以享至上之幸福,则于愿足矣。
13
10 月 12 日
晚佩箴来谈交易所用人事宜,八时半睡。
政客,武人,官僚之外,商人之狡猾势利,尤为可恶。资本之不扫除殆尽,则 家无乐?自
由之道,绅耆阶级之不打破, 则平民无伸张权力之理,为平民之障碍者,不在官僚与武人,
实在资本家与绅耆,千格其间,以致一切权力,不能伸张,一切意思不能自由,而政客议员,
各为民意代表,实则媒介于绅耆官僚之间,凡有罪恶,皆以此种蠢贼所造成者也,吾以为革
新社会,资本家与绅耆二者之中等阶级,须先扫除廓清,至于武人与官僚为尤难,以其之罪
恶,隐优而不显,不如官僚与武人之罪恶人人得指之也,且其操纵于上下之间,而又迎合于
上下之心理,社会实受其害而不之察,诚所谓恶声之乱雅尔,不可不知也。
10 月 16 日
晚纳闷,与纬儿消遣
10 月 19 日
回顾往事,远虑将来,不胜忧愁,世态炎凉为何而不独行吾道,必欲同此清浊自溺其心也,
直至二时后方睡去。
10 月 21 日
姚妾之无理,实为可恶,怨恨不堪。
10 月 22 日
近日为家?及世态所迫,灰心不堪,个人志愿,四十岁以内专一求学,不事外务,培养德业,
四十以外,如有所遇,则幸焉,否则,淡泊明志,以终吾身,不与世俗同污,不为外物所诱,
独立不群,得与豖鹿为友,草木同腐,亦所愿也。然而人情难忘,若学未足,时未热,仍不
免为党义所动,入此旋涡,而不能脱离,是则学业将为主义所害,实我之大不幸,然而无可
如何也,茫茫前途,不知何所底止耶,悲不自胜。
10 月 23 日
过去之罪恶,悔恨无及,将来之嗜欲奢望无穷,若不除此二者,将何以求学立业也。
注:《蒋介石年谱初稿》10 月 25 日有误,蒋之文章名,应为《列国政府对付俄国劳农政府
的手段如何》与《打破外交的迷信问*》。
10 月 31 日
今日为日皇生辰,民间庆祝,似不如从前之狂,见其交通道路,似比从前发达,而民言沉闷
不伸,是有一种不可思议之形容也。
11 月 2 日
上午致朝阳,元冲,执信,仲恺,季陶汝为诸公各函,中食于陶陶亭,系陈中孚所开也,下
午?过日比谷公园看菊花会,殊多美观,晚八时睡,今日青年团同盟会在日比谷公园开会,
予以时间太迟,未得参观,殊为怅之,世界潮流进步,诚所谓一日千里,万难强制,日本改
革之期,不满三年而至,其乎即在目前乎,吾人对于时势变迁,殊堪惊叹,其将何以应此美
满壮列之潮流乎,择学愤进而已,今日能窒欲是一美德,但耻辱色念,客气之过,仍未改也。
近晚屡梦母亲垂爱之状,昨晚竟以呼之?之声惊醒,不禁凄沧?之,母亲其康健无恙乎。
11 月 3 日
上午致佩箴函,往购眼镜,中食于塚原处,下午往须田处医眼,为时过早,故未诊视,便道
购物,及往书坊视察,观其所出书籍,以社会主义之书为多,吾知其社会改革,必不远也。
以中国人民不识字者之多,提倡革命,不及十年,而得实行,则今日日本人民之智识普及过
于吾国者,其改革之速,更可知矣,傍晚,吊田中之丧。晚食于陶陶亭,九时回馆睡。
日本商人之欺诈,甚于从前,几于三家二骗,其人民道德之堕落,可以知矣。
11 月 4 日
人生之根本问题解决之后,方可再学其他也。(此句加在空白)
14
上午致觉生,果夫,枕?,及胞兄各函。
下午往见纬母重松金代,往菊地屋购书,晚八时后睡,色念屡起,几不能制也。
11 月 5 日
七时半起床,静坐三十二分,~上午看报,拟“列国政府对付俄国劳农政策的手段如何”文
稿一篇,投于《星期评论》,约二千字,至下午三时后脱稿,晚傍往日比谷公园观菊花大会,
其间数种菊花美丽,实足赏赞,散步至森福家,却遇菊池,心甚惭愧,晚饮于红叶馆,十时
回馆睡
俄国渥沐欺克政府,为劳农政府压迫,故迁都于依鲁苦之库,攻击彼得格勒之游代?欺军,
为劳农政府军击退由??退走,利宁政府之地位,因为更加巩固矣。
北京政府任靳云鹏为总理。
11 月 6 日 八时起床,静坐四十五分时,~上午致季陶函,下午外出购书,晚七时后睡。
11 月 7 日
欲立品,先戒色,欲立德,先戒侈,欲救民,先戒私(此句加在空白)
八时起床,静坐三十分时,~上午理发,诊犬塚?太郎君,下午购书,〇〇会客,晚宴于森
福家,十时回寓,睡。
11 月 8 日 上午撰(打破外交的迷信问题)文稿一篇,未完,同森福,山田,菊池诸君往
游上野展鉴会,下午游三越吴服店,晚往森福家待花,意不如愿,又讨一场懊悔,介石介石,
汝何不能戒色也,一时回馆睡。
11 月 9 日 上午?撰昨题文稿,下午研究欧洲地图,外出游日比谷公园,晚宴于森福?,
十时后回寓睡。
11 月 10 日
上午看报,购书,下午 定辅(秋山定辅?),谈话一小时,此公深沉老练,不可轻也,吾
亦获益颇多,乃知见人不可不战(?)上一等也,八时~睡。
11 月 11 日 六时半起床,静坐三十六分时,~上午八时由旭馆起程,搭八时半火车,至
下午七时四十分,到西京,入木尾(屋?)町之中村尾(屋?)旅馆,虽小,其主人招待殷
勤,甚为安慰,十时睡。途中色念,慌忙,畏悔之过未改,良知略致,静敬淡一之功未全也。
11 月 12 日
上午研究大演习战况,下午三时后往万豪。(此处被涂掉五行)然而思归之心益切矣,十一
时后睡。
近日心甚不乐,到处皆为我所嫌弃,亦无不为人所嫌弃,似乎在我之傍,为我耳目所能及者,
若非美女,精兵二者,皆不足以起我懽(欢)乐也。(注:美女、精兵傍加。。圈点)
11 月 13 日
八时后起床,静坐廿八分时,~上午往游桃山,参观明治之陵,再往宇治川,参观菊花,其
风境虽美,而我毫不乐趣,反多 辱,竟使进退不决,并无着落 心,绕?我~,回馆后,
精神疲倦,悲愁不已,看报,及地图。晚间觉 上发热。服药后肚泻三次,疲甚,自惑心地
高过于人,志趋太过于人,奈何天压我境,使之如此悲愁也。
11 月 14 日
八时起床,静坐十九分时,九时搭车,拟赴神崎,参观大演习,及至其地,而演习已毕矣,
乃借便食店,暂时休息,精神不畅,色念又起,假眠片时,下午二时,搭车;四时抵西京,
晚六时睡。
11 月 15 日
七时起床,静坐二十九分时。
上午九时半搭车,由西京赴神户。(此处不清,推断如此)
下午修须,购书、写信,晚八时睡。
15
11 月 16 日 七时起床,静坐三十分时,上午发犬塚、山田、菊池各函,十时搭八幡丸,
十一时由神户出帆,航经须?一方,遥望其景色之美,无异一幅天然画景色也,恋爱无已,
下午看俄国革命记,想望 ,晚与沈王桢君谈天。十时睡。
11 月 17 日 见原本
11 月 24 日 接竸存,菊池诸函,~下午~看新潮。
近日思想渐趋平淡,欲为社会上做一番工夫,但私利与野心客气,终不能消除也。
11 月 25 日 上午往访元冲,未晤,下午达天来谈,送元冲游美之行,晚八时睡。
11 月 26 日 上午看新潮,下午~研究欧洲新地图。
11 月 27 日
上午写静江信,填证券,下午研究俄文,往访执行及中师,晚季陶来谈。
11 月 28 日 上午往读俄文,下午习俄文,晚八时后睡。
11 月 29 日 上午习俄文,往读俄文,下午~看《东方杂志》。
11 月 30 日 上午看申报,下午看《东方杂志》,~外出找屋,晚八时睡。
No.2-3
12 月 1 日 上午往读俄文。
12 月 2 日 上午习俄文,下午同季陶乘汽车游行沪西,汝为兄来谈,看托尔斯泰人生观。
正午读俄文回,途中晕融,几不能行,可知脑筋钝弱,不能学习俄文矣。
12 月 3 日 见文本。
12 月 4 日 上午看《新青年》杂志,致山田函,~下午往访季陶,晚往大世界游鉴。
12 月 5 日 看《新青年》。
12 月 6 日 上午~习俄文,下午看新青年,~晚食于大观楼。
12 月 7 日 上午看报,习俄文,下午看新青年,定程表。
12 月 8 日 上午习俄文,访季陶,下午看孟舍路著《经济学原论》往租尾,接之冲信,往
访邵母。
12 月 10 日 下午看易卜生?
12 月 12 日 今日吃龟鹿胶,起始,晚间不能熟睡,未知与此胶有否关系。
上午习俄文,看津村秀松著《国民经济学原论》第一章,下午~往访中师,知犬塚逝世。
12 月 13 日 三时往访李君云书,会日友,明渡知瑜,又访静公,晚在云书家宴日友。
12 月 14 日 下午~往云书家与日友会谈协进社事,纠葛不解,狡猾半呆,实为日人之所长
也。
12 月 15 日 三时至(云书?)李寓会商协进社事。
12 月 16 日 四时在李宅会议。
12 月 21 日 上午迁居于见勒街,三六九号,下午整顿什物,晚应森崎之宴。
16
1920 年
中华民国九年日记(1920)
Junuary 一月
1 月 恨治诚~
本月课程表(看不清)
1 月 8 日
九时起床,习俄语看哲学史大纲。
1 月 9 日 晚八时独睡书斋。
2 月 8 日 近日益悔从前娶妾,~动之卑贱,心术之贪狠,又愤家庭惯习之固旧,社会之龌
龊,友朋之狡猾,急?离乡出国,以求我独善其身之道也。
2 月 16 日 纬儿腹痛,几乎终夜不能成眠,育儿之苦,非言可喻。
2 月 18 日 定五年内课程表
2 月 22 日 八时起床,往访中师,遇日友罔峰理治~,介见时,称许异甚,垂爱之状,不
可言喻,自愧殊在~中师之赞也。
2 月 24 日 九时起床习俄语,往访季陶,商量往办军官学堂事。
2 月 25 日 乘马一周。
2 月 26 日 九时起床习俄语,下午陪母亲外出照相,谈天,晚九时睡。
2 月 28 日 下午往访中师。
2 月 29 日 看杜威讲演集。
NO2-6
1920 年 March
3 月 1 日 下午陪母亲谈天,至二时半,母亲起程登船,余不能送行,此别虽有依依之情,
然不若前几次之伤悲也,故卜母亲寿长,母子相见,有其时也,别后个人在寓寂寞,含泪思
亲,终不能~恩也。
晚应协进社之招,心实不愿,而事合乎情也。
3 月 2 日
治诚较勤,纬儿活泼,尤为可喜也。
3 月 8 日 鸣涛来,知毛某已来泸念念。
3 月 11 日 会德国友人,“秀?而好诗”,下午侍候写字,三年来为母亲五十晋五寿??,
每用牵劳念,至今方告竣,心为之稍慰,一星期中,倦甚,叹甚,荒废课程,亦一周间矣。
3 月 12 日
久不出外,在澡堂洗澡,今以不得已与某外出入浴,即为堂倌所欺侮,上海社会之恶劣欺生,
不可言喻,而吾自亦卤莽不细,以致人欺也。
3 月 14 日
七时后起床,云先兄来沪,见族谱,翻阅再四,不忍掩卷,乃知吾族之先进不少,而吾为东
汉函亭侯澄会之裔,亦得信史矣,此次修谱,多有鲁鱼疏漏之弊,因有感慨,故补誌于其后
也,下午定课表,外出教?,访中师,即回。晚应林士之宴,回、会沈君宜官,见之,面面
相觑,吾慰之曰,革命当不分国界,世界各国,如有一国革命能正真成功,则其余当可迎刃
而解,故中国人不必要在中国革命,亦不必望中国革命先成功,只要此志不渝,则必有成功
之一日,当先助其革命成功,能最速之国而先革之也,十一时睡。
3 月 15 日 检阅为经儿所买书。
3 月 16 日 为某事,又思索许久。
3 月 18 日 季陶来谈,商议赴俄事。
17
自思政治行为,为最俗不可耐之物,奈何,明知其俗,而不求脱离此关系,终为客气所胜耳。
3 月 21 日 今日以冶诚作鲠,贪横不堪,心甚愤恨,暴躁抑郁,疑虑,怨恨、诸恶丛生,
急欲脱去恶习,而又不能,中国妇女只可言授其教育,而不可急言解放,有教育则不待解放
而自解放,如不言教育而先言解放,则中国男子受妇女之祸患必伊于胡底,欲脱离家庭,以
求所谓自立,亦以此而已。
3 月 26 日 近日疑虑为同志所弃,心滋不悦,此又为客气,与失言所致,如能慎言自强,
于心无怍,虽无一友为群,亦可以特立独行,自善其道,何况所谓为同志者,非太过,即自
足,徒论阶级与界限之流耶。
近日看得国事,非国内所可解决,极思离国他行,得志则进,失志则独善其身,不与若辈为
伍。
3 月 28 日 八时起床,终日昏闷在家,精神恍惚,行动懒慢,晚八时睡。除正午为佩箴作
翻译外,实无正事可?也。~淫欲不惟伤身,而且伤脑,客气亦由此而起也。
3 月 29 日 竸公来电催赴漳。
1920 年 4 月
4 月 1 日
晚应各同志饯别。
4 月 2 日 跑兄今日起程赴闽,~应中师之召,商谈闽粤军事计划,晚写经儿及类甫,哲甫各
函。
4 月 4 日
竸公急电催往,今决于八月起程赴漳矣。
夜中皮肤痒不堪也。
4 月 8 日 正午上船,二时开船。
4 月 9 日 看《新青年》
4 月 10 日 下午六时船到厦门,即住鼓浪屿中英酒店,
4 月 11 日 (晚)七时半抵漳州,入总部,见总司令及汝为,仲之诸兄,晚十一时宿于许
寓。
4 月 16 日 七时起床,入浴,会总座,下午接家兄信,知安海之役损失一空,此次饱受虚
惊,可多一阅历矣,此次到漳,神经发生一种嫌恶愧悔的感触,住在漳州,如坐在针毡之中
一个样子,看见这班无聊的人,尤不愿意,故不辞先行,此行无意识极矣, 二时半搭船起
程,七时半,抵?码,睡于船中。
4 月 17 日 九时由?码起程,十二时抵厦门,寄寓鼓浪屿中英酒店,胞兄来谈,心甚不乐。
4 月 18 日 十二时抵安海。
4 月 22 日 十时中食后,登绥阳轮船,直至三时半方开船,出厦门江口,同伴者为执信,
仲恺、湘芹及胞兄也。
4 月 25 日 七时抵浦东,过江,八时到家。
4 月 26 日 下午与?住纬儿外出写真。
晚约季陶,执信,仲恺来舍会议欧事,展堂、湘芹二君亦来,决议由欧赴法国,一月内起程,
经费我与季陶各筹三千元,同行者廖,朱、李及我是也。
4 月 27 日 令纬儿往法国公园游览。
5 月 1 日 夜间作梦,如我军投浙,其卑贱之状,非言可喻,醒后犹觉耻辱。
(这段时间蒋因病没记日记)
5 月 16 日 近日以冶诚好赌而不侍我病,出言背谬,行动冷淡,见之愤恨艰堪,心甚不定,
出外觅屋,又无相当之处,牢骚甚矣,乃迁至一品香暂住。
5 月 19 日 今日温度忽至三十九度,甚疑(肯能)注射反应所致,乃招秋田来诊。
18
5 月 20 日 今日以伤寒病,昨日热度至三十九度九分,故由一品香迁入筱崎医院,季陶夫
人陪我入院,心甚感激。
5 月 23 日 (整页日记,被涂掉)
5 月 26 日
今晚展堂、执信、湘芹,焕廷诸公来问病,亦来商议漳洲事,劝我前往也,余以病婉辞。
5 月 27 日 中师今日下午特来院问病,其意劝我病痊时,同其赴漳作战,殊令人为难,应
命则不堪为怀,遵命则情实难却,为之奈何。
5 月 28 日
除母子之外,天下决无义友仁戚,无事则首聚谈心,似为至交,有事则彼此避匿,一如风马
牛之不相及者,甚至背笑腹骂,幸灾乐祸。今而后乃知友朋之交,竟止如此而已,抑岂吾自
不能以诚待友乎。
六月廿一日誌
5 月 29 日
今日借澹如款银贰千五百两,交陈果夫暂存晋安,预备赴俄川资也。
5 月 30 日
湘中南北军开战,此后局势必一大变,茫茫前途,不知如何着落,思之伤心。
5 月 31 日 处置冶诚事,离合两难,再三躇蹰,卒无良法,乃决以暂留分住,以观其变,
如果脱离,一则纬儿无人养育,恐其常起思母之心,令人难堪,一则恐其终不能离也,静江,
季陶,觉生诸兄亦来商此事。
6 月 2 日
孙唐伍唐四总裁发表不承认广州军政府之宣言。
6 月 3 日
拟与果夫订立友爱公司稿。
1.名称、定为友爱公司。
2.资本共五千元,先由中正全部垫付。
3.营业先购上海物品证券交易所,四百股为基本,将来如有他业可营,再行扩张。
4.股份定为十股,丰镐房得七股,果夫,??,千?各得一股。
5.经理推定果夫为义务经理,凡本公司一切收支,概归经理管理负责。
6.会期随时商定。
6 月 4 日 (全页被涂)
6 月 5 日 ?氏小妈来问病
6 月 6 日 因病不能记事者,约三十三日,今日病稍可,略有精神。母亲与纬儿,柄经来谈,
下午有恒嫂夫人来谈,日间看报消闲,无他事也。
6 月 7 日
收果夫银百元。
6 月 8 日
上午礼卿来谈,回忆粤军往事,牢骚频发,此流斗筲,何足计较,惟有观其淘汰而已。
6 月 9 日
古湘芹兄来谈,言其明日赴漳事,闻军府伍总裁已发十五万为粤军战费,此后战费有着,义
无可辞乎,病后今始食饭。
6 月 10 日
银价大藩,三日贱六法士,金融机关在外人之手,国人时遭损失,可欢(??)也,远东问
题颇想研究,亦颇有趣味也。
6 月 12 日 下午拟湘粤军共同作战方略,不料湘军已失长沙矣,近日性尚暴燥,终不克改,
19
半由悍妾逼迫所致也,纬儿炳经来谈,喜怒叅(?)半。
6 月 13 日 上午有恒来谈,梧冈来谈。下午往访有恒,探冶诚之意向,乃知其敲诈为事,
惟利是图,不胜愤恨,又访中师,彼已无意赴闽,而命我独往、实不愿也。余决计不赴闽,
为人作嫁衣裳,以作恋栈之马,拟往日休养也。外出即回,八时半睡。
6 月 14 日 收果夫洋贰百元。
6 月 15 日 收果夫洋三百元。
下午退病院,~往访静江,又为冶诚事,烦恼不堪,余于此事,殊觉自惭,竟至一无决心,
为其逼迫污辱至此,是岂以儿女情长之言可以自恕乎。八时后回大东旅社,十时睡。
6 月 16 日 收果夫洋百元。
母亲来教,言及冶诚举动之凶狠,殊令发指,余若再无决心断绝关系,是诚冷血之流也,中
食于静江家中,为冶诚事,讨气受辱,实难为怀也,下午又为治诚事,闷想半天,往新寓观
察。
6 月 17 日 收果夫洋三百之整。
今日上午购办家具,进北渔阳里十三号居住,下午母亲来谈及家事,半慰半痛, 亦足快怀,
晚九时后睡,一时后即醒,不能成眠,辗转思维,百感交集也。
6 月 18 日 母亲寒热交作,热度至四十一度,脉搏一百四十跳,犹强起吾谈教训冶诚?,
如此一训,或足以稍息其骄横之气矣。
6 月 19 日 为冶妾事,思虑甚烦,痛恨极矣。
6 月 20 日 母子之间无论如何躁恼,而终能忘形,是诚水火之不能更其爱情也。
6 月 21 日 收果夫洋贰百元。
治诚又来讨气,此妇女之狠心,非常人所能及,痛苦极矣,晚季陶来谈。彼将明日回潮洲东
门潜园修养,追往思来,谈家议人,竟不知中国如何结局,此身如何结局,言之潜然,不禁
含泪,吾党同志死者死,而散者散,零落如此,不胜浩叹,呜呼,老态已?,精神衰弱,勇
气销矣。国几不国,家亦非家,身心恍惚,不能自立,可怜殊甚。
6 月 22 日 收果夫洋贰百元。
五时起床,~拟致冶诚信稿。
母亲瘧疾复发,寒热大作,见之心慌,我不孝之罪大矣,为始不慎,置此悍妾,竟致母亲动
气担忧,病重如此,可不悔恨乎,下午侍母病,往访中师。
母病沉重,妄悍如故,思之痛苦,无有过于此者也。
6 月 23 日 晚应觉生之宴,往寓,与冶诚对话,彼允同我回奉,以息母怒,又与觉生?夫
人谈从前误会事,妇女卖智弄巧,杂言异语,习以为常,自今吾有嫌恶中国妇女之心,现在
决无解施之道,多少祸害,由妇女而起,多少事业,为妇女所败,多少英雄为妇女所累也。
自今以后,吾主张独身自由,再不作此罪孽矣,十一时回寓睡。
6 月 24 日 ~此次冶诚作孽,痛苦极矣。
~冶诚又来讨气,彼妇凶悍,忍性,不可名状,得罪于我,得罪于我母,使我母病重。心恨
我置妄之罪大矣,悔恨何其有极,冶诚去后,忧愁愤闷,抑郁牢骚,自出世以来,未有如此
之甚也,痛苦极矣。
6 月 25 日 冶诚今日来信,有进退二难之语,其离退决心,坚不可动,凶狠如此,是诚男
子所不能为者,脱离固不可免,纬儿养育问题,其将何以解决耶,悲伤极矣,痛苦极矣。
6 月 26 日 录冶诚函,未发,~往静江家与佩箴商议公司事,以母亲不愿小姑在沪管家,
心甚愤怒,大发脾气,又获罪于母亲矣。
6 月 28 日 下午整装,三时后与纽秋、啟民搭新北京起程,~此次离沪浏览普渡,非好游?, 乃为冶诚所迫不得已也。
6 月 29 日 七时船抵宁波,~下午二时抵定海,金包之牙痛极,不能安眠,三时抵沈家门,
20
四时抵普渡。
6 月 30 日 今日在?顶山抽三六签许愿。
7 月 1 日 五时后起床,忽觉友朋、妻妾、母子、无不是空,无不是假,何不独善其身之为
乐也。
7 月 2 日 全被涂掉。
7 月 4 日 七时登岸,回沪寓,益钦来会,知上交股票涨至四十二元,甚惊骇,即经茂新访
守梅,乃悉前托代买股票,均四十二元之价购入,不胜忧虑。初做生意者之不可靠也,果夫
来会,其形容甚悲伤,甚至含泪而诉,乃知其不能作生意也。下午以私事心烦不堪,乃又埋
怨母亲,获罪不浅,?后心悔已无极矣,晚应子荫之招,益(?)卿之招,宿于大东旅社。
7 月 5 日 十时回寓,~往交易所会佩箴。
今日为组织茂新公司,及买卖股票事,颇费经营躇踌也,晚间不能安眠。
7 月 7 日 至寓所与母亲及?父辞行,十一时后,回旧寓睡。
7 月 8 日 四时后起程,乘新宁船,五时后开船。
7 月 9 日 上午十一时船抵厦门,执信,仲恺兄来接,即至新路头,鹿耳瞧 F121 号寄住。
7 月 10 日 往租房层,今日寄寓中英。
下午与冶诚及?父信。
7 月 12 日 上午到鸡姆嘴口 F254 号。(住于此)
7 月 14 日 派益寿回沪。
7 月 16 日 晚间十二时方得到漳(洲)。
7 月 18 日 下午二时到鼓浪屿,回寓,接果夫电,悉上交股票大落,亏本至七千余元,乃
知生涯不易做,而为果夫、守梅所害,亦一大半。
7 月 19 日 以粤军作战无望,又想赴俄国作彻底之行运也。
7 月 20 日 接果信,知其胆小多虑,不能作生意也。
7 月 21 日 写菊池果夫,治诚各函。
7 月 22 日 接中师电,言有根本解决之大计划也。
7 月 25 日 接各友来书,觉夫人之干涉我家政为害,实非浅鲜,妇人之不知自觉,实为可
叹。
段军失败,国家多事,喜惧参半,旅俄华侨数十万,共请中师扶持,是一好现象也。
7 月 28 日 往访仲恺,决定暂不回沪,以对于汝为私人关系,不能?情经行耳,
7 月 30 日 今日仲恺、执信二兄回沪,余?为汝为兄之情义难却。故暂留此,然亦无益而
已。
7 月 31 日 晚接阅果夫,治诚,?柄,及?父各函,反复不能成眠,果夫真无胆作生涯也。
(易?)
八月一日 上午起程赴漳,~下午五时抵漳,入总部,晚与总座谈天。
8 月 3 日 上午八时抵石码,~下午三十分搭船,三时七抵鼓浪屿回寓。
见色心动,终不怕所受之苦痛焉如何。
8 月 5 日 上午接沪电,决意回沪,正午起程。
8 月 7 日 三时抵泸,登岸,寄寓大东旅社,同仲恺兄往谒中师,谈粤军及大局也。
8 月 11 日 (下午)四时到家,经儿足股生毒,纬儿自疾不能开?,见之心烦,吾到家中,
总多不?,岂不容余在家一日安乎,晚九时睡,以两儿叫痛,老母咳嗽,心不能安,屋后便
气甚臭,更不能眠,乃下楼在廊下歇睡一晚也。
8 月 20 日 甚思以后交易所股票之买卖也,派阿顺赴沪。
8 月 25 日 与冶诚,纬儿步游果如石塔。晚接展堂,季陶,仲恺,觉生各友来信,皆催我速
回沪,相商时局也。
21
8 月 28 日 五时后起床,供佛许愿。
8 月 29 日 由雪山起程回家。
8 月 30 日 六时由家起程,~一时三十分,到宁波,~经儿来谒,其言语举动,颇为明亮
着重,心颇爱之,由溪口至宁波城约有九十五里之路,~四时半开船。
8 月 31 日 五时半船抵上海,啟民、果夫来会,登陆,往访季陶,谈天。劝我赴粤,我终
不之允也。继访仲恺,以过固执恐伤感情,故允其以有条件,然后赴粤,中山先生亦不能过
强也,下午往交易所参观场务,人杂声乱,见之殊觉晕乱,不易为经纪人也,继访仲恺、展
堂及中师,承各同志垂青爱顾,予名不副实,惭愧无已,惟更须自重自爱耳。继至贝勒路寓
中,同觉生兄谈天,中华妇女之不识好歹,不知道义,难怪狮子吼之可畏也。
9 月 1 日 商人有钱即骄,同志更不可有钱,有钱更加难为矣。近日见得万事皆假,无一
些诚实可言也。
下午往交易所,晚访果无病,其人胆小而识不足,看?太重以致多病,予实代为其病忧也。
晚宿于沧州别墅。
9 月 2 日 自北窗三七号迁至东南窗 108 号。
下午四时后会议改组公司事,予决退出六股,另组公司也。
9 月 3 日 下午以电话?作梗,又起急怒,然亦无法,只有忍耐洋奴之可恶,不止于此,凡
在租界,公署及洋立公司之洋奴,皆可杀也。
晚往访静江,见各友之浮猾轻薄,又生嫌恶之心,孤僻性成,不能稍事迁就,殊非处事之道,
近日嫌群恶俗之心更甚,恨无幽静清寂之地,以为避世隐居之所是以皇皇如有所失也。
9 月 4 日 果夫守梅,梧?诸君来谈改组公司事,付新元洋四千元,作为与静江合本五千元,
汪孙鹤皋作临时生意也。晚结帐,茂新连资本五股及欠我四千四百元尚丈洋九千四百 0 元也。
9 月 5 日 六时后起床,算帐(被涂大半页)
9 月 8 日 四时搭新北京来甬。
9 月 9 日 七时后,船抵江北岸,寄住华洋旅馆。
宁波城附近情形如故,毫无进步,可叹也。
9 月 10 日 游天童(?)。
9 月 15 日 接读静江催予回沪赴粤之函,不胜愁闷,近日心体快愉,处境稍觉安适,而又
欲命我投入漩涡,何命之苦也,头脑苦痛不堪。
9 月 16 日 柄经由家回来,接仲恺命余回沪及接冶诚之函,尤为愤忿。家中习俗之害人,
可谓极矣,接信后即决心回甬,正午由天童寺起程,二时许到小白河头搭船,船中愁虑苦思,
甚恨家族之顽固也。晚七时到甬,~寄住华洋旅馆。
9 月 17 日 纬国母子来中塔同游。
9 月 22 日 六时前起床,船到上海,~回贝勒路旧寓,~十时后往访展堂,仲恺,中师即来
电招,商议去处,以俄国、四川、广东三处皆须我行,任我自择。我以去粤,则公益大而个
人损失不小,去蜀则是我所愿,惟去俄以同行者非知交,暂不能行,私意往蜀,而仲恺必主
张我往粤,尚不能决也。
傍晚往访静江兄,谈生意事,余拟投一万五千元资本,以为共同事业。
9 月 24 日 申圭植来谈。
9 月 26 日 祝高列(?)震坛报发刊,曰同舟共济。
晚在寓宴茂新同人毕。
9 月 27 日 唤~往访静公议公司事,途中见色心动,茶会一次。
9 月 29 日 往会秀贞,此媛天真、我殊无意。
今日遇闵六,幸明日起程赴粤,不然又将堕落矣。
9 月 30 日 上午往访展堂先生,谈解决广州以后之事毕。
22
十一时起程~下午在船中与季新,仲恺、云樵(?)诸兄谈天。
1920 年 10 月
10 月 1 日 此?不任职务,以友义,党义尽我个人义务,不知我者之疑忘,当由此自消,
是后对党对友,惟负责任,不争权利,以冀补益于国而已。
10 月 3 日 十一时船到香港,~借寓阿司笃好?司旅馆,下午往拜执信兄灵柩,痛哭一番
而已,悲感何似。
10 月 5 日 六时后起床,船抵汕头,先?住幸坂~下午迁入汕头旅馆,~拟关于作战意见
电稿致竸公。
10 月 11 日 正午到老隆,入总司令部,与总座谈天。
10 月 14 日 十时许,得许军长报告,嘱我前去帮忙。
10 月 15 日 上午由老隆起程。
10 月 16 日 七时三十分由陂头起程。
10 月 20 日 今日委我粤军第二军前敌总指挥,我辞而不受,竸公汝兄皆不敢固授,是我诚
意较前更著,于友,心为之自慰。
10 月 21 日 据土人言,桂军掠夺放火,尚属小事,而其奸淫少自十四岁,大至七十八岁之
老妇,皆被其污,嗟乎,天岂厌此祸乱?
10 月 24 日 五时起床,拟粤军第三期作战方略,及攻击计划稿。八时发寄总座及军长。
10 月 26 日 (庚申九月十五日)
今日为予卅四岁生辰,予在响水武庙行营,而家中老少诸人,又不知如何感想也。
军队组织不完,人员多不得力,以致代理者艰苦困难,不堪言状。
11 月 5 日 下午五时搭火车,七时到广州,与汝为,仲元相见,牢骚之?,不可遏止。. 11 月 6 日
六时起床,决心回沪,~下午二时后到香港,寄住大东旅馆,唤招车(?)货,又为规外之
事,甚天为也,以后戒之,寄住于英王酒店五五号。
11 月 7 日 吾何人斯,必欲与若辈争闲气,吾何为而欲有事?之心,吾惟从吾所为,在社
会上做一点工夫,算一点事?。军队生活,非吾人所应为,亦非人所应有者也。
11 月 8 日 下午往九龙搭汽车,周游全景,约三小时。英人之规划宏远,诚足浩叹。此皆
吾锦绣河山,自不为治,而使人治之,尤为可惜。
11 月 9 日 十一时,搭日本皇后号汽船,十二时后开船。
11 月 12 日 乘小汽船由吴淞到上海。
晚访闵阿六,途遏彼美,心犹动矣。
11 月 13 日 搭江天船来甬。
11 月 14 日 五时船到宁波,~到奉城时已二时半矣,初到家中,见纬儿能识字,智慧尤其
发达,喜甚。
11 月 17 日 与纬儿玩耍。
11 月 19 日 晚习欧字五十个。
11 月 21 日 下午接中师,及静江季陶二电,言我不去,则汝为亦不行。催我赴沪,我以左
右为难,且家事未了,去亦无益,故却之。
11 月 22 日 见胞兄心甚怨恨,家族之害人深矣。
11 月 25 日 中师率唐伍等,今日由沪赴粤,组织军府矣。
11 月 28 日 今观奉化县志,蒋浚明公一派,自唐时由台州迁奉,而后迁鄞者,惟其墓在三
岭,吾家是三岭一系则浚明公为吾祖先无疑。惟自常州来者,则为蒋猷公。据志书所言,是
又一派,则吾祖先非自常州迁来者可证。族谱中各传,尚称自常州迁至奉化者,是传误也。
11 月 30 日 胞兄迂腐,言之心痛,然一二日未见,则思慕不已,家族制度之入焉深矣。
23
1920 年 12 月
12 月 1 日 上午在家拟军政府进行意见书,~闻母咳嗽声及骂人声,不胜愁闷,在家几无
一日快活也。
12 月 2 日
上午在家沉闷,正午起程时,请兄来家,嘱其收理房屋,推却祠庙众经手事,而彼又有意捣
乱,顽固不化,致母亲叹恨不已,此公不可感化,只有自叹我命苦而已。此次回家,嫌恶已
极,欲求自新,非迁地避恶不可,而母又不肯,吾家终为习俗所害而已。起程时,见母亲恋
爱不忍之色,与兄之恶劣狡诈之态,几乎使我忍耐不得,家族之害人焉,深矣。吾兄终不能
感化矣,可叹。下午三时到城中,见纬儿,心稍安,晚七时睡。
12 月 5 日 晚与纬儿玩笑。
12 月 6 日 五时卅分由奉诚搭桥起程。正午到宁波。
12 月 7 日 八时后船到上海,即往事务所,~我在大东十六号寄住。
12 月 9 日 晚为房东朱子谦作恶不仁,心甚愤激,资本家之害人焉,大矣哉。
12 月 10 日 下午往觅房屋。
12 月 11 日 我对中国社会实嫌恶已极,其将何以谋脱也。
12 月 15 日 下午在寓假眠,心甚不安,为色欲不能戒也。
12 月 16 日 下午与静江接洽后,即整装起程,四时搭江天。
12 月 17 日 六时到家,闻冶诚与家中躁恼事,又起嫌恶家庭制度也。
12 月 19 日
上午令纬儿游城隍庙。
12 月 20 日 与纬儿往西门外游山。
12 月 22 日 下午云生由上海回家,乃知朱子谦谋没我冶诚寄存其家之协进社议据,为富不
仁,复欲害人,居心毒极。沪上商人,行动卑陋,至此者,见不一见,无足怪,惟恨冶诚之
生事也,气极矣。
12 月 25 日 下午季陶来奉,讨论赴粤行止,强迫词貌,殊难视听,不胜怅怅。
12 月 27 日 上午五时四五分与季陶起程。
~交通不便,极矣,对家对乡,尤生恶感矣。
12 月 28 日 七时后登陆,~正午在静江寓见仲恺来书,骄矜非常,似有不以我为友人相待,
愤怒已极。季陶一意专制,甚至不与人讲理,强我赴粤,骄横已甚。近观世情堕落,屡起个
人主义之念,吾之性质,实与社会不能相容,非从事脱离,以谋自全不可,故决不赴粤,争
此闲气也。
12 月 29 日 今日预备回里,静江派人来找者数次,我决绝世态,不愿敷衍,故不往见,即
起程回家,~晚七时在北京船上睡。
12 月 30 日 九时船到宁波,~下午搭西邬(?)火轮,~五时半到家。
12 月 31 日 骄矜奢侈,暴躁是我一生之大病,静敬淡一四字之不可一日忘也。
1920 年杂录
今年应该做的事,预定如下:一、学俄语,想到俄国去视察一回,实在做一些事业。二、俄
国的路如走不通,就想兼学英语,游历世界一周,研究世界的潮流,究竟是甚么样的一个真
相。三、以上二件事,如果统共(?)办不到,就要想做实业的事,不是组织绵麦会社,种
植绵麦,就是要做经纪人,作绵纱、绵花的买卖。但是这件事,还是要研究之后再说。四、
除了以上三件事以外,还要做一种不应该做的事,就想组织议员,应为(因为?)要到北京
研究北京社会的内容,侦察北京附近的地形,还要借着议员的名义,结交几个新朋友,或者
就在北京组织一个学社,团结很好的同志。否则如有机会,即可以借议员的名义,到俄国去
视察一回,除此以外,今年是没有别的目的了。
24
一月一日记
今年想学的东西,想看的书,大约如下:
1.俄语 2、英语 3、经济 4、哲学、 5、军学、 6.历史
7、拳术 8、新思潮的研究 9、国防军事计划 10.地理
11、战史 12 军制(原文制字看不清) 13、美日与中国关系 14 商务 15、公法 16、
教育。
9 月 15 日 ~蒋姓在宁波已久,即在奉化亦久,以弥勒佛为奉化长汀之人也,吾为摩呵之
裔无疑,则吾蒋姓在南北朝已居宁波可知。族谱所谓自昆陵(常州)迁至宁奉者,不知其何
年代, 当一重考也。
十二月四日
阅奉化县志,吾蒋氏在唐代由台州迁鄞,~惟由常州(昆陵)丹阳迁来之说,似不可考。
十二月三十一日
本年个人所作之事甚少,不如前数年成绩之佳,粤军回粤,余由老隆出发,克复河源城,率~
第二军由博罗?城,追击至清远,无甚成绩可言。上午伤寒,遭冶诚之诈道,大伤元气,至
今精神尚未复元,而半为友情牵动,往来广沪闽之间,亦不易复元之一原因也。近来性质尤
其怪僻,骄矜自持,暴躁不堪,对于社会,嫌恶更甚,对于家庭亦如之,是一不好现象也,
今年所看之书,惟在鼓浪屿及雪窦寺,看通鉴辑览五本而已。生活程度,?高数倍,全年费
用,除生意输本者外,不下七八千元之?。言之寒心,而品学一无进步,所谓勤、廉、谦者:
毫不注意,实行诚一落千丈,不可救药矣,不自警惕,其将何以为人欤。
(姓名录)
菊池? 北四川路长安里十号 (本年三月收支一览表)
本年收支一览表
本年结算,欠茂新八百二十两,欠中()一千八百九十三两,?余静江伍千元。
25
1921 年
民国十年大事表
6 月 14 日上午八时,母亲大人逝世。
一月一日
八时起床,上午看历代通鉴辑览卷七十三起。下午假眠三小时,看通鉴至宋真宗止。晚学字
入浴,八时睡。
今日犹豫,妄念未绝,静敬淡一之功夫未全也。
一月二日
八时起床,上午习字,看通鉴,至下午看通鉴至七十三卷止。晚习字,八时睡。
今日希翼犹豫之心未绝,静敬淡一之功夫未全也。
(本月不重要的略过)
一月四日
七时后起床,上午致静江书,看通鉴七十四卷完。…致展堂、仲恺书稿成。……今日致悔过、
谢罪书时,心平气和,修养略有进步,静敬淡一之功夫未全也。
挽执信联语曰:长城又坏,大道中阻。
一月五日
八时起床,上午致展堂书。下午习字,看通鉴,看报。晚致季陶函,至九时睡。致展堂、季
陶二函,自以为静敬淡一之功稍有进步,惟尚有火气矫作之弊耳。
一月六日
八时后起床,改正至季陶书。
一月七日
……上海无要信寄来,思之闷闷。……
一月八日
晚,致沧白函。
一月九日
……夜间反复不能成寐,回顾往事之鲁莽、暴戾,来事之茫茫无岸,始终为人作嫁衣裳。上
海嫌其烦俗难住,城中又嫌其习惯难脱,彼此皆非久住之地。对党无术以脱离责任,现在地
位非出族入释,即须积极勇进,而入释之心,则一时又不敢决断,难保其不后悔。人生至此,
没趣极矣。暂以静敬淡一四字以自慰也。
一月十日
……晚起致静江函稿……。
一月十一日
上午看通鉴,接中师电。……下午写静江、展堂先生各书,五时睡,以脑痛神倦也。
26
[中师来电]觉先兄译转介石兄鉴:援桂决定从速出师,请兄来相助,兄本允我跟踪有粤帮忙,
勿更迟,明复。 孙文阳印
一月十二日
……复中师电。【复中师电】公到粤五旬,未闻发一动员令,亟图进取,中以是犹豫不前,
如动员下令,当不俟召,自来侍从督师,决不更迟云。
一月十四日
傍晚送年祭神,作年末无聊之习俗,亦一乐事也。
一月十五日
……接沧白书,劝我赴粤,知交规劝,不能无动于心耳。晚复沧白书。……
一月十六日
……上午复沧白书……
一月十八日
我之暴戾,以静字戒之。我之骄矜,以敬字戒之。我之求名、贪色,以淡字戒之。我之杂乱
纷烦,与一字戒之。
一月十九日
接季陶、汝为各函……。各日接季陶复书,督责规劝备至,对之惟有愧悔。自后如能切己痛
改,或不为贤者所斥乎。
一月二十日
……复季陶函……。今日胜人、机心、客气诸过未改,良知略致,静敬淡一之功未全也。
一月二十一日
……上午录季陶函。下午习字。接竞存总司令电,知援桂之计已决,召我为中军指挥,自量
不能胜任,故力辞。晚复竞公函电。……荣辱不惊,喜怒一致之涵养工夫未到,总为虚荣矜
持之心不去耳。机心未息,慌忙不稳,此静敬淡一之功之所以不能全也。
【复竞公电】删电敬悉,中决于十日内以个人名义前来驱驰,所事以委任子荫为宜,中决不
敢,公知我者,请勿以此推辞为应有虚文也。
一月二十二日
……写展堂、季陶各函。……(大篇黑抹)
一月二十七日
六时前起程。……十一时到宁波。
一月二十八日
七时起床,寄宿于大东旅社。……守梅、果夫来会,往访静江、觉生。……下午访益卿。……
晚在静江家晚餐。往会菊英,又至静江处会沧白,谈时事。
27
今日色念、骄矜、慌忙、暴躁、卖智诸过未改。良知未致,静敬淡一之功未全也。
傍晚接邮局通知,前寄竞公之作战方略为护军使扣留,不胜惊骇,好在无关于闽浙江,乃再
致竞公函,从述战略。
一月二十九日
七时起床,重致竞公书。……
一月三十日
晚遨游,逆天之事,罪在不舍,记大过一次。
二月一日
上午佩箴来会。……往访觉生,下午往访沧白。……晚在静江家宴客。沧白、纫秋到社来
谈。……
二月二日
……访季新先生,下午整装,~往访菊英,晚应静江先生之宴毕。往□菊英。十二时冒雪上
船。
二月四日
……今日决心,对于自己地位,始终以个人名义帮孙、陈之忙。……凡有职责一概不受,~
为藏拙养精蓄锐之地。此时甚恐盗虚名而无实才,一朝失败,前途绝望,不可不慎也。
二月五日
正午船到香港。~寄住大东旅馆。
二月六日
……住西濠酒店,往访许军长,陈总司令,下午访孙先生。……
二月七日
七时后起床,研究地图。上午往访廖厅长、陈总司令、孙总裁、许军长等。听察各方意思,
殊多郁闷。二时后,回店会客。晚往访陈总司令,谈援桂总司令问题甚久,自觉言语有条有
理。陈总司令亦应允出发任事,心为之一安,而轻浮之形又露也。再访许军长,八时后回店。
二月八日
往访陈总司令,及孙总裁。……
二月九日
往访仲元不晤。即往总部与仲元谈天。上午往访中师及汝兄。下午写季陶及家信。
二月十日
……上午陈总司令来会,谈天二小时。下午往访舒石父及许如为兄。又往孙良翰家扑克,傍
晚,往访中师。同其往访汝为,谈及作战计划,有解决之望,心为之一安。晚眠柳,不规已
极。为人不自爱惜,何以对人。
28
二月十一日
八时起床,往访竞公,谈援桂事。再访中师及展堂先生,同其访汝为兄,决定第二军进取地
点,心乃稍安。……晚应总司令之宴。后又应罗翼群之宴。
二月十三日
八时起床,上午往访中师及竞公。下午应毅生之宴,往仲元家,与展堂先生预定援桂作战计
划,回店写静江信。
二月十四日
……上午往省署会议军事计划,仲元避怨,竞公争地,使我穷窘难过,后虽勉强应允,然此
后更多困难,讨价还价,权术机变,皆非我所能为,及时不去,必招怨尤,徒伤感情,无益
事实,吾何为耶。下午四时,搭船,……十一时后到香港。寄住香港大酒店。
二月十五日
……上午寄果夫信,写仲元信稿,下午写信稿。佐和田君来会。
二月十六日
上午写仲元信。
二月十九日
八时起床,决心回沪。上午写展堂、竞公、仲恺、仲元各友书。下午二时上招商局广大船。
以为十四必可到沪,十五即可回里过元宵节也。
(此二月十七日记)
二月二十二日
八时船到上海,……九时到静江家,与静公谈广东事,果夫、觉生先生次第来会,谈至四时,
上船(返浙)
二月二十三日
七时后船到宁波。~一时到城寓。
三月四日
……写季陶函……
三月五日
……致中师信稿,晚记事。
日来病体懒慢,每夜梦魂颠倒,非古友与政治关系,即为家乡古事,可知于此数者之范围,
不易超脱,一生扰扰不安,亦为此也,可不戒哉。(回乡后病倒多日)
三月六日
下午同经、纬两儿往游公园。……晚以冶诚狡横,心滋不乐。
29
三月七日
……冶诚横逆,心甚嫌恶,痛加训斥,下午誊写至中师信。……
三月八日
……上午写仲恺、诵□、纽秋、焕廷各函……
三月十日
------诸先生来募乡志捐,吾捐伍佰元也。…近日精神郁结,心思沉闷。病后萧条之状,不堪
言也。
三月十一日
今晨起床,接季陶信,知纬儿生母因难产物化,不胜哀悼,纬儿生长之不能见其生母,必为
其终身之缺憾与。
上午致季陶信。正午宴会高小学堂各教员。下午往溪口家中。晚九时宿于家中。
三月十二日
……知胞兄以昨晚雨大,未启程赴粤,行之不果,可恶极矣。……下午由家起程回城。
三月十三日
上午看古力基著科学泛论。
……接陈总司令电,催我赴粤。
三月十六日
十时起程。~四时到宁波。驻华洋旅馆。
三月十七日
到普渡(跟母亲一起)
三月二十三日
数年来药剂不绝,补品无间,病症亦随之不能间断,以后戒去药物,断绝补品,专在存心养
性,优游涵泳自在自得,着重于精神上之调养,其或较物补品为有效乎。
三月二十五日
正午到宁波。…回东亚旅馆。
三月二十六日
下午二时到城宿。
三月二十七日
上午复仲恺、沧白、焕廷各函。
今年一年中关系中国兴亡者甚大。西南不能自求发展,惟有待北方之自倒而已。蒙乱与复辟,
30
皆为至大之原因。而其之总因,乃在乎奉、直二派之暗潮,以及财政破产者也。有此四者,
北方无不倒之理,惟在吾党能起而应之否耳。
三月二十八日
……全日看通鉴至卷八十八完……
史论张俊以才疏而果于自用,量褊而闇于知人。又曰,学虽正而术则疏,谋虽深而机则浅。
此数语吾可引为针砭,疏则以精治之,褊则以宽字治之,浅则以深字一字治之,其或庶几乎。
吕祖谦少年下急,其后心平气和者,乃以躬自厚而薄责于人一言之功也,其变化气质,如此
之勇,吾岂不能乎?
三月二十九日
……接覆觉生兄信。下午由城寓回溪口家中侍母,纬儿同行。
三月三十一日
下午扫三代祖父坟墓。
四月三日
上午覆中师电云,艳电敬悉,动员无期,徒致跋涉,且近日来粤,反多阻碍,不如待期远行,
中正叩。下午往游文昌阁,回家。
四月四日
致竞公电,默察时局,蒙乱日急,复辟在即,北方财政益竭,奉直战端必起,凡此皆足制北
方死命,桂贼如不速平,本军无起而乘之之策,国事何堪设想,病余忧困,乞赐明教!
四月八日
四时后带冶诚、纬儿往游公园。
四月十日
蒙古兵法以间道与袭背二者为最多,伏兵则甚少也,如欲拓地致远,非用轻兵,经行间道,
不避艰险不可也。以后当备材馆录,对于人才,非留心区别不可。
四月十三日
------今日报载中师已由非常议会选举为中华民国大总统,思之喜惧参半。
四月十四日
接古君湘芹来电,知胞兄已往琼州文昌县知事,不胜欣幸。
四月十七日
六时起床,船抵上海,果夫来会,谈及静公交易为人攻击事。往访焕廷先生,再到大庆里与
季陶先生谈天,商量生涯(生易?)解急之法。下午四时访沧白兄……。
连接竞公二电,催我速即赴粤。
四月十八日
31
上午记事,与季陶谈天,又与静公谈天,今日交易所股票竞涨价至八十二元六角,中心稍安。
下午与静江、季陶商量营业事。
四月十九日
六时起床,船到宁波。…正午到城寓。
四月二十日
四时到甬,寄宿华洋旅馆。
……日前被交易所茶坊侮辱,为郭外峰轻视之事,至今犹在忿恨之中,而未之或忘,度量偏
狭,一至于此,尚有何事可为耶……
四月二十一日
【通信栏】覆中师、竞公各电,约其十日内启程来粤。上午写果夫、展堂、汝为、焕廷各友
书。……下午接中师电,言昨已下动员令,汝为病新癒,非兄来计划助理一切不可,接电速
来等语。又接静公信,知上交股价已涨,心始稍安。
四月二十三日
今日本拟启程,以冶诚有病,故延迟一日。(在天童山)
四月二十四日
六时后到宁波。接枕琴先生电,乃知本所股涨至八十六元九角,幸甚。
四月二十五日
下午一时到奉城寓中。
四月二十七日
……上午接孙先生及展堂先生各电,催我赴粤甚急。及闻母病,轻重不一,不胜焦灼,公私
交迫,为之奈何。
四月二十八日(母病)
上午看通鉴四页,即往溪口,侍奉亲病。正午到家时,病势甚剧。遍体虚肿,咳嗽不顺,热
度甚高,牢骚不堪,见之忧愁莫名。……
接孙胡诸公催行之电。
五月一日
【通讯】致觉生函
……致中师及竞公各电,以母病危不忍遽离,侍奉为辞也。……
五月二日
【通讯】接仲恺、静江、焕廷各函
……接静公函知交股涨价至百零八元,又闻母病渐愈,私心欣幸。
五月三日
下午搭轿回溪口,见母又病又重,不胜闷闷。
32
五月四日
【通信】接竞公东电
回家,见毛氏犹在,为之脑晕头融,殊难忍耐,又起暴躁,亦不顾有母病也。思之实无路可
走,出俗之心更浓也。
人类以爱敬相尚,况乎家族之间,我待毛氏太过,自知非礼,但一见心狠不能忍耐,如中国
习惯不以离婚为丑事,则今日彼此之痛苦,皆可免除,或可增进无上之幸福。今乃不然,惟
使彼此受累,呜呼,何其难哉。
五月五日
闻中师就大总统职。
【通讯】接竞公二十四日电,……致仲恺电。
接守梅电,知交股价涨至百廿四元,甚为欣幸。
五月六日
冶诚与纬儿来家。
五月七日
昨夜以母病未安,故余亦不得安眠,……拟在文昌阁改造图书馆,以贡溪口人民之公用,开
一公益□例也。
五月九日
我在家中,母病反多不便,故思泪起程,至城寓。
五月十一日
五时起床,船到上海。……往访焕廷、瑞霖至大庆里,与季陶、静江谈天,知交股价落,不
胜烦闷。
派世和携母食用之物。
五月十七日
七时起床,船出吴淞口。
五月二十日
……上午登岸,往访陈其尤交涉使。正午在汕头旅馆午餐,下午游前德国领事馆,其规模阔
大,为汕头首屈一指之地。
五月二十一日
六时起床,船到香港……。七时到广州,寄住于西濠酒店。晚访许军长,陈总司令、孙大总
统……
五月二十二日
……上午与仲元往省长署与竞公谈天。下午往游瘦狗岭下之燕塘营房,华胥与仲元来谈,在
西濠晚餐。叫花饮酒,甚无为也,晚仲元驾车往游郊外。
33
五月二十三日
……上午往总司令部,谈战事。闻北京伪政府已下讨伐南方伪令。下午与汝为叙谈,再往总
部,研究作战命令。晚应军部各友及古、邓二君之宴,九时后回旅店。……遵中师之规模,
争二陈(英士、竞存)之精神,学胡、汪之言行,则可以担当国家责任也。
五月二十四日
……上午九时至下午四时,在总司令部拟作战命令稿。四时后访中师,偕访汝为兄,遇张国
桢,不胜嫌恶。回忆当时之情况,我何为而来粤军,买此好名耶?回去乎?晚应蒋克诚旅长
之宴,九时前回旅店。……今晚梦雪深数尺,一片白色,见之心惊,醒后犹觉寒心,不知母
病果能痊愈否耶,忧愁不堪。
五月二十五日
……往总司令部,改正命令草案。正午应谢炎焕之宴,下午会客,往访展堂先生,往总司令
部,决定命令草案。晚应许崇灏君之宴,九时后回寓。
沉、毅、智、仁、勇、信、义七者,为将者不可一缺也。
五月二十六日
……往访仲恺,十时往访竞公及中师,在汝为兄处中餐后回旅社,整装搭船往香港。~十一
时船到香港,即宿于船中。
五月二十七日
六时起床,在船发展堂、仲恺、汝为、仲元各函,暂住大东。~十二时后开船。
五月三十日
五时半,船到吴淞口外,十一时绕到上海,与徐瑞霖君到大庆里,与静江、季陶谈天。~四
时后下船。
五月三十一日
七时船到宁波,发觉生、季陶各函。知冶诚在甬看屋,乃至东亚等其回来。当夜八时半由城
搭轿,十二时到家。母病虽略平,而咳声与语音均低下,不如从前之有力……。
六月一日
昨晚母病较平。
六月二日
今日母病复重。晚母亲吩咐后事及丧葬与捐款武岭庵事。窃恐以后再不能闻母教矣,痛恨何
如。日间谈毛氏离婚,及母亲遗嘱事,毛氏卒一能顺从一语。
六月三日(记母病重详,侍奉汤药经过)
顺受舅父劝导,暂弃离婚无上之决心。
六月九日
34
见毛氏而心惊,见其亲戚心尤不快也。~派世和赴沪购物。
六月十日
……接静江信,知粤交易所只留二万股与吾辈,当全数放弃,本党做事如觉生者,诚令人灰
心,决无良美结果也。即覆静江书,觉生函。------ 六月十一日
近日愤激不绝,以友人伪者多,而真者少也。自私自利者多,为公为友者更少也。以此而欲
独善我身,断绝一切,自外于世而不可得耳。
六月十二日……(侍母病)
……接焕廷、瑞霖各函,见沪上奸市友人之报,不胜愤恨,交易所各理事之营私舞弊,思之
痛心,刺激感触,公私交迫,几欲隐蔽林泉,独善其身,而不可得,恐病神经,万事当胸襟
淡然,达观一切为要也。……
六月十四日
母亲今日上午七时四十九分寿终正寝。
六月十五日
下午哭撰哀母文约八百余字。
六月十七日
接大总统吊电,及博仪二千元,陈总司令一千元。
六月十九日
-----致竞公、湘芹电文。下午假眠后-----接静江、焕廷、季陶各函,展堂、季新、仲恺、湘
芹、仲元各吊电。又接竞公、仲恺吊电。晚八时后睡,酸痛切割之悲,仍不能稍间也。
六月二十日
致书展堂先生,嘱其求中师题母亲墓碑。
六月二十一日
下午往白岩庙前鱼鳞岙择母亲墓地。
六月二十三日
痛心:接竞公电、湘芹、果明、启民各函。
~以毛氏可恶,心甚嫌恶。
六月二十六日
……上午往武岭菴,遇凌道生,谈自办义务学校,拟出万元之资为学校之常年费。……
六月二十七日
……下午接中师电云:竞存、汝为已赴前敌,军事吃紧,望即来粤,墨经从戎云。又接沧白
信,亦催我速出,以慰众望云。我以先母安葬期前不敢以身许国覆之。
35
七月五日
……写展堂、焕廷各函,发竞公电、八时启程。
十时后同纬儿到雪窦寺。
七月十一日
8 时到溪口。今日纬儿迁入当店屋。
七月十七日
上午总结上半年收支之账,用去一万二千余元,还债五千余元,共计支出壹万八千元也。
七月二十一日
习英语。
七月二十二日
晚接汪季新、胡展堂先生信,催我往粤,见我撰述母亲墓志,颇为自慰。
七月二十四日
五时后起床,……写展堂、季新、沧白、焕廷、纫秋各函。……
七月二十五日
今日会议母亲丧葬事,邀孙君安林,及毛君颖甫,蒋侄生贤等来家,议定丧费约须四千元,
颇为惊骇。
七月二十六日
今日议决母亲丧事,卜于十一月廿三日,安葬于鱼鳞岙之中垄,约计藏费三千至四千元之数,
而墓费则不在其内也。自称新人,力求自新,而乃一当其事,不能从新改革。虽曰习俗使然,
是亦自新之不坚也。思念母亲,悲不自胜矣。
八月三日
昨晚以心不正,故睡不安。今朝五时起床,非礼之行不可戒乎,以后慎之。
八月五日
晚接大总统所题母亲墓碑字。
八月八日
……今日为先父忌辰,感父悲母,伤怀无已。
八月十日
十时后到宁波。
八月十一日
5 时后船到上海,入沧洲旅馆。
36
八月十二日
上午往亚细亚照相馆拍照。
……往访静公,接竞存、汝为各电。晚应静公之宴,往晤孙氏。
今日以求人不应而感愧,以承人爱慕而欣喜,此皆虚荣心重所致。焉能到荣辱不惊,喜怒一
致地位,嗟呼,静敬淡一之功不讲久矣。
八月十三日
往张寓,与君劢、力子谈时局。
八月十四日
……上午写陈总司令信,下午往静公家谈天。
八月十五日
……上午往张家,修改致竞公函,商议营业事。
八月二十日
今日大风雨,吾家必浸水,想及母亲灵柩,亦必浸水,不知家中有否设法垫高,不胜为之焦
灼。
八月二十一日
……为色欲以损夫人格,特受耻辱,可乎。
八月二十三日
4 时上船。
八月二十四日
下午二时后到家。
八月二十六日
……晚接展堂先生函电。……
凡见不如意事,忍耐片时,即可消除烦恼矣。
八月二十八日
-工匠……之辛苦危险,可谓极矣,资本家见之,如无慈悲之心,非人也。……今日吴佩孚
攻陷岳州。
八月三十日
乡间烦恼耗费,过于上海。居家仍以上海为宜也。
八月三十一日
乡下事烦,非我所可久居,脑筋愁烦不堪。
37
九月一日
晚与日明兄会话英语。
在乡事小心烦,乡人量狭眼浅,要求应酬之与,过于上海,且妒忌之心,重于沪人。习俗如
此,非己久居,其以速迁为速乎。
九月二日
……下午接中师手函。
九月三日
……三时后启程,纬儿始则依之不放,必欲与我同行,继则大哭,大叫爹爹,用力缠绕我身,
不肯放松,终为其母阻拉放,及予出门,犹在门首作不愿舍得之声,此儿聪慧过人,年长尤
觉亲亲可爱也。~十一时到甬。
九月六日
十时后告辞,上新疆船。
九月七日
寄纬儿示,船中甚想望纬儿不已------ 九月八日
晚八时船到汕头港外。
……近日甚想纬儿,恨不能与其同行也。
九月九日
……船进汕头港,陈君其尤来接,到其海关监督署谈天。中食于日本旅馆。
九月十日
八时后船到广州。
九月十一日
寄寓西淳酒店。往访汝为军长,以及大总统,遇展堂、季新先生等在座,拟讨伐令时期问题,
卒以缓发决之。下午访汝为军长,往省长署……往访汝为,谈于(余?)就职事,决却之。
九月十二日
……往访汝为军长,下午往谒大总统、廖次长。同汝为军长解决出兵日期。晚应大总统之宴。
虚名不可自恃,轻浮有余,况重不足,锋芒太露,才学不孚,是取败之道,静敬淡一之不可
顷忽也。
九月十三日
……往总司令部,会仲元,途遇展堂先生,同访汝为后,再访中师。下午一时由广州启程,
过渡,搭广三火车,四时到三水,搭广英船,八时经肇庆城,九时睡。
卖智弄巧,露才好奢,是近日之大病,切戒之,静敬淡一之功不可须臾忽也。
傍晚经肇庆峡。
38
九月十四日
……写信与汝为、林士。上午十一时半到梧州。入洞天酒家。
九月十五日
四时后醒,想念纬儿不已。
九月十六日
……下午……研究湘省地图。
九月十七日
……七时入粤军总司令部,会竞公。因与杨某同会,闻其言语,殊多不耐心,甚悔恨自己之
无主见。即访马君武省长,又为其闇人所阻。到南宁后,几无一些乐趣,在省长公署谈天。
午餐会与君武同往总司令部,闻其言,更不如上午所闻者。思之痛心疾首,可怜吾党无人至
此,受欺乃至如是之甚也,脑晕不知所言。四时后,即搭船回首矣,船中但又懊丧而已。晚
九时睡,南宁气候殊不可久耐也。
九月十八日
今日船中惟有懊丧悔恨,自怨本党之无人,可怜中师之苦心也。上午经贵县,其附近山景奇
别,殊为可受,解我怨恨者,惟有风景已耳。
九月十九日
六时起床,上午思致竞公一函,以答复其何以甘心与中师竞选大总统共事一语。正午船到三
水,下午在船中记事。此次往返南宁约有六日,西江形势已聧其半,两岸土地膏腴,形势开
阔,均非昔日预想之景也。江面平均约有三百米,突余。广西菁华尽在此两岸,非虚语也。
辛苦六日,惟有视察地方,聊偿悔恨已也。下午二时二十五分,由三水搭火车,五时到省,
遇仲元、汝为诸君,没趣已极。只有个人独坐自了而已。
九月二十日
……上午访中山先生,汝为兄与展堂、仲恺先生,谈时局及办法。下午往访中山先生,研究
进行方法。迁入东山公医院,晚食于仲恺家。……
九月二十一日
昨晚不能安眠,以事多困难也。六时后起床,独坐沉闷。仲恺来谈。上午往拜执信周年。与
展堂、季新、仲元等会议于汝为家中,商决出兵手续,呜呼难矣。下午决定第二军取道湘南,
及出发日期。三时后回院……。昨仲恺来谈某友不快事,殊可嫌恶,亦惟有置之一笑而已。
言多必失,客气矜持之意大盛,必遭妒忌,以后切忌多言。
九月二十二日
……上午……往访汝为兄……五时往访先生,应汝为之宴。见凉炎世态,殊多不安。未宴,
回院,食后即睡。
九月二十三日
七时启程搭香山船,船中看《交战及统帅学》。……下午二时半到香港,寄住香港酒店。二
星期烦恼,苦不堪言,惟今日稍得风景与人事之乐趣也。
39
九月二十四日
……欲立品,先戒色,欲除病,先戒欲,色欲不戒,未有能立德立体者也,避之有恐不及,
奈何有意寻访也。
十月一日
六时起床,入浴,准备启程回沪。……一时中食。广东西者,欺人殊甚,不胜嫌恶。由此而
知最有友谊者粤人,最无道义者亦粤人。然无论何地,最高尚者最易交,最下流者最难弄,
故交人不可不择也。
十月三日
上午十时船到基隆。下午五时开船。船中员役懒慢,器具狼籍,皆不如前。吾以此而知日本
国运堕落,败兆已见矣。在船看《交战及统帅学》。
十月四日
今日风浪略平,以在浙江海面。……八时船到吴淞口外。
十月五日
昨晚船到吴淞口,直至今日上午十一时后始得小气船来接。下午一时后方到上海。日本船之
腐败迟滞,可谓极矣。
十月八日
五时后,船到宁波。下午三时,到溪口家中。
十月十一日
……接中师电,言其与汝为十五日赴桂林,请兄速来臂助一切云。
十月十五日
今日有病,发热头晕。……下午写静江、精卫、季陶、焕廷、果夫、守梅、沧白各函,覆接
精卫电。
十月十六日
今日有病,……惟覆精卫长信而已。
十月二十一日
六时后起床。上午往新屋看工,写信。下午往来新屋间看工,自叹为我一人而苦二十工人。
自朝至暮,除食事外,毫未休息,每日足作十小时余苦工。呜呼,小工何罪,其苦如此。资
本家与势力家之不勤俭自持,厚利报工,其必为神人所不容。不必言近世之潮流如何,徒问
你自己良心过得去否耶?可不警惕乎哉。
十月二十二日
功课不修,百无了赖,时思远游,以避烦恼。
40
十月二十四日
上午往雪窦寺查账,安排寺事。
十月二十八日
拟办学堂事,为乡愿阻碍不少。周星垣之守旧迂阔,不可言状。乡间事业办理之难,如此社
会,不知何日方有进步,随我志愿耶?但此则余之出面,阻力尚不甚大耳。
十月三十一日
~拟往葛竹访母舅也。十一时后起程。下午四时后到葛竹。
十一月六日
上午监工。……
工人困苦,小工更苦,工场法不速实行,小工无法保护,中国人民只见死亡病伤,决无完全
生存之理。有责任者,其可不恻,然没法实行提倡乎。
十一月七日
修理旧屋,比另建新屋为难。破坏旧屋,则比新建新屋为易。可知破坏非难,建设为难,而
修理则为更难,且不易完全也。
十一月八日
…写元冲信。……
十一月十三日
胞兄由粤回来,了理丧事。
十一月十四日
……写季陶、果夫各函。……
十一月十五日
今日葛竹四舅父等,及后竺胞妹来舍。
忤慢长上,骄矜自恃,不可也。家庭之难处置,婚姻习惯之恶,使人终身受罪。凡事都当从
解放做去,不可复以旧习惯害后生也。
十一月二十日
……预备丧礼。……
湖北居觉生,广东林焕廷,湖洲戴季陶、周柏年、陈果夫、骁夫,福建徐瑞霖,湖北冯亚福,
杭州徐子培诸君来舍吊唁。
十一月二十三日
四时起床。预备举母柩。…十二时半到鱼鳞岙墓地。一时□入穴封墓,从此母柩,目不能复
见。
十一月二十五日
41
近日赶办之事:1、学校;2、看诗经;3、习英语;4、看~。
十一月二十六日
欲与旧社会愤斗,无异以一人而与四万万人为敌。非养足四万万倍之精神,鼓励四万万之勇
气,不足与言平衡,胜负犹未可知。其可好懒偷安,自居新人乎。
十一月二十八日
上午为离婚事,亲戚迟疑犹豫,以致延迟不决,心甚愤恨。自至老屋,向孙氏舅母发恼,方
能解决,然已不知费了多少精神也。
晚写经、纬二儿分产□信。纬儿可爱,经儿可怜,思之沉闷,□□后事,心寒脑晕。自哀莫能
为怀。孙氏舅父来谈,携经儿信去。
十一月二十九日
欲立业,先立志,欲立志,先立品,欲立品,先戒色,色戒则身强,精神备而可为矣。
十一月三十日
看冶诚病,未愈,甚念也。
乡愿不死,殊无□乡之乐,甚想不愿来乡也。
十二月一日
下午陪王海观医生看冶诚病。
十二月十二日
下午二时到宁波。
十二月十五日
上午九时由大东起程。
十二月十八日
上午九时船到香港。
…写仲恺、子宽各函。…
十二月十九日
…写芝珊、仲恺、子宽各函。…
十二月二十日
……在拟作战计划,想定稿。…
十二月二十一日
……下午仲恺、湘芹、仲元来访。……
十二月二十四日
……六时后起床,七时搭船,在船中拟作战计划。下午三时上陆,即回浅水湾香港酒店。
42
十二月二十五日
……自九时至下午五时,拟作战计划稿。
十二月二十六日
……终日拟北伐作战计划。
十二月二十七日
……季新、仲恺兄等来访,读静江函。……终日拟作战计划。
十二月二十九日
……上午往访仲恺兄,同访竞公与季新、湘芹诸先生。……
十二月三十日
知胞兄英德任内,亏欠六千元。……竺某为英德新任扣留,不胜惭愧。…公事公办也。
十二月三十一日
……检点作战计划,上午往访仲恺季新兄等,往军部接洽。
收支一览表
一月 静江 200 元,100 元,200 元
二月 汝为 1000,竞公 100 元
四月 竞公 200
五月三日 竞公 200 二十二日汝为 1000
六月 收中师 2000 竞存 1000
九月 汝为 1000 元
自七月起守制中应看读诸书如左:
1、礼记 2、诗经 3、书经 4、易经 5、春秋
以上应看之书
1、史记菁华 1、楚辞离骚 2、项羽记 3、庄子 4、韩非子 5、唐诗
以上择要应读之书
1、胡文忠集 2、王安石集 3、李文忠集 4、曾公集 5、巴尔克战术 6、孙吴子
1 月 6 日致季陶函
1 月 15 日复沧白书
4 月卅日复孙胡电
本年一月收支一览表
九年旧历十二月廿八日止,共收静江洋壹仟零余七元正。
二月间存付静江处上海交易股票壹仟零伍拾。
二月间收协进社股票壹仟壹佰(此处不清)股正。
本月(六月)底止,共欠茂新洋 3107 元 8 角。
阳历八月十八日止,共收茂新伍仟捌佰柒拾陆元五角肆分。
阴历七月二十日止,共收静江先生洋贰万壹仟六百八拾一元。
43
1922 年
中华民国十一年日记
元月缺 123 及 5678——15 日原件破损无法判读
1 月 16 日 1922(辛酉十二月十九日甲申)
八时起床,九时半由平乐启程,下午四时后到阳朔。寄住于旧捐局。与吴□□谈天,乃知桂
林计划未定进退,莫不胜疑虑,极想由阳朔即回上海。不□□此内争漩涡,再三思维无计可
出。□□暂到桂林,再定个人行藏之计,惟自…鲁莽暴躁,何不持重乃尔,来此何为耶,平
时重义合道,如一有过□,则前名尽弃,何如自重自信,保持情意为尚耶,乃知季陶之有先
机也。
1 月 22 日
------往孙大总统处报告一切,……看作战计划图,晚应中师及李协和部长之宴。
1 月 23 日
八时起床,上午往觐中师,商谈数小时。中餐后往访汝为兄及谷正伦旅长,下午画作战图。……
言语轻快,举动轻浮,是余一生之病,不如我守我拙,言语迟钝,举动沉重,或可补救德行
于万一也。
1 月 25 日
往访汝为兄,往应李协和部长之宴
1 月 26 日
八时起床,上午往军部会见各部员。下午往访谢炎煊旅长,及朱培德总司令。回八桂厅改作
战图,晚应军部人员之宴。
1 月 27 日
往访彭程万总司令,回八桂厅,著第二军集中计划图稿。自访彭君后再访李明阳、赖世篁梯
团长及李协和部长,回八桂厅。下午礼卿兄来谈,著集中计划表。往访展堂先生,同访汝为
兄。晚宴同乡于八桂厅。
1 月 28 日
上午改正集中计划稿,往访汝为军长及大总统胡秘书长等,回八桂厅记事。下午胡秘书长、
许军长等来厅设宴叙谈,亦极一时之乐。但时局多故,内部复杂,言之抑郁伤悲,慨叹无已。
又想家庭状况,母亲逝世不能在家与儿孙辈度岁,以后可怜我的无人了,爱惜经、纬的人亦
少了一个,从此我永不能再在家中与我母亲见面度岁,尽些孝道,思之更觉苦痛。
1 月 29 日
昨晚沉闷抑郁,思虑不定,殊无为国为党之良策。然吾人当以个人信望名誉为国为党而牺牲,
徒论是非,不管利害,则无事不可为也。……礼卿兄来谈,下午往访汝为兄。谢炎煊来谈,
晚应炎煊兄之宴。
1 月 30 日
上午访展堂秘书长,商议进行事,往军部办公。十二时后由军部往大本营会议后方勤务,三
时见中师,后回八桂厅。往访汝为兄,晚礼卿来谈毕。夜间往大本营与胡秘书长同见大元帅,
44
议决出师日期及移动大本营于韶州计划毕。
1 月 31 日
往军部办公,下午往汝为兄寓商量事务,接精卫、仲恺、湘芹、海滨诸公电,嘱调解汝为军
长辞职事,不知者皆以为我为预闻其事也,为难殊甚。回八桂厅思覆汪廖电,□难自解也。
2 月 1 日
上午往军部办公,下午往教导团演讲。……晚餐后往访军长,应胡秘书长等宴,即回八桂厅。
今日覆廖、汪电文,言弟心病甚苦,无法调治,以后对党对友惟有尽我心理而为之,至于各
方能信与否,只可任其自然,但求自我无亏道义而已。
2 月 9 日(正月十三日)接冶诚、璐君及舅父信。纬儿与诚、璐三人,有一在此,亦作以消
遣。
2 月 11 日 在人在镜中亭摄影。
2 月 13 日
上午往军部办事,做事之难,莫难于纪律不明,赏罚不分,教练不精,阶级不尊之时,凡遇
一事,必使隔阂支吾,不能速了,如今日之改编军队与黔军,搜藏鸦片之事,可知古今历史
不能实载,以及漏载者,不知凡几也。
2 月 16 日
晚应大总统之宴,便访陈少白、曹亚白先生,言语轻浮噪杂,非老友几为他人所笑矣,人不
自重可乎。
2 月 18 日
傍晚与礼卿谈笑,但忧不能娶美女也。
2 月 19 日
写冶诚信,寄相片。
2 月 20 日
奉天代表李绍白到桂。
2 月 25 日
军界、政界皆非吾性质之所宜,不如从事于社会事业,以养吾天真也。
3 月 3 日
接新甫函,乃知经儿已考入万竹小学第四年级,颇为欣幸。
3 月 9 日
接冶诚、璐弟信。以后非直捣武汉,决不辞休也。
3 月 13 日
拟行军与战时赏罚条律,对于绅民亦加赏罚,是较从前条律为完全。行军与战时,地方绅民
实有重大关系,不可不深加注意也。
3 月 15 日
今日见上海来电,言交易所风潮,静江失败,余必被累损失不少,或一文不留,亦未可知。
但我不甚为意,颇为淡然。可知利禄,不以我为意也。其于道德心地或有进益与。
3 月 21 日
以后不可作回家扫墓之念也。吾母有灵,其以此为安乎。
4 月 6 日
晚六时抵阳朔。
4 月 7 日
正午船到平乐县城。
45
4 月 22 日
大元帅到三水,往觐后回部,又命各部,前进石围塘。闻陈炯明总司令于离省舍职,心甚郁
郁不乐。
4 月 23 日
极想摆脱一切,不入漩涡也。
4 月 26 日
写展堂、汝为诸公函……。晚九时睡,连夜呓语不息,大声直呼封船赴粤,四壁船客皆为之
惊醒,船仆来问时犹未全醒,乱言不息。冯君*民为之惊起者二次,可知心事惊魂,非平时
可比,此次完全负责,一人承肩太重,难怪其然也。
4 月 27 日
船已泊吴淞口外,林焕廷、陈果夫诸君来迎,八时后搭小火船,十时抵沪。往访静公,其面
色之瘦,殊非平常可比,且有心神病,窃恐其病深不能久也。下午三时搭新江天。璐弟送行,
五时开船,八时睡。
4 月 28 日
六时到宁波,七时上陆,搭轿启程,下午二时到家。
4 月 29 日
下午往扫母墓。
4 月 30 日
下午往拜父墓,及青弟之墓。
5 月 9 日
五时起床,写仲恺兄信至八时后完,以力争大本营所在地,大元帅坐镇广州根据地为要也,
下午假眠,一小时往修母墓。
5 月 10 日
晚唱留声机解闷。
5 月 19 日
四时醒后,思虑国事,与私人行藏,皆无善策。
5 月 21 日
以后拟以薪水所入,全助学校,指定其数,为两儿至大学毕业之学费。毕业后所有我经费尽
归学校。至观恃□□管理学校之法,当以本学校毕业学生皆为校董。由各校董选举董事长及
校长。此法或可行之无弊也。惟校长须三年改造,最多不得过六年也。董事长亦当如此。
5 月 22 日
上午七时后由家起程,~四时到甬。~纬儿随行,颇不寂寞也。
5 月 23 日
六时船到上海,~访静公谈天。~商业失败之后,所见所闻所言所思,皆不如意之事,可叹。
以二十万金信托于静江经营商业,全权交人自不过问,虽信人不能不专,其病则在自不预问,
不知几,不留心,无经验之果也,有何悔哉。
5 月 24 日
同经纬两儿及竺甥摄影。乘汽车游行郊外。
5 月 25 日
上午往访湘芹、焕廷,致季新、展堂、仲恺、汝为各电,主张先巩固后方,再计前进,愤恨
某等盘踞省城,逆命作乱也。
5 月 26 日
下午一时,船到湖州,入东门潜园,访季陶。
5 月 29 日
46
昨日发热,今愈,意兴惨淡,无聊极矣。上午十时到上海,访静公谈事。接季新及先生各电。
下午,往访胞妹及焕廷、沧白。四时搭新北京起程,回甬。晚八时后睡。此次来沪,极从来
未有之忧虑,然心目中仍有极广大、极光明之事业在,决不因此以稍馁其气也。
5 月 30 日
上午六时船到宁波,即搭宁奉火轮,付一千伍佰元与孙舅父。~十时后到六桥,搭轿。~下
午二时半到家。
5 月 31 日
朝醒,沉思国事,不胜愤懑,蟊贼败类不减,决无以善其后也。
6 月 3 日
往鱼鳞岙监修母墓。~下午天气闷热,欲不能制,由于不能自立之故,以后宜亟改之,不可
再犯。
6 月 4 日
今日为母亲阴历忌辰,以后无论阴历阳历,凡为母亲忌辰之日不食物荤,不动气,不御色,
以为终身自惩自戒,冀减不孝之罪于万一。
6 月 6 日
三时后醒,想念身世与人情之薄,悲叹无已,愁闷不堪。果夫之人利己忘义,太不行也,当
痛斥之。
6 月 7 日
闻胞兄欲在母墓东侧上手,为其妻筑墓,不胜愤闷。此人心术不可复问,可叹。
本宅地位,实不可多得者也。
6 月 8 日
万事无所为本宗与异族,有钱则趋,而以本宗为更不能靠。乡人无智无礼,亦无义,不必体
恤,不必可怜。以财易工,是为正办。多予之则反觉其害,且后来更难为继。吾母对人实有
□意也。九时睡,反复不能成眠。
6 月 14 日
今日为先妣去世一周年忌辰,呜呼,不见吾母者已足一年,此后不能再见吾母之颜色,中正
罪大恶极。一生悔恨,其有极乎?
六时前起床,慕拜母灵,敬求观世音菩萨,许建筑大殿,重兴雪窦之愿也。接湘芹、焕廷各
函,知黎元洪违法入京就总统之位,从此天下又起纠纷。政客议员之肉其足食乎?恨手无寸
铁不能一扫荆棘,忧闷无已。
6 月 18 日
接汪季新、林焕廷各函,惊悉陈炯明叛党,广东政府为其所部包围缴械,幸大总统在楚豫兵
船无恙,其事或有转机,不至绝望也。书生败事可叹,政府处置失当,亦可叹。此时季新不
离粤,吾速返粤不滞迟,则此事或不至于如此也,吾亦有罪。
6 月 20 日
九时由家起程,一时到方桥。~三时半到甬。搭盛京船出帆。
6 月 21 日
六时到沪,上陆见季新、焕廷谈粤局,叶部之无天理人道,闻之为之发指。天眷吾党,幸而
中山不死,中国尚有一线生机,然而危矣。
6 月 23 日
五时起床,思虑闷坐,皆为家中与党中之事,思纬儿更甚,家与党不能兼顾。惟有舍我亲爱
之家族,以效忠于党事也。
接前线电报,及焕廷电话,知许、李各军已在广州新街获胜,吾知陈逆之不足灭,惟愿各军
乘胜追击,速平惠潮,则事方有济。
47
6 月 28 日
下午二时船到香港,朱执信夫人来接船,往访季新、湘芹,知广州事尚无头绪,大总统仍在
军舰,屈指前方军队回粤,尚未如此之快,以此语安诸友之心。晚宿于香港大酒店。
6 月 29 日
五时起床,六时登船,下午二时到黄埔,登永丰舰。见大总统叙谈详情及各方情况。晚宿于
永丰,九时后睡。
今日始知许军长二十四日在南雄接大总统之函,德友诚勇忠也。
6 月 30 日
发冶诚、璐弟信。
上午陪先生谈天,下午闻温司令特别戒严令及某事,疑虑殆甚。为此陈述海军移动之利害及
考虑计划,足有半天。前方消息茫茫,心甚着急也。
7 月 2 日
与大总统及各舰长决定坚持不动之计,无论如何危险,决不轻动也。终日忙碌,总未得北伐
军之消息,其行动何如是之迟耶。晚乘小艇小酌即回,中国之无望,虽改造有何用处,闷甚。
7 月 3 日
下午汪、古各友来会,畅谈一切。晚因鱼珠敌军限海军午夜离埔,海军要求攻击炮台,乃即
下令。不料事乃中变,海军之无用,可叹也。议论至夜三时,决于明日六时射击,温树德来
电阻止,愤闷无已。三时半睡。
7 月 4 日
五时半起床,静待今日六时海军开炮,而终不见开,无奈何也。上午假眠,会友。下午见祥
夫不端,痛戒一场。与雄甫言,不免言之过激也。晚闻海军有投北偷逃之说,心甚疑虑。当
此振憾惊惶指示,非果决明灵,静镇谨守,几将人所动摇也。
7 月 5 日
陈述最近情形于元首。钟星可来,言魏邦平拟要求陈军退出省城公府,恢复北伐军停止南下
之议,征求元首同意,元首充之。
7 月 6 日
六时后起床,熟虑叛军未必肯退出省城,以陈逆亦失统御之力也。即使办到,其以全力集中
惠州,负隅对抗,亦非我军之利也。此事能否实行无甚紧要,非待北伐军抵广州,终不能解
决大局也。上午代总统致朱益之、黄子荫书。……闻温之态度变坏,余心即决,不怕…。风
声鹤唳、危疑摇惑之时,非明察果决,安能支持大局耶。任劳任怨,岂足辞乎。晚闻海军熄
灯,又起恐慌,余则……。
7 月 7 日
下午会客……人来求情,魏丽堂来求总统……不允。晚闻海军大舰欲分离黄埔,余不之信。
7 月 8 日
凡是须明察其总纲要点,总纲既定,要点即决,则其余之危惧振撼,自能置之若无事也。五
时起床,观三大舰未离黄埔,吾上午研究地图,接许军长之报,乃知其…已到南雄,即日南
下,不胜欣幸。下午办公写信。闻海军三大舰决离黄埔……小舰移动至新造一带,以为出入
利起见也。晚上移动舰艇,一夜不能安眠。
7 月 9 日
六时后起床,拟进攻省城计划。……事上午会客,下令办事。总统…力守长洲,犹不愿进攻
省也。下午一时叛军鱼珠炮台开炮,攻长洲,长洲*祥夫之海军陆战队竖白旗通敌卖友,祥
夫之罪过于炯明矣。海军还炮击鱼珠叛军亦一快事,长洲竟失之顷刻,不胜愤恨,即下退却
命令,收容散兵。定晚间进攻车歪炮台。
7 月 10 日
48
五时起床,见各舰仍泊海心冈,尚未驶行,少顷,即驶进汕江口,命试射车歪炮台,敌人还
炮数发,其炮弹甚弱,射程甚近,必是野炮,乃于九时前下令,命各舰向车歪炮台鼓勇直进,
猛射炮台,行进炮台,敌炮以全力注射永丰坐舰,弹下如珠,船身连中四弹,身动摇,乃请
大元帅乘……仍坐上舰。客厅,见同乘各友失声失……,暂避者,余惟看钟点,而坐镇自如,
过二十分……即可通过炮台,不过经此二十分时之危险……。大总统在舰,余不应如此下令
冒险猛进也。事后思之,殊对大总统愧疚也,而总统则欣喜尤加也。十时舰进沙面,各友来
会。
7 月 11 日
提要:经过危险之后,自有一种无穷乐趣。昨日冒险……车歪炮台,痛定思痛,惟觉总统……
太过,而各舰将士之奋勇殊甚,前进尚有望也。上午为海军将士起草□季新函,致汝兄书□□□
光调和函,不胜愤激,即代总统起草□□绝。六时后闻车歪方面,炮声隆隆,知□□上警厅之
江汉、江贞已到与敌作战也。
7 月 12 日
上午代□军起宣言稿,□□□□甚恐怕英人之不言公道(以下原件无法判读)
7 月 14 日
不见十三日逆军方面战报,乃至义军必占领韶州矣。下午闻永翔舰欲偷逃远离,无可奈何,
只得放走,以与沙面居留地太近,恐涉外交也。困难时代□□愈多,处置愈难,惟有忍辱□□□,
言义军已于十二日下午三时□□□。
7 月 15 日
(本日开始看福尔摩斯侦探案)闻本军已于十二日占领韶州,审察情况,殆不误也。
7 月 17 日(看福案)
今日前方消息忽胜忽负,捉摸不定,此时惟有以方寸为主宰,判断最后之胜利必归于义军,
以后战局重心移至翁沅英德之间,而不在韶关之得失也。
7 月 18 日
(看福案自 28 至 31 案完)
今日得各方面消息,皆言义军已占领韶州,未知其果确实否。
7 月 19 日(看福案)
今日得各方面消息,韶关仍在逆军之手,又言英德有战事,其或本军由翁源绕道而出英德,
乃抄袭敌军之后方乎?综之,此刻消息,捉摸不定,吾知最后胜利必为吾军所操,是可断言
也。今午逆军放水雷于永丰坐舰附近,而离美舰只数丈,美国对敌提出抗议,逆军残忍至此,
必欲置元首与本党于死地,其奈天不客汝何。
7 月 20 日(看福案)
本日消息沉闷,乃知韶关犹在敌人之手也。
7 月 21 日(看福案)
上午接汪季新先生信,乃知逆军不支,又欲求和,我以元首之意覆之。今日接各方报告,逆
军屡战屡败,韶关确已被围。以意度之,韶关已于二十日可为我军占领矣。
7 月 22 日
闻元首言□人报告,逆军用肇和、永翔二舰来击我军舰。吾知逆军恫吓谋害之计穷矣,乃出
此万难之恫吓词,抑何可笑。逆军始用抢船,即用水雷,又用飞机,无日不思谋害军舰中之
元首,如稍无□□□心者,未有不为其所欺也。
7 月 23 日
看报告乃知逆军已溃退,惟不知其地点。批口供,今日各方消息皆报我军获胜,而不知其究
竟,胜利至何程度。此心虽聊慰于前,然犹耿耿不息也。本日看福尔摩斯侦探案三卷,逆军
49
谋我军舰之野心未已,前方虽胜,而军舰中之元首无时不在危险中也。
政客之肉不足食矣,其以我浙江之褚辅成与王正廷二贼为尤甚也。
7 月 24 日
今日各方消息,断定我军已占英德矣。……闻熊略及洪兆麟所部今日皆运往北江附近参战,
恩以仇报,人心莫察一至于此,可怕也乎。
7 月 26 日
下午得悉确息,本军已于二十四日占领韶关,此心犹疑其子虚,而欣慰则较前为甚。
7 月 30 日
本日无甚消息,沉闷不堪,未知讨逆军究竟何日可以占领韶关也。将在谋而不在勇,兵贵精
而不贵多,信然。用兵不可用重兵与呆兵,当以多备轻兵与活兵为要也。
今日看左转及杂书。致季新函。
8 月 1 日
舰队官长皆年少,动用意气,不顾大体。士兵多分()界,易生误会。此一月余在舰苦心孤
□,排难解纷之劳,比诸前线作战之困难,更甚什倍也。
8 月 6 日
山田来谈。
8 月 7 日
本日消息我军败退,南雄似已为逆军占领,交通不便,消息沉闷,如败退消息果确,则先生
无留粤之必要。盖即不能牵制后方逆军兵力,又不能速集各方义军,而前方甚□,军队之战
机一时不易挽回,则在粤维持人心及军心之效无几,而徒冒险延误之害大,利害相较,此时
不如离粤为是。
8 月 9 日
看报知赣南紧急,乃知前方消息不利,故决请元首离粤,议决即派美人顾问往商英领事,得
其赞助,乃定于下午四时乘英国兵舰摩西号离粤。舰队情形,现已有骚扰之象,幸未破裂。
中国海军人员之卑劣,可胜浩与。途中万感交集,愤激无已。晚与元首谈世事。十二时后思
虑不能成寐。
吾国人、吾党友、吾子孙勿忘陈逆炯明谋害元首党魁之罪恶,不杀不已。
8 月 10 日
五时船到香港,即搭俄国皇后号。上午在船甚闷,季新兄来船邀其同行,正午开船。下午谈
时局,与元首季新二人研究宣言大旨。
8 月 11 日
在船中研究以后进行方法,晚傍以浪大即睡。
8 月 12 日
风浪雾雨极大。为从来所未遭遇者。不能起床。
8 月 13 日
三时抵吴淞口外,以浪大,小汽船不能出口。故不能登陆,与季新兄研究宣言词句。
8 月 14 日
六时起床,风尚未息,八时各友来船招待,十时乘汽船至吴淞口登陆,十一时到孙府略息,
即往张静公家过□。下午在孙府商议应办各事,晚宿于孙府。
8 月 15 日
今日孙公发表宣言,为中外舆论所颂扬赞许,全日在孙府办公议事。
8 月 16 日
终日在孙府办公。
8 月 23 日
50
七时到甬。
8 月 28 日
五时由天福庵起床。
8 月 30 日
下午回东亚旅馆。
8 月 31 日
教纬儿。□看洪杨演义。晚看石达开日记,不能释卷。天朝内讧,英雄末路,古今同慨,陈
逆炯明,其比北苇不若矣。
9 月 1 日
看石达开日记感慨不置,石公用兵惯飘忽振荡,其行军惯在边陲幽径,使人不可穷究,故能
出奇制胜。三年之间往来于长江左右岸十省,悠游自在,不觉艰难困苦之为何。彼虽自言长
于攻而短于守,此其不避嫌疑,不急入川,则东南各省,如赣、如浙、如皖、如鄂亦必能得
地固守,称雄一方。惜乎天朝内争,石公仗义,逼其入川,卒为岛山隘路所困,而不能达其
定川之目的,可不叹哉!由此可知,边陲僻径为出奇要道,然而辎重不济,土寇为患,道途
险恶,时期难定,皆足制其死命,石公之败,足为吾人之一大教训也。
9 月 3 日
十二时后回旅店。
9 月 5 日
六时,决心回家,起床。~6 时到家。
9 月 7 日
著大总统被难日记
9 月 8 日
全日记述孙大总统被难日记。家中沙土雇工不着,不能扫除乡。人只知收进,不知礼节,毫
无亲气,贱极矣。以后不愿周济,乃知共产主义不能实行也。
晚宴客。商议学堂事。
9 月 9 日
上午九时,由家中起程。下午一时半到方桥。搭小火船。四时后抵甬。搭新北京船。
9 月 10 日
六时后船到上海,启民来接(被删除)。即访展堂、仲恺,见中师。中食于静寓(被删除),
一到上海则神昏颠倒,正事忘而闲务兴。上海非我所住之地也。
9 月 11 日
八时到大东见冯肇宪。往访静江,又访中师。今日神经衰弱,心绪不快已极。上海人情世态,
凡为我目见耳闻者,无一不伤心悲恻之事,几视上海为我仇敌之区,不可一刻留也。人之谓
北京铸造恶人之红炉,吾谓上海铸造恶习之红炉也。三时趁北京火轮回宁波。
9 月 12 日
八时到甬。寄住宁波旅馆。我之心绪不佳,皆由于自视太高,不能随地体察,虚心涵泳也。~
终日记录孙大总统广州被难日记。
9 月 13 日
今日上午记录孙大总统被难记完。晚往观剧,十一时回。有女突来访问,不胜惊慌,以其素
不相识者,后知其为误访也。(以下被删除)
9 月 16 日
改正被难日记。九时由甬起程,至江东三眼桥搭船。下午五时到天童。
9 月 20 日
51
修正孙大总统被难日记稿毕,托人付印。
9 月 22 日
上午九时由天童起程。~下午三时到宁波,寄住东亚旅馆。家乡以习俗鄙细烦琐,不愿住。
上海以污秽败坏,不欲住。避至天童,又以势利限制,不能自由,亦不乐住。~我志不使势
利、荣华、鄙细、污秽以烦我者,其惟深山巅谷、无人之境或可以达□随意乎?窃恐亦未必
也。舍此只有自杀一途,否则还是家乡独居自守,或可免烦俗也。
9 月 23 日
晚与纬儿住,入浴。
9 月 24 日
上午看报,见士蔑西报载中师联德密函,陈逆倒行逆施,其罪更甚矣。
9 月 25 日
七时后起床。上午写信,致子谦、芝珊、启明各函。入浴。下午会客。晚往真条庵。吃夜饭
毕。与纬儿同回旅馆睡。住址未定,行踪不决,看书无书,学字无贴,欲行无处,欲住难安。
天下惟无职业者与地位者为最难安。心理嫌恶世态与人心已极。世界几无我容身之地。非死
只有生活于军队之中,终身与恶魔邪障作对,为国为民,鞠躬尽瘁,死而后已而已。
9 月 26 日
准备往沪,二时搭北京船四时上岸。往沪为金钱所苦。贪拙之言,非我所应出,不胜悔恨。
故不愿往沪也。回东亚旅馆暂住。
9 月 28 日
往看房屋。~八时与纬儿回旅馆。
9 月 29 日
今日为经济事踌躇半日,贪与耻,义与利四字,不能并立,而此四者,皆为我所不能舍,如
能以耻字战胜贪字固善,但人至无耻、无贪、无利、无义之心萦怀于其间,则磊落不更光明
乎。
10 月 1 日
陈逆一部将渐形内讧,不患其不分裂,惟其对吾党攻粤,仍恐其团结一致。□□□□对其内部
当多用间谍,分湘、桂、粤三派分头接洽,对我友军分滇黔(?)湘沈、黄闽六部分及刘关
等,确实联络,以为进取之计,而基本部队仍在我自己努力发愤耳。
10 月 2 日
攻粤计,间谍不可不多用也。
10 月 3 日
~寻屋。下午上船,与纬儿来沪。
10 月 4 日
住大东旅馆。
10 月 5 日
至沪悔恨更多,烦闷更甚。神经刺激,不堪再受矣。
10 月 7 日
往访问中师,谈时局及处置广西各友军办法。
10 月 8 日
十二时到无锡,寄住无锡饭店。
10 月 11 日
宁绍房间污秽,规则窳败,使人闷恨。中国商人非用强迫整顿不可,人类性恶,世界以中国
为最,中国以上海、北京为最。宁波人性~卑鄙,沪甬几无我立足之地。
10 月 12 日
52
人类性动,人类性恶,当以动性而灭恶性,此去非灭绝恶人,不足以满我动性,家何为乎?
子何为乎?吾非尽吾力以铲除恶类,行我主张则誓不生还沪甬也。上午十时到宁波。烦闷非
常。
10 月 14 日
默誓排除恶人,不近女色,非达目的不复回寓。昨见韩人以其举动不正,为韩国忧,吾自可
不慎重正直,亦为人以忧吾国乎。~十一时后到上海。
10 月 16 日
人类性恶,互相残杀,而以女性为尤恶,所遇妇女几无不欲男子□命也。****
10 月 18 日
急事须熟思至最后之时,凡是能缓虑,至二十四钟点以后,则其思虑必无泄露后悔之事。
10 月 20 日
今日启程赴闽,如不杀贼除叛,讨平广东,为公为私,为国为党皆不愿生还矣。
10 月 21 日
上午记录逆军人数约为四万五千,一月后能在潮汕第一线者一万七千人,能在惠州者第二线
约加一万人,共为二万七千人。其余中立观望者约一万三千人,于本数应□者约五千人。
10 月 22 日
七时前起床,船到福州口,朝餐后记事,十时后船进马尾泊罗星塔,即搭帆船。下午一时到
南台入省城,往访各友,晚下榻于第二军部。
10 月 26 日
下午代表大总统慰劳讨贼军各将领。
(此后各日不清楚)
11 月 3 日(九月十五日阴历)
今日得前方报告,知赣敌已攻入光泽,此后变局不知如何也。
今日生辰,食素,以后照例。以纪念父母生育之苦也。
11 月 4 日
得前方报告,知邵武昨日失守,□□□公举王百川为福建总司令。
11 月 8 日
上午往贺王百川总司令,林子超省长就职,回部办公。下午往看病伤兵,往访子超,知李厚
基已逃,江西敌兵已退,今日消息渐佳。
11 月 11 日
就职二星期,不敢苟懈。诸事尚不果立一进行程序,其条理而不能见诸实行,可知作事之难
也。~讨逆报仇雪耻之责,皆在吾一人身上。
11 月 21 日
今日竺芝珊、俞镇巨等到闽。
11 月 24 日
海军来船检查,蛮横殊甚,中国海军怕强欺柔,坐大无用,于此可见一斑。令人闻之生嫌也。
八时到马尾,上宁兴船。福州交通不便,闭塞不堪,唯妇女之美或有过于苏杭者,此为其优
点也。
11 月 27 日
七时后起床,船抵吴淞口外。十时抵沪,往见中师,会展堂、季新兄等。遇周孝怀也。下午
访静江、洁如、克诚等。晚为手机枪事。中师急召往商输运之法。十时回睡。寄住大东。
11 月 28 日
上午访展堂先生,访子荫,访中师。访友言多必失,且有机心及避怨之心,当事之难,尚未
53
及其一二耳。下午以事烦,起程来甬。中国商人,见之头痛,商家利禄之心,狡猾之谋,过
于官僚也。
11 月 29 日
上午八时三十分由甬搭轿起程,下午三时到溪口家中。
11 月 30 日
冶诚整装时,手指略破,因痛晕倒,伏地人事不省,迨后渐醒即睡。
12 月 1 日
上午九时由家搭轿起程。纬儿同行。…四时到甬。赶江新天。(赴沪)
12 月 2 日
七时起床,上船,以汽车不来接船,心殊怏怏。以后不愿乘车之心,以自汽车、电车、马车
以至黄包车无一不讨车夫之气也。上午往访季新、展堂及中师。回至大东旅社与纬儿往陶乐
春吃饭。下午往访中师及各友。晚(被删除)在旅社吃鱼生边炉太多。十时后睡,十二时醒
后肚泻清水,至早晨约有十余次,尚未止也。
12 月 4 日
今日元气未复,时局未定,内部不良分子太多,忧心如焚。汪大變组织北京内阁,而任用王
正廷、李根源及黄郛□□一班*头*鬼为阁******(被删除)
12 月 6 日
今朝醒后觉夜梦有无数极大之蛇,初出地洞即死,其有未死者亦为予所打死,未知何兆耶?
为觉兄对本党处置不当,思一尽忠告也。上午致汝兄长电及伯衡信。下午会客,看曾公家书
(被删除)。
12 月 8 日
七时起床,冶诚来接,即至引仙桥第十号新租之屋。房宇宽畅,甚协心意。
12 月 12 日
上海书籍寄回,心甚快乐。终日栓书。
12 月 13 日
冶诚女子,妒嫉成性,终欲使人不乐,殊为抑郁也。
12 月 14 日
四时起程,~搭新宁绍。开船时,纬儿在码头叫应,依依不舍,直至船远,不见不闻为止。
人为感情动物,而临行时尤足引起感情也。
12 月 15 日
八时抵申,目忽作痛甚剧。~回大东旅社。晚洁如来陪。
12 月 18 日
宁兴船由上海出帆。~十时洁如送我上船。
12 月 21 日
下午三时到福州省城。与总座谈天。
54
1923 年
中华民国十二年日记
元月十一日以前缺(有破损仅留一角者)
一月十一日
复洁如、雪竹各函。
一月十三日
上午由鼓山回福州城。下午与总座议事,晚陪宴。访总座,九时回睡。
一月十五日(壬戌年十一月二十九日戊子)
在院不胜抑郁愤忿。下午总座来访,准我回申,心稍平,而人心之恶,世道之劣,吾党之不
幸,可以知矣。
一月十六日
上午出院,访总座,入总部,下午会议后即起搭船至马尾。
一月十七日
八时由马尾出帆。
一月十八日
今日在船中谈天。
一月十九日 星期五
十一时到沪,往晤静江,谈天。下午目疾,洁弟来陪。晚应中师宴,十时回大东睡。
一月二十日
上午访季信、仲恺兄及中师,下午请中师书我撰句毕,上船。
一月二十一日(壬戌十二月初五日)星期五
到宁波检书,下午陪纬儿散步。
一月二十二日
55
以目疾不能看书,但有忧郁愤激而已,致仲恺函,不能赴中师约。
一月二十三日
目疾不能看书作事。
一月二十四日
目疾
一月二十五日
目疾
一月二十六日
中师召我赴沪,并惠款二千元。
一月二十七日
中师定今日启程赴粤,因沈鸿英叛乱,故中止。今日回溪口家中。
一月二十八日
上午往游武山,下午往拜母墓。
一月二十九日
今日国柄侄完婚。
一月三十日
下午往石蟮岙及桃?山,往拜祖父及弟各墓。
一月三十一日
下午往拜母墓,并计划修?屋。
二月一日
上午九时由家起程,下午一时至徒?桥,搭小火船,四时到甬。接汪季新兄及评汝为兄函电。
二月三日
56
上午看家谱,下午朗云方丈来访。又因奸商妒忌,发怒愤激,殊非其道。晚看心经,甚觉虚
空之理不误也。以后拟多看佛经。
二月四日
上午接季新先生函,心甚耿耿。教纬儿,夜课儿书。
二月五日
覆汪季新兄函。课儿读,下午送年敬神,看佛经,敬关夫子神像。
二月六日
至仲恺兄函,课儿读。
二月七日
赴沪应季新之约。
二月八日
到沪往谒季新兄及中师,静兄。
二月九日
到沪往谒季新兄,下午致汝为兄函,晚往谒中师。
二月十日
往谒季新兄、沧白兄,下午往谒静江兄及中师,搭江天船来甬。
二月十一日
上午到甬,往访朱氏。下午整书,按排书橱。晚九时睡。
二月十二日
致中师函,拟各电,枕琴先生来谈整书。
二月十三日
上午整书,接中师电,下午整书。
57
二月十四日
上午计划书箱样子,下午与纬儿外出购物。晚课儿读书。九时睡。
二月十五日
上午整书,下午入浴。祭祖,陪纬儿外出游览。晚在家度旧岁。课儿书。
二月十六日
上午陪纬儿往新顺拜年。下午假眠,九时睡。
二月十七日
上午检书,外出视察风俗,下午外出独游……(被涂抹一行)。晚以睡眠不着,眠痛心烦,
急筹出家作僧之计,目疾未愈,几欲自杀也。
如欲天下治平,自政府以至绅商皆欲废弃消除,而后可望其成,不然还是复古,以天下为私
有,以一人御万人,适其教育完成,人人知治,然后再废政府为是也。
二月十九日
上午整书,接中师电。下午看戏。课儿。
二月二十二日
果夫来甬,叙谈,下午观剧宴客。
二月二十三日
上午致沧白、展堂兄函。后中师电。下午致洁如、勉师各函。送果夫行。观剧。晚因家用与
冶诚噪恼。
二月二十四日
接汝为兄电,*妹来甬,经儿由家赴沪入学。为交易所事,忱琴先生来商议诉讼,课儿。
二月二十五日
与忱琴先生议决应付交易所理事作弊事。
二月二十七日
接覆第一师官长电,外出散步。晚课儿。
二月二十八日
致果夫及经儿函,课儿,外出游玩。晚令纬儿放花筒,时至今日廉耻道伤,纪纲扫地,而其
原因则在是非不分,赏罚不明,彼此存利用之心,所以信义荡然,国焉得而不弱也。吴景濂、
58
王正廷之肉其足食乎。
三月一日
致展堂、静江、果夫各函。中师赐电,无辞答复,歉惶不已,不出不得也。近日心放色利之
欲又起,戒惧乎。课儿,观剧。
三月二日
课儿,定纬儿课程表。
三月三日
果夫来甬,商议交易所起诉事。
三月四日
检书,复中师电,观剧。接王东臣旅长电。
三月五日
覆中师电,致各友书,检书,接中师电,不胜惭惶。
三月十日
检书,示经儿。吾友除孙先生以外,诚意待我者极少,昔日以为可信之人愈不可信,天下事,
惟求自立而已。
三月十一日
论上海证劵物品交易所之地位。下午观剧。
三月十二日
上午修改交易所论文。下午会客。
三月十三日
目疾加剧矣。
三月十四日
展堂、精卫、海滨、毅生、直勉、焕廷诸同志,由沪来甬,畅叙时局。
三月十五日
陪各同志游观宗延庆及七塔诸寺,中食于七塔寺。宁波市政之劣,无可言喻,诚为宁波人羞
也。
三月十六日
陪各同志游天童,至下院阜头粪便之臭不可当,一路无清洁街道,到处皆臭也。下午到天童
寺,稍得清净空气。
59
三月十七日
陪各同志往游天童各景。
三月十八日
陪各同志游育王寺,下午回家。
三月十九日
今日同各同志启程来沪。
三月二十日
到沪往问洁如弟。下午访静江精卫诸同志。
三月二十一日
为交易所事,与各友磋商。晚与赵芝宝谈判。
三月二十二日
上午接湘芹电,往访展堂先生,下午往访静兄。外出购纬儿所读书。晚应展公之宴。
三月二十三日
上午往访展堂、季新兄等,商议大局。下午与静江商交易所事。往天韵楼游览。晚洁如来陪。
三月二十四日
今日仲恺兄由日本回沪,应展堂季新兄之宴,商议时局。
三月二十五日
上午访仲恺兄,商议各事。下午与仲恺中食后,再与展堂、季新兄等商议时局。晚洁如来陪。
三月二十六日
上午仲恺、季新兄来谈时局。下午往访静兄及洁如。晚洁如来陪。
三月二十七日
上午写沧白函,会客,下午议定茂新事,启程回甬。
三月二十八日
1 时到甬,下午在家课纬儿。
三月二十九日
上午为纬儿订影本 5 册。下午复中师及汝为、翼群各电,示谕经儿与纬儿。外出散步。
三月三十日
上午定纬儿课程表。下午整书。
三月三十一日
60
下午一时到江口。四时到溪口。家中会客。往学堂参观,校舍整齐,为之心慰。晚课儿。
四月一日
可与其言者,在家乡则小孩,在外则孙公及一二知友而已。
四月三日
在乡间只有与儿童盘旋,反比在都市应酬有兴十倍。
四月四日
七时半起床,…四时后到甬。
四月九日
上午致海滨兄电,展堂、惠生来访,下午往访展堂,谈王良畴及正廷事,殊为可叹。正廷之
人格卑劣,更不足道矣。晚洁如来陪。
四月十日
下午为纬儿买字帖,寄家。
四月十一日
接沧白电,元首准予辞参谋长。
四月十二日
上午往访展堂兄,接仲恺、海滨电,即覆。见治诚函不胜忿闷,妒妇诚难养也。下午访友,
会客。洁如来陪。
四月十三日
洁弟来陪。
四月十四日
洁弟来陪。
四月十五日
九时由大东起程,乘美船来粤。
四月十八日
七时后到香港,廖夫人来接,暂住杜绍乾先生家。闻沈逆鸿英十六日晨来攻省城,为滇军击
退,战事至今未已。晚即搭船来省。
61
四月十九日
六时后到广州,入大本营,见元首。闻石井兵工厂已于今晨克复,沈逆主力李易标所部完全
击破。本日商议各事甚忙。晚九时后睡。
四月二十日
六时起床,上午拟作战命令稿,下午会客商议各事。
四月二十一日
上午会客,拟命令,商量各事。下午访杨绍基及各司令。天下事之难,莫难用人及用于人也。
经纶工夫大半在此也,可不留心。
四月二十二日
写季新、洁如、经、纬各函,应哲生宴,访刘宪丞总司令。
接韶关无线电,知沈逆检查员已撤,将有退却之意。
四月二十三日
办公,闻肇庆战况不利,调谭部增援。北江战报,昨晚在中心嘴与敌接触,今日尚无报告。
四月二十四日
本日逆军反攻,我中央军退至江村一带,军心颇为动摇。夜间接各方报告,不得安眠,但料
中央军必可抵抗无虞耳。
四月二十六日
上午拟作战命令稿,复汝为函。拟电稿数纸。下午侍从大元帅往前方江村慰劳。办事之难,
以应付犹豫不决及人不从意为最难,指挥军队诚为易事耳。
四月二十七日
上午致汝兄书,代拟致各总司令及师长书。得报知清远已于二十五日克复,私心已宽其半矣。
下午拟命令稿函件约五六件。晚与沧白、组安先生等在南园宴叙,言语太放肆,不敬矣。
四月二十八日
上午得左翼危急报告,即拟令稿约千字,命右中两路前进。正午蒋光亮师长来报,清远失守,
中央滇军犹未前进,见之心痛,不禁泪下。政治之最不能进步之点是不能实行赏罚,而执政
者犹不明是非,妄论功过,则复何言。晚接报告,下命令,终夜不能安睡。
四月二十九日
拟令稿定作战计划,今日心甚不乐,以不用于人则人怨,而己有不愿就军职也。晚在江孔殷
家应宴。
四月三十日
本日办公,拟东江作战计划及处置各事,几无暇晷。参谋事皆由一人承办,精力恐不及也。
元首言中国军队不能望其遵照意旨,及守原则,攻守进退,唯听其自然,只要大局无碍,吾
决前途希望甚佳也。此言非常心所能言,不胜钦佩。
62
五月一日
昨日攻击银盏坳之敌,大获胜利,未知其结果胜利至何程度。惟闻北兵淹死者数百人耳。银
盏坳既得以后,东江消息虽急,亦无妨也。
五月二日
今日商议粤省官吏调动问题及拟防守东江及省城计划,接展堂、季新各电。
五月三日
上午拟作战命令稿,及代复函电。机心未消,反足以自失道义与人格也。下午侍从大元帅赴
源潭慰劳将士,到时已十时,回大本营已三时余矣。闻惠州杨坤如果有不轨之谋,狼子野心,
终难成人也。
五月四日
今日办公,拟稿。又为东江事所牵制,而许军不能速达惠州为虑。北江正面之各部队,亦不
肯尽力追击,不胜忧闷。凡是【事】当须正直待人,不能全弄阴谋诡计,不特弄巧成拙,反
为人不信任而轻视也。
五月五日
上午办公,拟进攻肇庆命令稿,接覆李荫朝师长电。下午办公,会客代稿,议事。晚至南堤
小憩,叙谈片刻即回。接杨坤如覆电。今日为广东选举总统纪念日,并祝捷,颇闹热也。
五月六日
下午侍从元首至三水,慰劳伤兵。
五月十日
晚陪马林君应元首之宴,研究一切。
五月十二日
上午拟令稿,商议赴欧事宜。按排本日应办之事,下午访蒋信之师长,商调兵至增城事。彼
竟应允。
五月十五日
上午复滇军将领指摘命令之电,中师以为置之不理,亦是办法。此等度量、气魄、规模之宏
大实为吾人所不及也。往劝朱益之兄复参军长职,不见。
五月十八日
-----发表邹海滨为财政厅长。
五月十九日
下午以范召生师长迟延不出发,要求饷项为辞。军队之上官如此,而于国家与党务,复犹何
63
言。
五月二十日
吾尝以为元首无权,无饷,军队跋扈,毫无纪律为忧。与其受辱负□,于国无益,不如引咎
辞责为计,而元首之意适相反也。
五月二十一日
下午叠接坤城及汕头报,而府中不名一文,调动军队不能如意,各人皆不负责,视若忝然,
不知其为釜中之鱼,但有愤而已。无财无权而必欲组织军府,不胜愁闷。
五月二十二日
上午致益之等函,办公,下午整装入浴。五时搭火车,七时到石龙。即搭船上博罗途次。
五月二十四日
傍晚,往见首座。晚往访沧白兄,心甚不乐。滇军之现象,既不能令又不能命,视广东如征
服地,视元首如债户。轻侮骄横,不能耐烦。因之大发牢骚。十时后回睡。
五月二十六日
晚闻潮汕许总司令部无人负责,人员四散,李福林且由汕回省,心甚焦灼。
五月二十七日
------得潮汕失守之报,不胜忧虑,汝为不听吾言,卒至于败,心痛泪干矣。军队全在不战而
屈人之兵者,又不在勇而在谋,汝为如此,诚可叹也。下午应粤友之招,往游荔枝湾。晚十
时会见中师,十二时回亚洲睡。
五月二十九日
会议军费事。□请元首明日亲驾石龙督战也。
五月三十日
下午为款项事,愁闷万状,无钱一事难掌,无可奈何。
六月九日
晚与元首谈进行方略,及吾党前程之意见,陈述颇详。
六月十一日
下午五时到博罗,各军无米可食,心甚不安,即以卫士之米给发各军。
六月十四日
64
元首出巡,其所到之地皆降雨沛然,是亦天意乎。
六月十八日
晚参观青年会女子组织,军人慰劳会,颇有可观。
六月十九日
接复刘显丞、许汝为、胡慕羮各函。接杨电称,粤军又退至龙头圩,如此不负责任,滇军正
在攻击,粤军无故后退,殊为可恨。下午代致各处函电。闻许汝为兄欲回广州养病,总统决
定往博惠镇摄也。晚观剧。
六月二十一日
今晨访汝为,以为吾妨碍其事,殊胜骇异。应酬敷衍虚伪阴险者,非我友也。败吾党者,未
知何人耶。正午往白河堆,刘显丞及东江各将领议决以滇军增援北江,而以许军三旅增加惠
州为野战之军,心甚安也。九时回博罗,今日心更抑郁矣。力谏元首脱离西南军队或有成功
之日也。
六月二十二日
今日见汝为兄心甚不快,几不愿为之谈话,后以予可回其总部帮忙之语答之。彼始释然,处
世诚难矣。
六月二十三日
-----与元首谈时局,教我以俄德近况。晚与元首谈党事,及至人才缺乏,不禁唏嘘太息而已。
六月二十四日
------六时,回大本营,闻杨映波、范名生必欲不顾大局,忧虑无已。近日粤局方期,日有起
色,而其内幕竟至如此,可悲乎哉!晚宿于亚洲酒店。
六月二十五日
拟电稿数通,支配财政收支及各军伙食之数。
六月二十六日
------往访廖省长,复汝兄函。今日略有余暇,调遣完毕,命令尽发,反觉宽裕也。政略与军
略不可混为一谈,此次不占领梧州全为政略所误耳。
六月二十七日
上午接汝为兄函。知其弟许济所带军队又被敌人诱去,治军贪财与不公二者所失一也。知此
心甚不安。
六月三十日
近日脑筋愁闷,枯寂异常,惠州未下,逆贼未灭,不敢作乐,只有私淫以兴起精神也。
65
七月一日
好色之心,求全之心,皆不能去,所以浮轻放浪,一事无成也。
七月三日
上午预算公款,筹备赏项及各款。
林警魂贿买滇军,包庇沙田局事,闻之,不胜愤恨。
七月四日
------戏言未戒,贪心又起,有何德业可言也。
七月五日
------大本营军政府财政皆归余一人负责,怨忌渐集,如不管则事多败坏,尤为不忍。内部水
火,君子道消,虽有贤主,不能挽此劫运,党败国亡,皆在于此也。
七月六日
今早三时醒后,思虑处境之难,办事之艰,急思隐退,以免入此漩涡也。继思余去则先生左
右缺人,实于大局有碍,不忍舍先生独行,以负其知遇之恩也。故勉强抑之。
七月七日
上午与元首影相,为韶关巡阅纪念也。
七月十日
早起写洁弟、冶妹各函。
下午会议,解释滇军情形及各处置方法,声色俱厉,难免失之粗暴。盖近日目击心伤,肝气
极旺。本党人员非贪私即要钱,心术之恶,于此为甚。所以暴躁之气,不禁外溢也。
七月十一日
正午到黄埔参观陆海军学校。
七月十二日
上午访仲恺,暴躁复起,大骂同志某。又访沧白。忽闻逆耳之言,心更不安,决意辞去回沪。
下午见元首辞行,三时后上船,午夜到香港,投宿香港酒店,蚊多,几不成眠。今日心痛异
常,刺激悔恨相继而发,世道人情不可言矣。几有不愿问世、独善其身之想,身赖自立社会
助益少也。
七月十四日
早起治装,八时半起程。九时搭英邮船开士马号。
七月十五日
66
今日在船看小说解闷。甚悔沧白之函不宜发也,以致其多疑而无补于友道。然其事已成,后
悔无极。只有学从前种种譬如昨日死,以后种种譬如今日生也。得此番教训,以后应知自修
矣。
七月十六日
六时后醒,自悟过去之差,为人所轻侮者乃在戏谑,为人所妒忌者乃在傲慢自大,其病皆由
轻浮二字而生,以后如要言之不妄发,行不专横,只有谨言慎事,厚重自持,宁为人笑我道
学,而不愿人侮我浮狂也。
七月十七日
八时到沪。……下午洁弟来谈。往访静江兄谈交易所讼词。
七月十八日
今日在旅馆与洁弟谈天。…晚与琢堂兄等商议交易所事。
七月十九日
上午精卫、焕之二兄来谈。下午会客,往访静江兄,四时后上船。
七月二十日
六时后到宁波,回家中。教儿,整书。
七月二十二日
十二时正到溪口家中。
七月二十三日
接季新转来仲恺函。
七月二十四日
三时起床,四时起程,八时到徒丰桥,搭小火船十一时后到宁波家中。冶诚骂侮外人,心甚
不乐,终非大家规范也。假眠后复季新函,勉庐先生来谈。
七月二十五日
今日看报及教纬儿。午后四时起程。搭新江天。
七月二十六日
上午往访季新、焕廷兄,决定赴俄之议,于个人设想则心甚安乐也。下午洁如来陪。往访静
67
江,商议交易所事。晚与汪、林、邵等同宴于美丽。十一时后睡。
七月二十七日
往访焕廷,致仲恺电。往访静江,商议交易所事。
七月二十八日
今日为交易所事预备一切。晚季新、溥泉诸兄来商赴欧事。莘茹、伯桢来商交易所事。十二
时后方毕,稍觉头痛。
七月二十九日
今日头痛力乏,为交易所窳败,非出而整理不可,故不准其今日开第七次股东会,先令其清
理前帐,届时果如称延会也。
七月三十日
上午医齿。下午剑侯、季新、仲辉、焕廷诸同志来谈,共宴于小有天。晚与静江、琢堂商交
易所事。
七月三十一日
上午与玄庐拍照,谈天。下午看新疆游记。往访静江,晚访静江商议交易所事。
8 月 1 日 上午医目医牙,访友。下午以天气热极,时事不佳,人心险恶,几使人坐立
不安。接仲恺电,心滋不悦。晚与友商议交易所事。天下事,能自立者,人能助之,势利逼
人,可闷也。
8 月 2 日 与季新兄商议挽救厦门臧致平事,致电元首。
8 月 3 日 上午往访季新兄谈粤局。下午琢堂、洽卿来谈,交易所事。商家之谈钱数,
其言比算盘之加减还凶。余心滋难过。晚尤生变故,市侩之可恶极矣。
8 月 4 日 上午接杨君子明在厦为杨砥中枪害电,不胜悲愤。往访静江商议交易所事。
下午预备回甬。季新兄来谈,琢堂、端如兄前后来谈,以交易所事未了,不克回甬。晚与洁
如、经儿乘车兜风。为交所事,至午夜后睡。
8 月 5 日 为交易所事未了,几不能安眠。天下事之难,莫难于共事人之不良也。直至
下午五时后,其事方得解决,而心神之不快,乃甚于不了。以后莫管闲事,以免讨气。晚约
会马林及各同志,商决赴欧事。
8 月 6 日 今日心甚不悦,惟有速求脱离此中国污秽社会,以期根本解决此国事也。往
访季新,秋白、春木来访,详谈一切。下午製军服。三时后上船回甬。
8 月 7 日早晨到家,教纬儿写字。今日与纬儿耍笑,心神渐乐。整书检衣,预备起程赴
欧。此行悲喜参半,喜吾前程发轫有望,而悲吾党在国内缺少人才,苦我党魁,且对儿女不
免恋爱也。
8 月 8 日 上午拟纬儿课程表。下午假眠后,整纬儿书籍及看书。晚陪纬儿观剧即回,
今后数联如下:直率公道难容世,阴险骗诈反成名。以人人为莫逆,便知处处要留心。人心
虚伪社会陆沉,绝无容身余地,风波险恶,沙漠荒凉,创造渡世津梁。
8 月 9 日 上午为纬儿定课程表。下午假眠后看戏,定课程。晚与纬儿玩耍。九时睡。
8 月 10 日 朝起又成联句如下:国中皆荆棘,世上无知音。上午整书看书。下午假眠
后会客、看书,复经儿函。近日经儿学问颇有进步,心颇自慰。接焕廷兄电。晚往访朱姨即
回。
68
8 月 11 日 发鹤皋、启明名函。上午详定纬儿课程教法,整书。下午假眠。教纬儿课
程表看法。晚谈天,九时睡。如看人人为君子,毋宁处处防宵小。
8 月 12 日 上午写信致沧白、仲恺。下午看书写信。晚令纬儿观剧。
8 月 13 日 上午写信。下午看书。三时后上船。遇王一亭先生。晚 8 时睡。
8 月 14 日 早晨到上海,见焕亭、登云兄。量衣,访友,照相,看牙,访静江。下午
访友看牙。晚令两儿及駪干二侄乘汽车至极司非而路晚餐。回大东,会客。十时睡。
8 月 15 日 早起写仲凯、枕琴、懋卿及舅父各函。往访太雷、秋白及胞妹。医牙。下
午整整会客。同季新往访静江。晚应季新宴毕会客。沈玄庐由绍赶来时已午夜,叙后即睡。
今日对两儿及家事发依恋不忍舍之心,甚且暗地吞泪,如十二三岁外读时依毋之状。无异可
怪也。
8 月 16 日 六时起床发汝为、沧白、展堂、仲凯及先生与冶诚、康兄各函。会客。往
访季新、静江、力子诸君,回时已正午。两儿及果駪干三侄、洁如皆在大东送行。一时由大
东出发,一时十五分登木神丸,二时启椗,船中时闻小孩声音,以为纬儿呼父亲之音,甚至
梦中惊觉。天性之于人,殊不可思议也。
8 月 17 日 昨日与玄庐、登云、太雷同行,船中颇不寂寞,风平浪静,又为乐事。惟
时念纬儿而已。今日六时起床,照常点药。上午看蒙古地誌、记事。下午假眠后写舅父、里
夫、焕廷、季新、仲凯、荫朝、择生各函。晚九时睡。今日精神畅爽,心思渐专,自以为较
之赴粤得益多矣。
8 月 18 日 昨夜十时后,船至青岛,泊口外。今晨七时入口,雨雾连迷,山色不青,
但见港岸污秽,秩序紊乱,而于国人,除少数苦力外,并不见有一警察及港吏,一若无人管
理之自由港。王正廷收回青岛,如斯而已。徒负虚名,而不务事实,其于将来收回各处租界,
困难之影响莫大也,可叹殊甚。下雨,不能视察市场,殊怅怅。下午零时 30 分开船后假眠,
钞录蒙古地誌,记事。
8 月 19 日 六时后起床,望见大连港口,心甚怦怦。上午早餐后验病毕,撰刊哀思录
所感一篇。十一时登岸,入大和旅馆。孙鹤皋兄来会,同往泰华楼中食,午后往游星浦,风
景颇佳,游览街道,全为日本式之小横滨市也。华人住在大连者,约有七万,而诉讼皆听于
日人,甚至会审公堂而无之,关东州不能设立一中国学校,又不能派一官吏,非特不如租界,
并不能如外国派领事以管理华侨,言之可叹,思之伤心,莫甚于此。夜宴于大东。十时搭南
满车起程。
8 月 20 日 昨夜人多车挤,未能安眠,皆蒙坐卧而已。七时半到辽阳,十时到奉天,
下午六时到长春。入名古屋旅馆,自大连至长春约有七百余里,所见所闻,皆日本之势力,
无异于入其国境也。一路上土地开发,甚于往时。无奈皆在他人势力范围,何也?晚散步于
长春市中。回旅馆记事。九时后睡。
8 月 21 日 六时前起床,写果夫及经纬两儿各函。七时后起程,七时四十九分开车,
下午 1 时 30 分到哈尔滨,住牡丹旅馆。路上水灾为患,遍地有水,土田牧场为多,不如南
满州开垦之多也。下午住旅馆中,心颇郁郁。太来之友张某来访,谈至十时而别,即睡。
8 月 22 日 上午薙发,写鹤皋、仲恺各函。领事以不便,未往访。下午写季新、焕廷
各函。请张昭德君入党,决于廿四日起程。晚宴于新世界。十二时后回旅舍睡。
8 月 23 日 上午写展堂、仲恺、焕廷各函。据其代表言,廿六日赤塔快车恐不能赶上,
心甚焦急,何以彼必欲留予一日,在此延误如此光阴也。下午写果夫、焕廷、溥泉、静江、
经国、洁如、冶诚、楚伧各函。晚游公园,观剧,即回,便道访张昭德君。十一时回旅舍睡。
8 月 24 日 六时起床,点眼药,入浴,写焕廷、纬儿各函。令阿顺回沪,心甚不忍也。
上午整装,下午三时五十分由哈尔滨搭车上莫斯科行程,七时至安达站,约停 30 分时,晚
餐后睡。
69
8 月 25 日 上午八时至兴安岭站,气候已如季秋,霜气逼人,颇觉寒冷。十二时由海
拉尔站开车,一时至望江站,二时经克拉洪德,二时半经尺干站,三时经札来诺拉,三时五
十分至满州里,即中俄交界之地,约有居户千家,华俄人民杂处其间,市况萧条,无足述者。
凡车经此处,必经一度检查并换车辆也。代表来站招待,先至其寓,少顷由其引导同乘汽车
过国境,其境界为一延长之土□,双方皆无人监视,随人自由出入也。乘车 40 分时至孟邱
夫使克上火车。
8 月 26 日 七时后起床,九时卅分至赤塔,一路山明水秀,森林浓郁,无异古乡,诚
令人想不到西比利亚亦有此佳景也。俄代表来站招待,入茶室,叙寒暑,再入旅舍休息,下
午 2 时 50 分搭车起程,越飞君亦回乘此车,惜其病重,不能相叙也。
8 月 27 日 八时到上乌金斯克,眺望风景,观察形势,其地形类似南方之山河并带,
然无高山大河耳。南望蒙古,不胜依依,从此离国更远矣。十时二十分,由乌金斯克开车,
下午二时,未至“姆伊淑滑也”时,已见贝加尔湖,一望无际,风涛如海,诚佳景也。三时廿
分到“汤一会”,检查行李,闻昔日远东国与莫斯科交界处也,又言为俄蒙通商之要地,然未
闻其详,姑誌之。五时至“姆利禄”,附近即见山巅白雪,七时十时至“司留强恨克”,九时至
贝加尔站,乃湖之西一小村落也。
8 月 28 日 昨夜十一时至“伊尔库此克”,已熟睡,未得观察其形势。八时起床,九时
后至“土龙”,乃为麦食出产地也。下午一时至下乌金斯克,乃一大站也。五时至“塔骇铁”,
九时至“伊拉恨斯克”,与由莫斯科来车相遇。
8 月 29 日 上午四时到“搿拉斯洛也尔斯克”。十一时到“阿勤斯克”。十二时到“朴霍笃
路”,三时前到“也令斯基”,五时后到“也—也”,六时半到“大伊搿”即“托姆斯克”转车之处。
自过“阿勤斯克”站后,道路、家屋较为整齐,略有欧洲光景,然亦不过比西比利亚稍胜耳。
8 月 30 日 八时后起床,到“白腊平斯基”。昨夜半已过“洛屋一尼壳拉斯克也”,惜未见
当地形势。十一时到“楷恨有”,十二时到“太太鲁斯克也”,三时半到“屋姆斯克”,过河,六
时 30 分到“托拉盖近恨斯克也”。自由赤塔以来,有用莫斯科或用东方钟点者,相差至三小
时之多。夜间至十时,尚未黑暗,早间三时后天明,弄得莫名其妙。自今日起,概用“莫斯
科”时刻,约迟三小时也。
8 月 31 日 今早四时过“淡孟恨”站,九时到“客姆渭写路弗”,一时到“爱若推令泊路吾”,
为亚洲至欧境第一大站,其地在乌拉尔山之东,六时至“写利也”站。
9 月 1 日 昨夜半到“败路明”,今早六时半到“排利庆浴”,八时到“也路”,九时半到“辞
伊福客”,十二时半到“维亚得客”,大雨。二时半到“壳滩利丘路”,六时半到“写路也”。
9 月 2 日 昨夜一时过(步意),为(伏罗街代)之径路也。六时后起床,过一小时,
十时到(阿林柯伦得拉夫)站,十一时半到(就路加也福)站,其地风景市房皆现欧式,远
望之若已至莫斯科者。下午一时到莫斯科站,外交部派员来车招待,随乘汽车至其招待处。
途中恰遇社会党群众运动参会者,约有廿二万人,观者塞途。余等亦在车上观望,甚盛事。
初到其地,适逢如此纪念大会,亦一快事,其余诸事,可不言也。
9 月 3 日 六时后起床,上午整理行装,看书。下午二时往见东方部长,叙谈一小时,
约期见外交委员长,相见时颇诚恳,皆以同志资格谈话,尚未有失言过语之辞,私心亦安。
四时半回寓中,食后入浴。致电上海报告情形。
9 月 4 日 上午起预备计划稿,下午研究交涉语意,约明日下午见其外交当局。
9 月 5 日 上午寄经、纬、静江、果夫、洁如各函,习俄语。下午二时三十分,见齐采
令,谈话一时半,语颇诚挚。予言亦适中,无失当之处,彼此甚为投机,语句皆由建侯兄随
时抄录备查。傍夜参观展览会。接复季新、焕廷电,报告中师。
9 月 6 日 上午预计参观及考察诸条,习俄文。下午看马克斯经济学说,谈笑谑语太多,
当慎之。
70
9 月 7 日 上午约见俄国共产党秘书长罗素达克,详谈革命经过利弊二小时余,其革命
成功之点,一,工人知革命之必要;二,农人要求共产;三,准俄国一百五十民族自治成联
邦制。其革命缺点:一,工厂充公后无人管理;二,集中主义过甚,小工厂不应同归国有;
三,分配困难。又言其现在建设情形:一,儿童教育周密;二,工人皆施军队教育;三,小
工厂租给私人云。详言另录。下午见远东局长,三时后回寓看书。
9 月 8 日 上午习俄文以后,终日拟《为日本大地震事答客问》稿一篇。晚往前皇家戏
园观剧。其戏园规模约可容六千人,戏台亦大过东京之帝国剧场。闻其正厅戏价,每人约需
五金元,可知其莫斯科生活程度已不低矣。晚闻组安占领长沙,心颇安乐,而对于某氏之阴
褊终不能无恨也。
9 月 9 日 上午看地图,往访党部之东方局长胡定康。下午往访陆军次长司可亮斯克,
研究中国情形三小时余,其人和蔼可亲,又参谋总长克姆热夫,亦热心助我者。俄国人民无
论上下大小皆比我国人诚实恳切,令人欣慕。此点各国所不及也。其立国基础亦本于此乎!
陆军次长名(司克亮斯克)
9 月 10 日 今日在寓起作战计划稿,未完。
9 月 11 日 上午习俄语,拟计划稿。下午往访教练总监彼得禄夫斯克,叙谈一时,允
给各种学校教程,又详述其俄国军队组织之内容,每团部由其党部派一政治委员常驻团部,
参与团中主要任务,凡有命令,均须经其署命,方能有效。而其共产党员在团中当士兵及将
校者,皆组织团体,在其团中活动为主干。凡有困难勤务,皆由其党首先负责服务云。
9 月 12 日 上午作战计画脱稿。外出买地图。下午记事。外出参观博览会。
9 月 13 日 上午习俄语,终日在寓,拟意见书结论。
9 月 14 日 上午拟结论完,外出买鞋,定价 90 金元,可谓贵矣。下午入浴,习俄语。
写楚伧、果夫、经、纬、洁如各函。
9 月 15 日 上午习俄语,沈君起两党联结文稿。下午假眠,看经济学,委员会约星期
二成立。
9 月 16 日 上午习俄语。玄庐拟草约成,研究条文。下午为各陆军学校毕业生游行纪
念,自加利宁以下陆军各要人皆有演说。余辈往观,皆承其指导,自与其他列国不同其招待
也。王允恭兄来访。外出往游 xpam 教堂,乃为俄国第一大教堂也。晚改正意见书。
9 月 17 日 上午往步兵第 144 团参观,约四小时,其军纪及整理虽不及日本昔日军队,
然其上下亲爱出于自然,毫无专制气象,而政党代表与其团长亦无权限之见,大约军事指挥
上事务皆归团长,而政治及智识上事,皆归政党代表,尤其是精神讲话,及平时除军事外之
事务皆归代表也。下午往大戏园参观陆军学校毕业演说。晚与马林商议提案。证书未到,殊
为气闷。
9 月 18 日 今日以各种刺激,脑筋作痛。本党团体之现象及同志人心之恶劣,不惟灰
心,几无人生乐趣矣。晚往访马林。
9 月 19 日 上午马林与胡定康来谈。下午参观步兵第二学校,回寓会学生,写信,晚
谈笑。
9 月 20 日 上午习俄语,致电先生,寄仲恺、季新、纬儿各函。下午参观军用化学学
校,其中研究毒气之施用及防御法也。五时应中国共产党青年团欢迎会。晚译电。
9 月 21 日 上午学俄语。下午看马克思学说。往访王允恭兄。晚闲谈。
9 月 22 日 上午习俄语,下午看马克思学说概要,五时往高级射击学校参观其图书室
及休息室之坚固宏壮,乃各学校所不能及,其中自十五世纪以来各式枪种类约有数百种,皆
集于此。而其俄造最新式之福德来夫 (俄文字母)骑兵用机关手枪,每次可发 35 响,且轻
便非常,俄国武器之研究及进步,可与欧美各国相等,不比我国之腐败也。
9 月 23 日 上午习俄语。下午会客,太雷与外交部人员争论,余不应以其言亦参在其
71
中。事后闷闷不乐。而其部员之下流无赖,实使人讨嫌也。参观展览会,晚往访鲁右夫斯基。
9 月 24 日 今日看马克思学说概要完,颇觉有趣。上半部看不懂,厌弃欲绝者再,看
至下半部,则倦不掩卷,拟重看一遍也。为外交部是无礼怠慢,使人嫌恶,几于回国。余之
性质实太狭褊,不能放宽,奈何?五时后,乘飞机在莫斯科市上望月,空气清朗,驶机平稳,
欲想复高,以天晚而驶机者下也。
[按:此日以上均为毛笔,以下为钢笔]
9 月 25 日 上午往飞机场,乘搭客飞机,四人同乘,其稳定过于汽车,不如昨日军用
飞机发动时之振动也。上下自在,不觉有何困苦也。正午回寓写信,下午看经济学,会客,
晚九时搭车往彼德格列。
9 月 26 日 上午十一时到彼德格列,至外交部,投住国际旅馆,外交部员及海军部员
皆来招待。下午参观冬馆,先参观其博物馆,以磁器图画为多,而其建筑用墙壁柱子以用红
白绿三种大理石者为多,器具亦用大理石居多也。及观冬宫之(?)朝房、寝室、书房、膳
厨、浴室、会议厅、礼堂等处,器铺陈华丽,有所谓金间银间斐翠间者,皆不过镀其形式,
无足[??],不如世间所传之甚,惟其中新设一房[?],皆述革命党经过历史之惨状,殊令
人兴感也。
9 月 27 日 早起致函稿成。上午参观海军大学及海军学校,中食于海军学校。大学中
之天文及物理器械设备颇完全,其书籍及历来公文皆存于此,派有专员检点编辑。海军学校
中之鱼雷、水雷及战棋与射击、航海用具,亦颇完备。其学生约二百余人,惜未开课,不得
参观其讲学也。下午参观海军机械学校。此校初办,器?虽不完备,而整齐较优。
9 月 28 日 早起修正函稿。上午参观海军博物馆,自大彼德至今之海军历史中事物人
材及船舰模型,皆在其中。其海军之规[?]大发达迅捷,实足惊骇。下午一时参观海军印刷
局,后即乘船游览泥佛河至海口为止。彼德格列形势宏壮,三万吨之战舰,可以直达城河,
实为一海军重镇也。三时后参观制造潜艇上机器及电气之工厂,每艇二百四十箱(重百廿吨)
之电气,只有四小时可用,潜艇经费之大,可以于此见之。
9 月 29 日 上午九时后由“彼德格列”乘船,十二时到“壳伦司太笃”军港,先参观“摩拉
塔”战舰,重量二万四千吨。十二吋口经炮十二门,人员一千三百名。先观其炮仓,炮之开
闭及子弹之起落,皆用电气,每仓相并大炮三门,每炮可自动,亦可运动;次观水蒸气间,
其热无比,幸有新式空气管通气;其次则观机器间,其热更甚,始入时,殊不能受此热气也。
参观毕,中餐后与船员作别,参观练习舰与重雷艇,最后乃参观第二号潜水艇,其长为百余
尺,重六百吨,参观电气间及水电发射机,次观照准机,置于中央最高处,乃用反射镜也。
次观仓尾,其构造与船头相同,头尾各装吸水筒二个,以为船之沉浮之用也。六时回寓。晚
接沪电。
9 月 30 日 上午缮正函稿,参观大戏园,其规模不如莫斯科之大,其发电之机器房另
装三间机器,约有十余架之多,亦可惊叹。下午参观“伊晒克”教堂,其屋顶约有三十五丈之
高,予登其最上一层,彼德格列四周郊外之景,百余里之内皆了如指掌,而其建筑之宏大华
丽实所罕见。晚观影戏。
10 月 1 日 上午修整函稿。下午一时卅分往儿村(即前皇村)参观,先观亚历山大至
尼苦拉西以前的各皇所居宫室,其建筑之宏大,装饰之华丽,诚所谓穷奢极欲。大理石与翡
翠之柱壁、地板不足为奇也,忙游一小时方毕。次观尼苦拉西所居皇宫,其建筑虽不及前皇
宫之大,而铺陈及装璜则过之。观此则世无其比矣。人之谓法国之“繁耳塞”尚不及此皇宫,
仍非虚语。五时后回彼德格列,顺道访“克浦斯汀”寓,其家眷亲亲可爱,而其侄女翩翩若舞,
尤能洋琴,诚尤物也。晚七时后起程,八时半由彼德格列开车。
10 月 2 日 上午十一时车抵莫斯科,回寓。下午写家信,会客。晚謄录函稿成。十二
时后睡。今日又为外交部小员弄鬼动气,是乃志不坚之过,宽容大度,包罗万象,方能成伟
72
大事业,器小如此,奈何!此次游历“彼德格列”六天,市况凋零,民气垂丧,皆不如莫斯科
之盛,而其海军人员之气象,更不良佳,殊堪为苏俄忧也。
10 月 3 日 上午写洁如、经、果各函。为函稿事及意见书事,与友人讨论,稍有龃龉。
交友实难,吾自不慎,有何言也。下午会客,看马克思学说,习字。晚阮爱国君来谈,乃
一安南之志士也。
10 月 4 日 上午复看马克思学说概要,习俄语,下午看概要,会客。晚会客。十一时
后睡。
10 月 5 日 上午习俄语。下午修整意见书,听述二遍。晚十时睡。同伴参差,肃然寡
欢,交友之难可叹。
[按:以下均为毛笔]
10 月 6 日 上午检点意见书,一份送外交部,一份送军务部。下午参观展览会共产党
历史部,以心神不佳,即回寓,入浴,晚会客。十时后睡。
苏维埃军务部之组织尚待查明,今录其友人所谈如左:
○陆军参谋部
高等革命军事委员会○ ○陆海航空军总司令部
○海军参谋部
10 月 7 日 上午习俄语,看马克思学说概要。下午会客,往访“撒壳尼壳夫”。晚往访
马林。十一时回寓睡。
10 月 8 日 上午习俄语,会客,发电。下午与马林商议对党交涉事。晚往大戏园观剧。
此剧系俄国各民族各种演剧模型,乃由其教育总长鲁那楷斯主席登台引导,台上印刷机器随
时印布宣传品,实乃共产主义国之特色也。二时回寓睡。
10 月 9 日 今日俄报登载中帅复喀拉汉宣言,甚为得体,且有反对帝国资本主义之决
心,不胜欣喜。上午拟对俄党部谈话次序。下午看学说概要,习俄语,晚谈天。十时后睡。
10 月 10 日 上午习俄语。贺越飞诞辰。下午看马克思学说概要之经济主义,复习第三
遍完,尚不能十分了解,甚矣!马克思学说之深奥也。预备讲演中国国民党历史次序。晚在
莫斯科之中国学生全体来寓,祝双十节,讲演革命党历史约一小时半,颇有条理。外交部共
产党均派代表来贺。宴毕演剧,献技,奏国际乐,欢乐至十二时散会。
10 月 11 日 上午习俄语,谈天。接纬儿及焕廷函。下午假眠,晚访友,十时回寓。闻
有人以余昨日演说为有崇拜个人之弊,甚矣。中国人自大之心及其愿为外人支配,而不愿尊
重国内英雄,此青年之所以能言难行而一无结果也。党人好尚意气,重妒忌,而俄党下级人
员较吾中国更甚,此实为俄党虑也。
10 月 12 日 上午习俄语,校正意见书稿。下午看西游记,外出散步。晚请医生诊断,
以近日脑痛耳鸣不能用心也。
10 月 13 日 上午习俄语,下午往外交部,见“独霍夫斯基”。接中师致“列宁”、“托尔斯
基”及齐采林三函,其函中推重及信任中正之言,皆出于至诚,令人见之泪下。天何不欲至
诚之人成功而使其久屈也。接季新、仲恺各函,亦皆待余以诚。旅人见此,更觉有动于中也。
晚旁,往莫斯科河畔散步,心略畅快。晚看共产党宣言。
10 月 14 日 上午习俄语,学“琶夜乐”。下午外出,在莫斯科河桥畔搭船至西南隅游(不
寂之园),其地地势居莫斯科最高之处,如东京之上野公园,但风景优于上野也。最西为“麻
雀山”,相传(拿破仑)到莫斯科先等[登]此山也。徘徊途经,眺望全城,不觉精神爽畅,
实为莫斯科第一胜景也。晚与马林谈天。
10 月 15 日 上午习俄语,学风琴,下午接季新电,果夫、经纬各函,不胜欣慰。写经
纬、焕廷、果夫、洁如各函。晚拟电未发。
10 月 16 日 上午习俄语,学风琴,会客,发托尔斯基信。下午假眠。晚看共产党宣言。
73
十时后睡。
10 月 17 日 上午习俄语,看共产党宣言,学“琵琶乐”。下午马林来谈。外出散步,参
观市场。晚谈天。
10 月 18 日 上午习俄语,学“琵琶乐”,看马克思传。下午看马克思学说,乐而不能息
卷。4 时齐采令约余往见,又以临时有病未见。接中帅手拟长电,知补助交涉已实行,而中
帅诚挚之辞,每使人读之感激泪下,其非比长于文字者,故为此笼络之语,此其更可贵也。
晚拟复季新、仲恺电。
10 月 19 日 上午学俄语,学琵琶乐。下午学琵琶乐,研究发先生电文及齐采令函件。
晚九时睡。
10 月 20 日 上午习俄语,学琵琶乐。下午看德国社会民主党史,写贺舜华女士信,晚
谈天。
10 月 21 日 上午习俄语,习琵琶乐。下午往会齐采令,言蒙古自治问题及根本计划。
晚与马林谈天。
10 月 22 日 上午为同志自相猜忌,躁扰失体,心甚自闷,总是余经验不足,择友不慎
之过也。下午习风琴,看苏维埃联邦共和国宪法。晚与马林谈论去留事。
10 月 23 日 上午习俄语及琵琶乐,下午会客,写信,往访博罗典夫人。晚与马林、雷
文等外出观剧。二时回寓。
10 月 24 日 今日为余旧历诞辰,时切父母生我之怀。上午习俄语,写季新信,下午写
展堂、仲凯信,习琵琶乐。晚送马林行。
10 月 25 日 上午习俄语,学琵琶乐,下午写阮君绍介书,及致斯克亮斯基书。
10 月 26 日 上午习俄语,学琵琶乐,下午致齐采令函。近日心神不佳,终日沉闷,可
谓缺少经验,自讨其苦也。
10 月 27 日 上午习俄语,学琵琶乐,下午会客,学乐。接季新、焕廷各电,言许失何
源,又扶宵小,而置大局于不顾,不胜忧郁。
10 月 28 日 上午习俄语,学琴,下午胡定康来谈,会客。晚观剧,西洋跳舞剧,可叹
观止。演剧妇女之活泼动作,无异机械。吾国优伶万不及也。一时后回寓睡。
10 月 29 日 上午习俄语,发斯克亮、齐采令各函。下午参观电灯泡制造厂及发电厂。
其厂中之工人俱乐部、学课及手工、音乐、补习室,各有专科教师,以备工人暇时之学习。
其余如版卖合作社、图书室、阅报室、膳厅、戏馆,无不应有尽有,而尤以职工会,及少年
共产党部为最重要。对于工厂之历史,及工人之状态,厂中资本之盈亏,皆列有专表以供各
工人之观览,而以社会科学更加注重也。
10 月 30 日 上午习俄语,写季新函,下午由苏维埃员陪往莫斯科西乡(太太儿)等处
参观农村,先入其村苏维埃,如吾乡之乡自治会而制度不同。再观其消费合作社及小学校,
而学校成绩皆日用生活之品,如小孩所作之工具图画,凡衣食住之类,而如吾国教程之旧也。
参观第二村完后,即乘车参观其乡苏维埃,其规模较大,而司法、行政、立法三权皆由此出
也。乡中警察亦属于此。观毕回京,已七时余,而寒冷异常。
10 月 31 日 上午发洁如、经、纬各函。下午以伤风不能写作,只看西游记一回,学琴。
11 月 1 日 上午习俄语,发楚伧信,下午往旧皇宫参观中央执行委员会,入其会员席,
听卫生总长报告约一小时。其旧宫建筑宏大,不亚彼德堡,而装璜则远不如矣。回寓看德国
社会民主党史,晚看西游记。
11 月 2 日 发焕廷、静江电。上午习俄语,学琴,接季新兄九月廿五日函,下午看西
游记,看德国社会民主党史。
11 月 3 日 上午习俄语,学琴,接元冲函电,下午看西游记,看德国社会民主党史。
11 月 4 日 上午看俄文法,下午往车站接元冲,商谈代表团处置方法。晚看西游记,
74
十二时睡。苏俄各地各所皆有少年共产党支部,对于青年竭力培植注重,是其第一优良政策,
优待农工而轻士商之制度,吾亦无间言也。
11 月 5 日 上午习俄语,看西游记,下午参观“库乐泡笃金”住宅,回寓看西游记。闻
广东本军失利,不知先生有否危险,不胜闷闷。吾不在侧,当急时无人主张,吾不能始终在
侧,赌气即走,是吾之过。以后如先生督师,凡有军事行动,当不客气,悉由我处理,无论
其事成败,皆由我一人负责,则先生或可安全也。
11 月 6 日 上午习俄语,下午看西游记,六时后往莫斯科城苏维埃参加庆祝革命纪念,
听加密热夫、蒲哈灵等演说,又见一革命发难水手及二海军官长登台演说,以表示其勋劳光
荣之意。会毕,即回寓。
11 月 7 日 今日为苏维埃联邦共和国六周年革命纪念日。上午九时往红色场参观阅兵
式及群众运动,自十一时起,午后六时止,尚未游行完毕。参加运动者,约有军队 2 万,飞
机 16 只,铁皮炮轮车八门,机关枪车一队,此二车皆为余初见,足见俄国军械之进步,军
容亦颇威严。观今日之运动,足知苏维埃政府对于人民已有基础,殊足以破帝国主义之胆。
吾于苏俄无所间言,而于其中级以下人才缺乏,办事时间延迟不准,缓慢非常,而高级人员
处事或尚感情是其短处,至于其有否自满之志,则吾尚未敢断言也。
11 月 8 日 习俄文,学琴。接齐采令、独霍夫斯基谢函。接沧白、焕廷电,知粤局如
常,前次转败为胜,阅之心安。以后恐不能巩固如常。我于中帅之安危,独不能恝置。而其
余事,则非我敢问也。如中帅万一危殆,固由于一般党员借公济私,常以党魁为孤注之,试
所陷害。而我不能始终侍侧,辅翼代劳,以致于危,是乃吾之罪也。
11 月 9 日 上午写信,看德国社会民主党史,下午学琴,拟托尔斯基函稿。晚看西游
记,11 时后睡。
11 月 10 日 上午习俄语,看俄语,独修完,拟学校办法。下午同邵、沈、王诸君往不
寂之园散步,森林整齐,地势高坦,实莫斯科第一风景也。晚往访白腊洛夫。十时后回睡。
11 月 11 日 上午审查意见书,及预备与斯克亮斯基谈话。下午,见斯克亮斯基及克面
义夫,约谈二小时,晚看西游记。无论为个人,为国家,求人则不如求己。无论亲友盟人之
如何亲密,总不能外乎其本身之利害。而本身之基业,无论大小成败,皆不能轻视恝置。如
欲成功,非由本身做起不可。外力则最不可恃之物也。
11 月 12 日 今日看西游记,发季新电,齐采令函。心绪沉闷。内忧国人之恶劣,外虞
世人之虚伪,而本党同志优秀者,或死节,或远离。而所见者,但有趋炎附势,争权夺利,
吹牛拍马,以公济私,卑陋恶劣,互相利用挑泼之徒,其如贪似狼,猛似狗,蠢似豕之类,
则在其次也。可叹。
11 月 13 日 上午习俄语,下午看西游记。
11 月 14 日 上午看西游记,下午同元冲、登云往游不寂之园。莫斯科风景实以此为最
也。
11 月 15 日 今日看西游记,下午往游博物馆,即回。
11 月 16 日 与元冲订盟。上午看德国社会民主党史。下午往访苏维埃议长加利宁。其
人完全一农民,言语诚实,行动自在。问其国外大势,则不知所答。不比吾国黎元洪之狡猾,
馁弱,诚不愧为劳农专政国之议长也。
11 月 17 日 上午,预备同陆长谈话。下午,往游不寂之园。晚宴客,观剧。接粤电,
形势危急,心甚焦灼。不知中师安否。梦中犹在扶持中师于危难之中,神经不安如此,何昔
日必欲远离左右,自求高尚,不顾道义耶。
11 月 18 日 上午与赵君世贤等谈天,此人是一青年有为之士,殊可贵也。下午宴会讨
论莫斯科本党进行办法,予对大众表示来俄意见及中国国民党主张,至今方得其谅解,欢忭
可知。日久见人心也。晚改正致托尔斯基函。
75
11 月 19 日 上午,发托尔斯基函。接沪电,知惠州果于十日晚为我军占领。不胜欣幸。
下午,假眠。晚,往观莫斯科苏维埃大会,报告一年来经过成绩,工业已恢复至战前百分之
六十。赁金已比去年增加一倍。建筑工人房舍能容一万余人,每月三万人失职工人,政府津
贴其月费每人八元。是其重要报告也。
11 月 20 日 上午准备谈话材料,下午往访彼德罗夫斯基,晚看西游记。
11 月 21 日 晚访越飞君。
上午收束行装,下午往访教育总长鲁拿恰斯基,其言现在教育方针:一,废除宗教;二,
男女回校;三,接近实在生活等,共有七要点云。今日又受横逆之侮,择友不良,一至于此,
尚何有处世之经验,天下竟有如此暴弃之徒,我乃与之远谋,难怪一事无成也。
教育方针第四为学生管理校务,第五为统一教育制,第六为注重劳工学校,第七为专门
学校云。现在教育常年经费,中央与地方合计为百分之三十四,统计为一万四千万元,尚不
足其预算三分之一也。
11 月 22 日 上午看德国社会民主党史完。下午同元冲、登云往不寂之公园散步。晚看
群众心理学。
11 月 23 日 今日看群众心理学。晚为同志误会,抑郁无聊,世路崎岖,一至于此,乃
知我昔日以此加人者,亦如我今日之难堪也。可以不以此为鉴乎?
11 月 24 日 今日看法国黎朋著群众心理完。晚,宴雷文夫妇。俄国中级人才太少,政
府往往为其下所蒙蔽,而其轻信迟缓自满,为其切要弊端。遇大事,不能深重观察,专尚客
气。人而无信,尚不能立,况其国乎。少数人种当国排斥异己,亦其国之一大弊也。吾为之
危。
11 月 25 日 看社会心理学,看西游记。第三国际远东局长胡定斯基约余会主席团,延
岩再三,居为奇货,而余则实不欲其约会。彼既欲余约会,而又恐余道破其弊。于此三日内,
每言约会,而不定时间,视余来此为平常事,且阻碍进行,挟其私见以侮人。而苏俄干部,
以其为曾游中国,竟为其言所蒙。时至今日,尚不定时间而来约会。愤激不堪,婉言拒其约
会,而彼又来要求赴会。不得已而允之。晚七时开会。自“徐诺未富”会长以下各国共产党主
席皆履会,情形颇佳。余之演说,亦以今日吾最从容而有条理也。
11 月 26 日 上午看西游记,下午往访陈啓修,回寓看西游记。
11 月 27 日 致经儿长函,洁弟、纬儿各函。上午看西游记,接阅亲友各函约八封。其
中有言许谋省长,排胡廖甚矣。人心之叵测,吾中师诚为人终身作嫁而无益于党与国也。下
午三时见托尔斯基,其人慷慨活泼,其言革命党之要素,忍耐与活动,二者相辅并行而不可
缺也云。余之性质厌倦与消极,此所以不能成事也。晚见齐采令,辞行。十二时回寓,一时
后睡。
11 月 28 日 上午检束文件,审查第□国际对吾党决议文,普泛不实,其自居世界革命
之中心,骄傲虚浮,其领袖“徐诺微夫”似有颓唐不振之气,吾知不久必有第四国际出现以
对待该党不正之举也。下午往第三国际与其秘书长谈天,应酬数语即辞行。三时应外交部之
宴,叙谈二时余,凡想说的话,大略各露其端绪,使其自绎。六时后送元冲弟登车赴德,回
寓后不尽依依,良友去之何速耶。晚与赵君世炎略述此次来俄经过情形,并勉其不使为外人
所支配而已。
11 月 29 日 上午束装,辞别越飞夫人。下午二时起程,见人心烦而闻人无聊言语,更
生嫌惓。择友不良,反遭自辱,吾诚妄人焉。以后能有悔悟否?三时由莫斯科站开车,车中
抑郁无聊已极。
11 月 30 日 冰天雪地,一望无际,日色沉沉,惨淡无光。晚到“太尔克”。
12 月 1 日 是晚过“爱克推林泊鲁吾”,心想买少些宝石玩具以赐二子,因带钱不多,
只得作罢,惟有纪念而巳。
76
12 月 2 日 此间已为西比利亚时刻,照莫京钟点六时半,天已明。二时半天即黑矣。
今夜过“屋姆斯克站”。
12 月 3 日 下午六时经“诺伏尼柯拉伊斯楷也”,为赤塔、莫斯科间之中心也,此地
比莫斯科时刻早三小时。
12 月 4 日 今日经“辩拉斯诺也而斯克”。
12 月 5 日 今日上午经“下乌金斯克”,夜十二时经“伊尔库次克”。
12 月 6 日 上午八时过“汤会站”,检查行李,此地或为外蒙至西比利亚要道,故设
税关于此也。自此沿贝加尔湖行约三小时,山势奇丽,湖光明媚,实为不多得之佳景也。惟
沿湖铁道以地势不平,故车行颇难也。二时后到“上乌金斯克”,即西比利亚入蒙古之要道
也,车停一小时余,三时五十分即由此上赤塔之道。
12 月 7 日 八时后到赤塔。该处代表来迓,入旅舍沐浴,感受伤风,致电焕廷、精卫、
奉张及齐采令等。下午五时登车上满州里道。今晚感冒甚剧,几不能成眠。莫斯科与赤塔间
之时刻约差四时有半。
12 月 8 日 早七时前起床,以感冒觉甚不舒,八时前到国境,一片平原,惟有中国境
内东北至西南一带,山脉亦不高峻,北方战争,惟攻势为宜也。八时后到满州里站,当地长
官前来招待,且颇殷勤,余等皆无护照,如电通行,驻满护路军段长冯定一为冯功伟之弟,
据其自言,乃一同盟会员也。十时十分开车。今日天气清朗,惟感冒甚剧,精神疲惫,但有
佳眠而已。
12 月 9 日 上午八时,到哈尔滨,当地高级长官来接,朱庆澜亦来,余以假名,不便
见面,故避之。某友以其真名不能使人知,懊悔而人,怪及他人。三时到长春,当地官长亦
来招待。五时搭南满车。十一时到大连。某友自领见当地显者,而其口偏言不愿见,只踊踊
余下车往见,并言请余介绍其为前省议长以自重。顷刻之间,前后之言如出二人,世有以毁
诬他人而自高其价,亦有口是心非,外强忠乾,窃权争长而不顾其他者,是诚其一人当之。
因奉天来迎者面生不识,故未下车,不胜自幸。
12 月 10 日 八时到大连。早起大解,痛苦异常,几失知觉,不能支持,勉强回卧车休
息半时方才复元,危甚。上午入大和旅馆,洗澡假眠。下午同王登云游老虎滩,其风景不及
星浦远甚。三时后回旅馆,记事。晚应鹤皋之宴。
12 月 11 日 上午薙发,发焕廷电。下午外出散步。晚在泰华楼宴会,八时回旅舍睡。
12 月 12 日 上午整装,下午往拜鹤皋,三时登亚拉伯船,预定四时开船,以货未装足,
改至明早方开。日商信用远不如前,而船中腐败形状不堪言尔,吾知东邦帝国主义之运命,
不久将尽矣。晚以鼠声骚扰,几不成寐。
12 月 13 日 九时半开船。阅留俄同志致中师函稿中,有忠臣多而同志少一语,阅之甚
骇。少年轻躁自满,诋笑道义,殊为可叹。排人利己之徒,诱引青年,自植势力,而不顾党
谊。其实决不能自成其势。梦梦之人,惟有一叹而已。上午记事。下午,作游俄报告书。
12 月 14 日 上午作游俄报告书。下午辄作辄辍,在甲板上与登云兄跑步。四阅月来,
至今心地略畅。船中风平浪静,船位宽畅,亦一乐事也。
12 月 15 日 上午七时船入吴淞口,九时着岸登陆回室,洁弟犹未起也。予之同睡。下
午往访静江兄后,即登江天船,汉民、精卫、仲凯、焕廷、果夫诸同志均来船详叙别情,劝
我回沪,解决一切党务。晚遇杨蓁、叶荃于船中。
12 月 16 日 今日为先慈六旬冥寿。七时到甬入室,八时起程,十时半到方桥。二时半
到溪口家中,即上鱼鳞嶴,入慈菴,登堂拜母亲冥寿,心甚悲戚,如母尚生在,则今日喜乐,
不知如何矣。拜扫母墓,晚宿于慈菴。
12 月 17 日 上午往观母墓二次,游览山景,远望冬色,极一时之娱。正午致祭。以今
日慈菴落成,进五代祖位也。三时后进神安位。晚宿于家中,与各亲旧谈话。写季陶信。
77
12 月 18 日 上午观学校,登山宴客,下午陪客送客,写周祥庆信,晚宿慈菴。
12 月 19 日 今日在慈菴宴客。晚,以石门姨母来家,下山回家。处理维则表兄命案,
完妥。与亲舅谈天后宿于家。接精卫、汝为各函。
12 月 20 日 上午会亲友。下午,住慈菴。写精卫、汝为、展堂、仲恺各函。晚宿慈菴。
12 月 21 日 接仲恺电,茂如函。今日住慈菴。
12 月 22 日 上午宗长来菴,同观母墓。下午姨母来巷同观母墓。接季陶电文允任教席。
阅哀思录样本,晚往家宴宗房长,兑换鱼鳞嶴墓山,以后墓地私有,先妣可安于地下乎。八
时回菴宿。
12 月 23 日 上午,课纬儿。致仲恺兄函。下午,寻掘饮水池不着。入浴。教纬儿以西
游记。晚出菴外,观月赏景。夜气静寂,烟雾沧澹,松间明月,满山清风。不觉人在画图中
也。
12 月 24 日 上午致仲恺、果夫兄函。课纬儿。下午往桃坑 石蟮嶴观瞻祖与父及三弟
各墓,便道往下白崖访友。晚观山景,夜气清风明月,领导纬儿谈笑自若,此景此情,殊不
多得,不知世间有其他事也。
12 月 25 日 上午课纬儿,写果夫函。下午掘饮水潭,有客来会,为山坑殿捐事。旧社
会迷信不破,甚以为虑,而反欲予捐款助恶,岂可乎?徒以乡党情面,却之不易,只有善言
推托而已。胞兄亦来山看祖墓。晚又与纬儿赏览夜景。今年气候和暖,正合山居也。
12 月 26 日 今日看古文观止,至前后出师表,不能掩卷,此文非根于天性、忠智兼全,
不能作也。余自以为文笔多有与此篇相若者,诵读数十遍。下午往访亲友,参观武嶺学校,
总不如吾意甚矣,教授之难也。
12 月 27 日 今日住菴读前出师表。课纬儿。下午上母墓,修理树木,近日山居,甚适
意也。
12 月 28 日 上午读前出师表,课纬儿,下午写焕廷、东臣、登云、经儿各函。
12 月 29 日 今日在菴读前出师表,课纬儿。雪白山头,惜未满不能看雪景也。旁晚王
茂如、沈存中二兄特来奉面叙,不胜欣慰。晚谈往时,不胜感慨。十时睡。接季新、汝为、
静江各函。
12 月 30 日 今日陪友拜墓。致展堂、季新、仲恺、静江各复函。下午与王沈二君谈俄
事。晚接中师、焕廷各电,季新、仲恺各函,知展堂来甬相晤,乐甚。
12 月 31 日 今为第十二年大晦日,年长一年,而国事纷纠,德业不进,虚度光阴而已。
驻粤三月,驻俄三月,看书无几,得益不多,而世事经验或较昔年为多也。上午陪客,下午
同茂如、存中游雪窦瀑布及妙高台,幽雅高清,令人依恋忘归。入雪寺茶食后回家,纬儿跳
笑嘻歌,活泼自在,殊可爱也。晚宴客。宿于家。
78
1925 年
总统府签条:4 月 24 日后缺 25,26,27,28 日两张。12 月 25 日至 31 日在 16 年最后发现,
现还装 14 年。
[按:民国十三年日记佚]
中华民国十四年日记
1 月 1 日 ○○○之人见娱乐与宴会○○○曾悲伤,人心之险,用人之难,可叹!五○○○
起炉灶,重开世界。七时起床,八○○兵,讲演徒注重“与日俱新”一语,而于南京政府成立,
国庆纪念日之庆祝词不提。及为廖代表提醒,惭惶无地矣。九时后,赴省。十一时与各军校
学生在黄花冈七十二烈士墓前宣誓毕,拜仲元、执信及伍○○。坚如诸先烈墓。午餐于刘显
○○○○○嘉伦同志。旁晚至○○○○
1 月 2 日 今日神明
○○起床,到○办公。写洁如、静江、元冲各函。抄摘嘉言录于日记卷首。整理精神教
育○批阅。下午演剧,余自登台说明剧中○○形容毕肖,观之欣喜无已。数年○并无如此开头
快慰之时。所谓盈○后进,向后必有一番回甘滋味。○○○晚间十二时毕。剧名“革命军”。今
日演剧讲演,尽一人之力以教训士兵,吾以感化之力○小也。
1 月 3 日 ○时到校。写宴约信。会议后记事。○第二总队学生训诫约二小时。办公批阅。
下午会议后同仲恺兄回司令部谈时局。湘军在江西失败,东江逆敌,林虎拟出赣,南扑灭湘
军与北伐军,而促陈逆反攻省城○○来会俄国同志,极一时之乐。与○○谈作战计划。今日心
神○○,虽谍报频来,而志甚坚定。
1 月 4 日 ○○写信,会客,办公批阅,午宴客后回校,改正第卅次训词稿。晚在司令部
宴会演剧学生。视校长无异于父母。亲爱之情,不可言喻,人生惟一快愉之事,莫过于教育
也。学生大半皆有醉意,饮乐至○○后散席,提议组织演剧团,○○愿为团员之一也。
1 月 5 日 上午会议办公,改正讲演稿。下午改正讲演稿,批阅,晚批阅,九时后回司
令部睡。今日心地略舒,以能下人宽裕也。
1 月 6 日 ○○办公,批阅。会议精神教育以完竣,寄果夫付印。下午到八校讲演。与汝
兄总司令商议时局,北伐湘军已退出赣州。晚八时回司令部晚餐,入浴,睡。余日以事事为
人牵制,不能自○○置,款亦支出,所以○有忧虑。○存心养性,○○未曾做也。
1 月 7 日 上午记事,会议办公。看欧战后○军编制问题完。下午批阅。会客。起连坐
法稿。晚对各官长训诫约一小时,以见习官不能得力也。十时睡于校中。
今日心神平平。办事颇裕如也。存心养性工夫尚未能检○○
1 月 8 日 上午六时起床,巡查,朝餐后会议,办公,改正讲演稿。下午看中师讲演之
《军人精神教育》。史米诺夫、史旦八诺夫等来谈。颁布《连坐法》。晚著《精神教育序》。
十时睡。今日心神略舒,事亦宽缓也。
1 月 9 日 ○○○○办事。对宣传班讲演○○○要旨,摘录精神教育《军人之勇》,中师之
精神文词使人阅之而不能掩卷,可谓观止矣。下午,钞录戚继光治兵语录。批阅。近日深悔
待下级官长太严,以致士兵轻视官长,亟宜改变方法,而一出营门,见卫兵不守规则,○○
斥官长,盖中级官不诚意对上,无论你将官如何严法,亦是无用,可叹。晚看曾文正公杂著。
其文章真千古不朽矣。
1 月 10 日 上午办公,会议。钞录戚继光论兵语录。下午校务会议毕,三时集合教导
团士兵讲演爱○○○○长,明死生,辨是非,信赏罚。并颁布连坐法条例。约讲一时卅分钟。
与军需部商议筹款事。晚对全校○○○○○○○如火上升,热气澎炎,甚觉不支也。今日说话太
多,存心善性工夫甚少也。
79
1 月 11 日 上午在司令部休养,静坐时,心脉甚跳,以人心不正,意骚气愤,不能安
定也。哲生与仲恺兄来谈北方政局,段祺瑞颓唐衰弱,大非昔日勇壮之比。张雨亭、卢永祥
等皆不直其所为,冯玉祥等尤为不满[按毛思诚本党政篇改为冯玉祥等尤力持反对],段执政
其危乎?下午散步至水鱼雷局、药库○○○,望之若一寺庙也。晚摘录戚继光治兵语兵,九时
后睡。今日意冷心灰,郁结沉闷,至不堪言状。
1 月 12 日 上午会议,办公,试射机关枪。下午办公,批阅,发表党代表姓名,集合
第二团兵士于大操场行布达式。晚与仲恺兄谈天,记事。今日精神比昨日略佳,但总未放怀
耳。存心善性工夫甚少也。
1 月 13 日 六时起床,巡查第二团第二营,见士兵尚未起床点名,不胜愤激,几欲将
其连长就地正法。朝餐后,召集各团营连长,训斥其非人所为,语意似乎太重,且其时间不
过稍迟,而来之过误也。心急如此,自误必大,以后戒之。上午办事,心意纷烦,尚能勉强。
下午办事。改正讲演稿,命抄爱民歌。会客。召集练集船队士兵,会议改组办法。晚,司米
洛夫来谈世界海军。日本势力,诚可惊叹也。
1 月 14 日 六时前起床,巡查曾家祠一团一营及各营。上午会议后,办公。十时后赴
省。下午往访诸民谊。船中看民生主义第一讲完。到省校[按毛思诚本党政篇在省校二字后
加注黄埔陆军军官分学校字样]开党员大会,七时后散会。晚餐后赴许总司令处谈天,并访
刘显丞总司令,商谈两广平定计划。十二时后回省校,巡查一周乃睡。今日语言太俗,犹希
友人及学生皆能相谅耳。
1 月 15 日 六时前起床,巡查,上午在省校改正讲演稿,办公。下午,回黄浦,船中
看民生主义第二讲完。到校,批阅,办公。派颜生赴敌阵侦察,冀其达到任务速回也。巡视
病院,回司令部,记事。今日心神平定,尚能勉强也。
1 月 16 日 上午会议后批阅,办公。下午赴省祝光复广州第二周年纪念。船上看民生
主义第三讲完。到省校办事。晚回长洲。船中看民生主义第四讲完。十时睡。
今日存心养性之功未到,而精神尚能○愉也。
1 月 17 日 上午会议后办公。与俄顾问议事。下午校务会议,组织检阅委员会。○毕,
回司令部休息。晚对见习官讲演军人要有秘密习惯,言词太实,恐有不妥之处。近日心意纷
烦,言词每无系统条理,且近于○激也,以后慎之。
不慌不忙,盈科后进。予则慌忙过甚,焉能盈科耳。以后于宽裕温柔四字。当加诸意也。
1 月 18 日 一,钞录练兵实记, 二.将帅之拿破仑;三,--父襄集;四,管子
九时后起床。晏安如此,尚能立业耶,戒之!上午看曾文正杂著,著明生死歌。下午
到校办公。致仲恺兄函,复黄膺白电,以精卫兄来函催复,以鼓膺白之志。一似非我复电不
能使其安心于孙公也。其中有“兄能以英士事孙公者事之,则他日安危共仗有人 ,英士可
以不死。介石苦志,可以不没矣。”[按毛思诚本党政篇改作:下午复黄膺白电,以精卫兄
来函,一似非我一言不能使其输诚中师,中有“兄能以英士事中师者事之,则他日安危共仗
有人,英士可以暝目,介石苦志,亦可以稍伸矣。”]等语。晚回司令部。记事。
1 月 19 日 上午会议,批阅,拟立志歌。下午办公,批阅。拟放枪歌。晚 11 时睡。
今日以官长与党代表处阶级及权限问题,纷起纠葛。团长罚连党代表不守军纪,而各党
代表大起问罪之师。连党代表且是见习官,为团长之学生,尚且如此,则其他可知。制度之
难行如此,将来不知如何也。
1 月 20 日 上午会议后以第一团营连党代表议决赴省要求廖校党代表解释权限。予不
许准,令其回校痛斥。辩论是非明释后,服从而退。费时已三时矣。下午往吊林振雄母丧。
阅操。回校办公。晚讲演。写精卫、膺白诸兄函。午夜睡。
今日暴躁过甚,须视部下如子弟,作为孩气之童子。又视万事如浮萍,作为过眼之烟云,
则气象冲融矣。
80
1 月 21 日 三时,第一团紧急集合,起床视察。鞋履不正,为部下窥视,不胜惭惶。
上午,录膺白函毕。往省。赴列宁周年纪念会。二时回埔,休息。回校钞录正气歌语。记事。
晚在大操场演剧,十二时后睡。
今日为茂如事,受气讨怨,愤闷非常。长久[?]之人,总不能提拔也,奈何!
近日来,以今日郁结更甚。都市诚非人住之地。妒忌贪求,无所不有也。
1 月 22 日 上午办公,会议,看陈兵实纪。发表军人格言。下午办公,阅操,巡察病
院。晚宴请各团长,吃年糕汤。与仲恺兄商量诸事。为各党代表权限事又起纠纷,心又不乐
也。好正之心太重,一有毁言,即觉不安,是不能以主义成败为心,而以个人毁誉为念,是
不忠也。
1 月 23 日 入伍生四百二十八人,今日入校。
上午会议,办公,心觉稍闲也。下午阅操,祭祖后,开革命军事研究会,及中国青年军
人联合会。七时散会。与第一团士兵宴会后,往第二团宴会。晚宴校本部见习官及血花团同
志,在司令部余兴,至十一时毕。得天下英才而教育之,乐何如耶。
1 月 24 日(正月初一日)春节 今日时念先妣,如吾母尚在,不知甚如何欣慰?
七时起床,天朗气清,静坐涵养,颇觉闲适也。上午祭祖父母后,十时来校办公,分校
学生来本校团聚,见此,心颇乐也。回司令部午餐。休息。二时后在大操场对入伍生及第二
总队学生训诫,约一小时毕。回校办公,录正气语。与史顾问谈校事,约二小时。晚宴第一
团官长后,观剧。说明。十二时回司令部睡。
今日终不能以得失毁誉若忘也。
1 月 25 日 毁誉得失了无事,死生成败岂容怀。
八时后起床。宴安如此,岂足为人师乎?醒后勿再濡恋。上午,早餐后赴省,谒汝为兄,
并至分校视察后,访各友。三时回埔,午餐。到校办公。记事。晚宴第二团官长。心颇乐也。
1 月 26 日 甜酸苦辣宜尝遍,是非好恶总由人。
○时半起床到校。上午办公,批阅。○议批阅宣传研究会章程。下午研究地图,阅操。
批阅。仲恺兄等来谈。晚讲演见习官不热心军队无精神。如此,我死不瞑目。九时后回司令
部,宴校本部人员。十时后睡。
1 月 27 日 上午在校办公,阅操。下午赴省访友,到省校办公,开执行委员会。晚拟
青年军人发刊词。十一时后睡。
总理昨日在北京协和医院割剖肝痈(yong),势甚危急,闻之悲酸不堪,五中欲裂矣。
1 月 28 日 上午七时后起床,草发刊词毕。见谬夫人匆匆进来,慌忙不堪问其究竟,
乃答曰,总理在京病死,以据日人消息也,余心 虽惊恐,然不信以为真。乃即往汝兄处,
见东方通讯社电报言之甚确,予犹不信,及至省署见精卫之电,言无药可医,方信为病重无
救,欲掩泪吞声而不得矣。正午接黄昌谷电亦言无药可医,见此更觉辛酸。鸣呼,无果不欲
救中国而必欲伤我良哲耶?!晚往分校开会报告中师病状,回办事处得悉病状,经过良好,
稍觉心安。修稿至十一时睡。
1 月 29 日 上午七时起床修稿,往访仲、汝二兄,回办事处修稿毕,回校。下午办公,
处理动员事毕,回司令部。
主席宣传员宣誓。晚赴省访仲恺、汝为、展堂诸同志。劝展不能离粤赴京以镇人心。往
分校,开执行委员会,报告总理病状及本军决攻东江事。今晚宿于省校,几不能成眠。总理
之病,经过四十八小时○○如常,胃口较佳,似有转,心稍安也。
1 月 30 日 今日忿气不惩,明知故犯,是诚甘为禽兽矣。
昨夜十二时睡时,心神恍惚,不能成眠。今晨六时起床,排出发事务,动员准备,七时
半开党员大会,为说明讨贼责任,及报告总理病状。散会后往访仲恺兄及嘉伦将军。下午拟
准备动员稿。往粤总司令部军事会议,六时回校办公,晚记事。商议作战计划。
81
阅总理病状,尚有转机,此心虽略安,而泪痕常满襟,总不知其如何是好耶。
1 月 31 日 上午八时到校,终日办公。下午开革命军事委员会。五时后集合两团官兵
及入伍生,在大操场誓师。晚开校务会议。十时后回司令部夜餐。后,十一时睡。
今日心气和平,终日忙碌,不○其成败利钝毁誉死生为何事。只是无以对总理也。
2 月 1 日 今日心神尚能自勉,惟见色心动,戒之。
上午七时起床到校办公。教导第一团本日出发集中虎门。批阅○审慎动员实施,尚觉宽
裕。下午回司令部,午餐毕,视察病院之后,巡阅新筑马路,坦荡宽大,颇足自慰。视察监
狱,巡查各炮台及炮兵营。自平冈经倒吊葫芦、蝴蝶冈、新西冈、大坡地,而回学校。动员
准备完毕,实施之 时,反觉闲○也。办公后[按以下一行半被蒋家审查后盖掉]
2 月 2 日 今日心神躁急,不能养[按以下数字被蒋家审查后盖掉]
七时起床,到校办公。广北船机坏损,第二团不能全团出发。正午到省,各处款项无着。
中师之病又重。种种感触,焦灼更甚。访嘉伦后访汝兄,午后犹未起床也。四时回校办公。
汝兄要枪甚急,而动员○○○○不堪时,又来要枪,心更烦闷○○○,批阅,办公。晚对学生讲
演毕。办公。准备出发,尚欠船只及○○也。十时回司令部晚餐,记事。
2 月 3 日 七时前起床到校,调理各事。八时后出发,对入伍生训诫○○○○纬儿在码头
送行。见○○○○○有言难说之状。纬儿天真,诚令人可笑可泣,依恋不舍也。九时乘福安舰开
船。一时到虎门。各炮台放炮散礼,令人自勉。二时后,到太平圩,各界前来欢迎。驻节于
方家祠。各军前来会议作战计划,决定后,往党部议事。晚办事。会客。十时后睡。
2 月 4 日 存养省察之要,未能实行也。
七时前起床。起训令稿毕,往虎门寨东隅之洋楼(即水师营旧址),巡视炮队。又往高
等小学校,视察学生队。回本部,○为挑伕不足所扰也。与仲恺兄商议东莞克复后,县长应
由○○○○,仲恺兄拟条例。下午,看曾○○○○研究地图。晚餐后,登虎门○○○○眺望形势,乃
一可战可守之地也。回○部,看治兵语录,记事。今日心神闲适,仍不外○○外人也。
2 月 5 日 今日心神稍○且○
昨夜与俄顾问商议东○○○○后之办法。拟发表政治○○○○。地方政务及县长民选○○○○○○
于大南洋船中。今日七时○○○○由虎门前进至厚街,闻东莞城昨日申刻已为王若周旅攻克。
乃即搭船向莞城前进。五时半,入东莞城。沿途欢迎纸爆之盛,为从来所未有。驻节于县署。
接张民达函,知石龙已克,为之心慰。命令各部明日前进至寮步,向横沥前进。
2 月 6 日 今日第一团宿于寮步,第二团宿于雨头塘。
夜闻雨声即起,愁心兵士露营淋雨,比之自我淋雨还要难熬也。近日虽稍闲暇,而忧愁
未散,以总理之病,时觉凛凛也。七时起床写信。上午会客,录治兵语。下午赴商会开○○○○,
看地图,计划作战。晚旁○○○○风景甚可乐也。[按以下三行半无法辩认]
2 月 7 日 七时起床,处置东莞○○准备各写各友信。十时由莞○○○○○○洋。士商鸣竹爆
○○○○○○,啓碇,水势甚小○○○○○○依然。追忆前年与总理行经此河,不胜怀今昔之感。转
念总理之病,不堪名状。下午二时到石龙。三时许总司令、胡省长、廖党代表、嘉伦将军均
到石龙来会。六时后,由石龙乘车,九时前到常平站,未见部队。约一时后,何团长来见。
今晚第二团驻东坑。第一团驻常平。
2 月 8 日 七时起床,写信,录壁报,会客。十时后,往横沥站。会许总司令,商议作
战计划。四时回常平。嘉伦、许总司令同时视察,即回去。六时,俄顾问等乘铁甲车队由樟
木侦察回○○○○逆敌退走。铁甲车○○○○○○○○回来,俄顾问帮[按以下三行半不能辨认]
2 月 9 日 七时后起床,写信,拟出○○○○○○○事毕,时已十时。赴部外集合○○○○队士
兵官长讲话,○○○○以军法无○○○军法无亲疏,上自○○○○○○○○律者,皆应受军法制裁数语。
○○○下午拟东江作战计划方案及明后日出发命令。四时后,往野外散步,约一小时。回行营。
拟训诫官兵稿。办公。事事皆不免殉外为人,可耻。近日心神稍烦,夜间不能恬睡。汝为总
82
司令,放手不开,办事太狭,令人慨叹。晚,会议后下令。十二时后睡。
2 月 10 日 革命处处辛酸事,徒使中正泪暗吞。
七时起床准备出发。此次司令部编制未定,输卒队未成,后方勤务无条理,办事人员又
多生手,无饷无伕无米,不能不进,不比其它军队补充完备,后方无忧,此中苦处,无地可
诉也,痛甚。上午准备出发,写信完毕,泪下涔涔,终日在常平站,侯车,看曾公日记,以
恭恕敬三字相戒,可为规范矣。火车头破坏不堪,煤与水接济不上,直至九时半开车,一时
到塘头厦○○○令相谈商决一切 。第一团○○期战斗○。
2 月 11 日 致璧君信。
[第一行不能辩识]一员,毫不准备宿营,阅之旧恨又起暴戾矣。三时方睡。七时○○写信,
批阅。辞粤军指挥。天下事莫○○○骄矜自是及诈伪疑忌诸相处,不学无术之人,更无论矣。
见不洽心意之人如怕见鬼,时思远离不遇,此余之所以不适于世也。素性天成,不愿随俗求
成,亦自处之道也。下午二时到平湖,驻念劬劳学校。写信,办事。研究地图。嘉伦自乘铁
甲车往深圳,回报已无敌踪。明日决向龙冈前进。十时后睡。
2 月 12 日 今日心神稍静,总不能整齐严肃也。
昨夜半总座来电话,言桂军在横沥尚未前进,本军许旅令由约场前进掩护左侧,从之,
革命军当正面矣。七时起床准备向龙冈前进。写信,抄录。十一时半由平湖出发○○历○○○
也。炮楼林立,足知其匪徒○○○四时○○迴龙○面青山水溪,绿水桃红○○○○○○○静目明,久不
见乡间[以下三行模糊不识]计划作战。晚餐后记事。○地人民○○○○状矣,有钱不能购。
2 月 13 日 六时前起床,夜半无惊○○○○地图,定作战计划,召各团长来○○○○问,商
议进攻计划。十一时后○○○○○约行八里许,至龙冈○○○○○而已。驻于二帝庙。午后接报告知
坪山圩已无敌踪。新圩方面,今晨有战事。第二团进驻牛鼻明。得报:洪逆部队已向博罗苏
村一带,则我右翼更易为力矣。以天时人心测之,陈逆末日已至矣。看曾公日记。晚餐后记
事。
2 月 14 日 五时起床,六时后由龙冈起程,约行廿五里,至新桥围午餐,下攻击淡水
命令,下午一时出发,约行二十里至白云坑,闻枪声甚烈,乃即向前至淡水南门外○○计划
指挥。晚以城逆○○○○○火延至城脚照明及用[按以下四行模糊不识]
2 月 15 日 五时起床。○炮后阵地○○○○也。指挥攻城。七时炮兵开始攻击,各部队奋
勇向前,有一旗手登城○○○○摇动,一般将士,乃更鼓勇穿城,不数分时,教导团入城巷战,
敌犹顽强抵抗,幸死伤不多,敌乃缴械,俘虏约千余名。是役也,敌决固守待援,而不料拔
城如此之速,出敌不意,故缴获极多。余十一时入城,不一时,急报频来,言永湖方面敌反
攻甚烈,而许旅支持不住,本军严、金两营追击队亦不能支。四时后以调队不及,许旅溃过
淡水河北,又得其陆团长面告,言敌已由东门入城。予乃出城调第一营,增加抵抗,而司令
部人员随余出城,纷乱不堪,予即在玉虚宫集合队伍,预备反攻。观察城中,并无异状,而
右翼高山,确为少数逆敌占领,乃即命顾营登山攻击,敌即溃逃。时已八时,宿于玉虚宫。
时尚镇定,而竟为幕属牵动,不能自强,一至于此。平日之所言生死置于度外者,安在哉?
过而不改,殊耻辱何?
2 月 16 日 本日六时后起床。昨夜彻夜无声,如敌○○○○本部人员由城布置[按以下二三
行不清]如有战时,闻枪声誓死不离,以免幕僚慌张。下午记事,看图,办公,心犹自定也。
张民达来谈,一副祚伪取巧面○,见之可恶。
2 月 17 日 六时后起床,写信,办公,安排日程。致总理电。下午往东门外第一团训
诫后,即往第二团训诫毕,主祭阵亡同志,但有心酸而已。孤军○○滇桂军袖手旁观,违约
不进,使敌全力来攻本军,待本军败退,则彼在后方缴我之枪,其用心之险,可叹,但愿天
不负人,使我五千子弟,剿灭叛逆,削平大难,独立自强,不倚不赖,则幸矣。晚召集营长
以上官长开会,研究经过及前进诸问题。十一时后散会,睡。
83
2 月 18 日 七时起床。致仲恺、戆忱各函。分派各处应办之事,几无暇昝。至下午三
时,出城迎总司令与嘉伦将军于上濠河。先回本部办公。对第一团奋勇队训诫,发给赏项每
人十○元,视其有不足之嫌。○其团长○○○为卅元也。拟补足之。晚往谒汝兄○○○。十一时回
部睡。
疑人之心终不能消。褊急狭心如此,何以成事。不情不贪 不恕不○,谨言居敬何在?
2 月 19 日 七时起床,分派各处应办之事。访问伤兵,以卫生队逃遁,医弁无人,饥
冻痛苦,见之欲泣。军医不良,经理无方,军队原素三大[?]其二。此次出师仓卒,准备不
周,咎在予一人也。与第二第一团奋勇队讲话。下午办公。总座与嘉伦来访,去后办公。拟
命令稿。召集各团官长讲话。晚与司令部人员讲话。研究敌情。九时后睡。钱参谋长与王团
长对调。
2 月 20 日 七时前起床,枪决逃官孙良,思之心痛。拟训诫各官长稿。九时后往访总
座。十时卅分出发。一出淡水城即闻左翼枪声,乃知逆来反攻。昨料有遭遇战,果不误也。
未几右翼枪声亦起,乃令张师许旅前进作战,约战一小时,至正午后敌即溃退,讯之俘虏,
谓今日[按以下四行不清] 今日途中行李拥挤,是路径太少之故也。
2 月 21 日 ○时起床记事,研究地图,攻击平山计划。十时半由永湖出发经太坑、连塘,
闻右翼枪声,一时沉寂。二时后由连塘前进至白芒花,逆敌已于午后敌逃往平山、三多祝一
带矣。六时后,入白芒花,驻于古庙。看曾公日记。晚以未得张师报告,准备明日进进。午
夜得报,知张师已入平山矣。今日心神烦闷,羞忿怯浮,总是忮求之心未消,徇外为人之意
太多也。
2 月 22 日 庄敬宽容,以瘳我轻浮暴弃之病。
六时起床,尚能勉强也。下令许旅往白云稔山警戒。致函,复电,预备一切。审察前进
方向,研究地图,以海图及应用地图均未带来,办事人员不力,又起暴躁,狠凶訾骂,几不
成人矣。叫人不应,又发蛮狠。日日自戒,而时时不改,所谓庄敬宽容者安在哉。下午以张
民达师长取巧贪便,自由行动[按以下三行不清] 晚总司令到白芒花,叙谈即回部。十时后
睡。
2 月 23 日 ○○者○○○恶,恨不得远离不见。邪伪并进,同事共战,终无良果,甚欲避
世远遁,忍耐不得,一至于此,甚能实行主义乎?六时起床,尚能勉强静坐数十分钟后,往
竭汝兄,未起。久侯不出,几不能耐矣。商议作战计划。汝兄带张、许出三多祝,余率所部
出梅陇。怨恨之意,见于声色。余亦不自知其俱厉也。以后总以恕和为要也。汝兄、嘉伦来
研究作战计划。下午发令后,稍觉闲暇,乃致仲恺、果夫、洁如、经纬各函,记事。批阅。
决定不派陆战队,十时睡。
2 月 24 日 本日由白芒花出发向白云市前进。
六时半起床,致仲恺信,办公。十时由白芒花出发,四时到白云市,两面高山,左约八
百米突,右约五百米突。白云罩山不能见巅,不料海边山高如斯也。宿于古庙。侧 有石桥,
临溪闲坐,是为军中之一乐也。五时后寒热交加,强勉办公。有土人自贼中○辉腾部逃回,
皆言翁逆输○○○○知叛逆不足为矣。六时后睡。
2 月 25 日 ○○○○○函,知三多祝方面逆敌犹在多祝前方布防,即派一团至苦柏树策应,
自八时出发,至午夜一时方到。夜深雨大路生地滑,跌伤甚多。今日十时起床,热度 105。
十一时由白云起程,下午四时半到平政圩,约人口数百家,宿于自治委员中,侦察敌情,预
定计划毕,九时睡。
2 月 26 日 夜宿林屋林赞昌家。其年已六十七岁。而其殷勤亲爱态度,无异于慈母之
对爱子,令人感慰。愿祝老人长寿也。
七时后起床,犹未退凉也。记事。九时后由平政圩出发,经瓦窑,一路高山隘路,溪水
纵横,一月以后行军不易矣。途经石马,见一乡人,舞手调势,切恨陈军,愿与本军前进,
84
共捣海丰,其状喜恨二全,殊难形容,见此情形,胜见纬儿之歌舞开颜频笑。沿途村民观者
如堵,不知有战事者。万○○○○○○○居民欢迎如何也。四时到赤石,逆敌由三多祝败来,正
午方退。前面一带高山,尚有少数逆敌也。驻于林屋,决定作战命令。晚九时睡。
2 月 27 日 七时前起床,朝餐后,由林屋出发。昨晚贼守半归嶺、三突山、宋公巅一
带,高山之敌用远镜探照,不见只影,予已料其溃退。○昨晚不即攻击也。沿山前进,不见
敌踪,经过高山○○途经,其高斜险要,实所罕者见。如稍一缓[?]攻,则必多误一日时间也。
正午登三突山巅,瞭望巅东,平原旷野,心目为之一展。此后宜易为力矣。三时到梅陇,林
姓曾姓居多,约有千余家。沿途稀饭糠汤,欢迎声腾,男女老幼,观者如堵,纸炮红条,樵
歌牧唱,不绝于耳。此则可以告慰于总理矣。命各团前进,今夜占领海丰城。余宿田心。
2 月 28 日 对事物不能从平淡二字着手,所以精神凋瘵,勉之。
七时起床,准备前进。九时,由田心出发渡河,逆敌有此深河不守,诚逆军不堪一战矣。
正午,抵海丰城。知总座已到。驻地尽被粤军占满,几无校本部设在之地。精神不能振兴,
聊无欣慰之色,但有忧患而已。与总座商定明日向潮汕进攻计划。款项不济,军情急迫,不
胜抑郁。驻于陈少岳之家。海丰有山面洋,似一好地。○新屋林立,陈逆作孽食民○○正多,
可以知矣。为将来潮汕事,颇费躇踌也。夜入浴后睡。
3 月 1 日 七时起床。致仲恺兄电,为款项事,不胜热灼,恐不能如期出发也。上午看
曾公日记。汝兄与嘉伦同志来谈。外出游鑑湖,视察 主棠[?]弟兄房屋,其华丽铺陈,拟
于王宫。复视陈逆私室、新宅,所谓将军府者,其屋样不亚于上海伍廷芳住宅也。精神疲倦,
不愿久观巢穴,并怀旧感,未免太有情矣。此予之所以不能作事也。下午,研究地图,看曾
公日记。今日反觉闲暇,但忧经费不济而已。晚发仲恺兄电。记事。
3 月 2 日 六时后起床,写总司令信。八时前由海丰城出发。户口不过二三百家,规模
亦甚○小也。由海丰至公坪圩三十里,马路已成,一○开畅豁达,山光野色,不减吾乡。由
公坪至日中圩四十里间,皆平原草地,间有○街而已。由日中圩至新田二十里,山野并列,
亦不亚吾乡之春光也。宿于○○○○○○许旅今日已○○○○○在该处大肆焚掠○○○○○
3 月 3 日 六时半起床,起记事。八时由新田起程,出门动气,既无组织,又无○力,
行李○○不胜○○。途中看曾公日记,甚愧暴躁愤郁而无沉雄静穆气象,韬老养晦至不暇,奈
何急求人知耶。以后当于“为已知命”四字加之意也。今日经米子冈冈头至黄塘之田心宿营,
所行皆山路,约七十五里,然其路可行,山亦不高也。五时半到田心野外消闲,别有野趣,
苦中一乐也。今日略有胃病,自发热后,精神尚未复元。
3 月 4 日 冲淡昏润,安心知命
七时起床。接许旅长报告,知其昨日已在鲤湖击退溃敌,检获敌方命令,有林虎已由紫
金包抄敌军(指我)后方约五日可到之句,乃即安心白揭阳前进,不然○○击横流渡来河婆,
直冲我侧背也。八时半由黄塘起程,○河婆至井尾[下五行不清]自失态统,几无为上者态度,
记大过一次。今日行军八十里,自河婆以东,河阔水深,可以行船,路亦平坦。
3 月 5 日 昨夜闻汕头已为民军邹某占领,许旅已入普宁,然皆未得报告。又闻洪逆退
汤坑。未知确否?今日七时由井尾出发,向棉湖前进,约行四十里,至棉湖,户口约千余家。
今日山路甚平,自棉湖至普宁城,约十八里,道路宽平,由此但见小山而已。五时后入普宁
城,许旅本日入揭阳城,昨夜信口骂人,几使梦魂有愧,今日途中懊悔不堪。立志沉澹润浑,
而竟自暴至此,是诚禽兽不若矣。以后如再浮躁不能沉澹,则不如不记事矣。
3 月 6 日 六时半起床。思虑前进潮汕之应否。前进恐蹈争夺地盘之嫌也。看曾公日记。
九时由普宁城出发,在东门外郊稍息,以部队拥挤,不能前进。普城四面平原,离四千米突
之地,皆有小石山,河流绝无。十二时后过广大圩。三时前经林兜,有石桥甚长。家屋整齐,
约有数百家也。四时到揭阳城东渡河,河深而宽,守之正足御敌,○○○逃溃。不守,诚○○
不若也。五时入揭扬城。驻文昌○○○。
85
3 月 7 日 七时前起床,上午看曾公日记○○类完。写训令稿二通,痛斥○军擅取甘蔗○
葡及强买之弊。下午访总司令。三时后至东郊外,集合两团官兵训诫约一小时,五时后回部。
闻汕头已为张民达部占领。今日燥急未减,而澹浑稍增,然机心忮心未消也。沈润澹浑四字,
总未做到,何以为人耶。
韬光养晦,知足安命八字,可为处世之本。惩忿窒欲,立志养气二语,乃为立身之基。
3 月 8 日 六时前起床,办公,拟调查项目稿。嘉伦将军来谈后,汝兄又来谈,而对于
校军如何处置,不提一言,又安置其私人,心颇不平,乃即告辞赴京,而彼见○告辞,又起
恐慌,并言此项讨贼,全持校祭[?]军决心,如无我则粤局即○。听其言似甚明理,而所为
则事事相○,未品何故,诚令人叵测也。○○○○在潮汕练兵,六团而仍无财政○○。为人不能
诚心待人,尚有何○○○○。下午送汝兄赴汕头,晚回部,校正治兵语录。
3 月 9 日 六时半起床,写汝为总司令及仲恺兄各函约数千言,多规劝慷慨之词。而汝
兄之函未发,其间有合则留,不合则去,同患难而不共安乐,为对事共事之方针也。书毕已
十时半矣,写果夫、纬儿各函。派人往潮汕设立办事处。下午假眠,研究地图,校正治兵语
录,致戆忱信,拟训令稿二函。[按以下数字及下一行被蒋家审查后贴去]
3 月 10 日 上午校正治兵语录,并增补之,看左宗棠文集,致果夫信。下午往真理学
校讲演,有美国人问余与俄国有何关系?本可置之不答。余特应之曰:俄国与本党对于反抗
帝国主义之目的相同,而三民主义与共产主义自有分别也,得普宁报告,言林逆所部今日已
集中河婆,其队已到上栅,又言已到桐坑者,而汤沆方面报告则为林部在书坑与李逆○○○丰
顺者架设电话云。急报频来,余判断河婆仍是一部之敌牵制我后续部队,而其主力仍在汤坑
未也,姑待之。晚召集官长命令计划后睡。
3 月 11 日 七时后起床,研究地图及敌情,总疑河婆刘志陆、王定华逆军为牵制部队,
而其主力必出汤坑也。幸其河婆部队反为我后续陈○○旅等在公平方面前进所牵制,今日不
敢向揭阳前进也。明日当同许旅向河婆前进,先肃清此部,然后再对其主力也。看曾公日记,
研究地图,颇费心思。拟致汝兄作战电稿四通。晚发仲恺信。
3 月 12 日 本日向河婆前进。
六时起床,致汝兄电,仲恺兄信。准备出发。九时半,由揭阳城出发,途中接谍报,知
逆军刘志陆、王定华部由分鲤湖、棉湖两路前进,且闻其正午占领鲤湖。余二时半抵普宁城,
即令何团如约占领棉湖,而令钱团占领湖尾以对鲤湖。校本部宿于青嶴[按以下四行不清]
3 月 13 日 昨夜以许旅联络不确,竟不能安眠。今早五时起床,六时后由青嶴至湖尾
时已七时廿分,而钱团队尾犹未出发,不胜愤恨,及细问乃知昨夜传令差误,竟至本早七时
方到,侍达之不确实至此,可叹。九时后由湖尾至棉湖途中接报,言鲤湖之敌昨夜已向五经
富退去;及至棉湖,得第一团报告,已于九时半在河内乡上栅附近与敌接触,乃知钱团之报
不确也。二时接何团报告,以一团之众与敌五千人,对抗至四小时之久,许旅尚未联络加入
战线,死伤甚多,第一营几被围困一小时余,死伤甚众。及至四时,接报方知许旅与钱团均
各向敌之左右翼侧背攻击,乃知第一团危险已过,心稍安。又知陈旅等后续部队昨日与敌军
千人在河田接战致胜,今可追击至黄金塘,明日可至河婆。五时由棉湖出发至红湖,接何团
报告,知许旅在右翼退却,我第一、三营亦被冲散,惟何团仍能在原阵抵抗。予即前进,途
中见有退却者,即令回阵。七时到河内曾塘山,第一团阵地,见何团长,乃知第一团官长死
[按以下三行不清] 逼近,预料其今晚敌军必退也。二时由阵地回红湖宿营,与嘉伦、仲恺
商议计划,三时睡。以上十三日之记事也。
3 月 14 日 十四日六时起床,出外视察情况,前方毫无动静,亦未接有敌军退却报告,
不胜焦灼,若不禁寒者。八时由红湖前进,将至增塘山阵地,始遇严凤仪面告,知敌军已于
昨夜退却。我军第一团死伤在三百名以上,而敌之死亡者,几及三百余名,伤者不知其详,
为之慨叹不置。昨日第一团之激战,以俄顾问视之,欧战虽激,不过如此而已。鸣呼!伤亡
86
子弟同志如此之众,且皆优秀分子,而退后之官长与党代表军,照法又须枪决,是皆一手教
成,实不忍杀而又坏纪律,左右思维,实不愿带兵,以杀人为事也。伤心不止,暗吞心泪,
不能自己。三时后由红湖出发红灰寨,晚九时到马路与仲恺兄嘉伦同志议事,至一时睡。今
日头晕,精神甚不畅也。
3 月 15 日 六时后起床,接各方报告,综核敌情,其主力由灰寨经横江向五华退却,
有一部向五经富方面退却,决令两团集中河婆,与后续部队联合向五华、兴宁追击,而令许
旅向汤坑追击,归入右翼方面对梅县前进也。预定本日正午至河婆,九时半由马路出发,下
午三时至河婆,陈明枢旅长、欧阳皙白等来会,商议作战计划。五时后集合两团官兵在河畔
训诫,并由廖党代表嘉伦将军奖第一团致胜之功,为世界第一精强之军队,俄国红军之最强
者亦不过如此云。晚商议计划,辩论昨日作战功过,言语失检,不胜惭惶。午夜三时半方睡。
3 月 16 日 十六日六时起床,拟命令稿数通,求名见好之心未息,总是徇外为人也。
与嘉伦、仲恺谈天,一言之错,一言之忌,几不能成寐,惶惶如有所失者,果何为哉。十时
前由河婆出发,三时过七輋径,其高度约有五百米突,径长约有十里,幸路尚可行也。六时
抵罗径坝,宿营。刘逆志陆残部尚在安流收容,闻有防御抵抗之意,乃命陈明枢旅吴铁城部
及教导团准备明早前进攻击,人民愿效前驱杀贼者甚众,颇为欣慰。十一时睡。
3 月 17 日 十七日七时起床,以三夜未得安眠故失觉也。七时后出发,约行十五里至
绿坑径、毒水嶂,第二团尚未前进,不胜焦灼。前方敌踪若有若无,而该团即迟疑不进,可
叹。后闻人民言,敌军今晨已开始退却,乃即前进。十时占领安流,而敌军犹未退尽,狼狈
不堪,其为民家杀死者甚众也。因饶平、潮汕为洪逆残部压迫。许旅由汤坑调赴丰顺,如此
则对畬坑林虎、黄业兴部主力○○○○○○全力集中河口对我,故留吴部在鲤鱼冈对河口警戒,
两军主力,由安流经周江圩向五华前进。八时后抵周江圩,其路甚长,难行,夜间行军更不
方便也。
3 月 18 日 十八日五时起床,六时后由周江圩出发,行山路,经甘輋围、甘輋嶂小径、
水田,高山重嶺,行进惟艰,时虞炮兵今日不易达到五华也。一时至锡坪,方行大道。自周
江经甘輋至锡坪,名为四十里,实有六十里也。行至风门坳,天已将黑,至西林坝宿营。闻
第一团尚未入城,不胜焦灼。夜中不能安眠,令其今晚务须入城。幸得俘虏为响(原文为‘乡’)
导,识得敌军特别口令,以运子弹为名,连夜开城门,本军乃得随之而进。今日行军之速,
一日几行一百二十里,使敌毫无闻知,及兵临城下,彼始醒觉,心窃自神速也。
3 月 19 日 十九日上午九时入五华城,即令第一团宋城,第二团及陈旅出发进攻兴宁,
途中得土人传报谓本军已入兴宁,疑信参半,及得土人第二报告又说如此,乃信以为真,不
胜欣喜。及后将至五里亭,得我团长报告,如知本军逼近城脚,逆军紧闭城门,不得直入,
闷甚。早知逆军守城,恨不照预定计划,先攻河口水寨之敌也。校部设于五里亭,令各部本
晚八时攻城,不料六时后援敌攻我○门○○○营长受伤,几被包围,幸而击退,于是攻○○○○,
午夜召集○旅长钱团长商决明晨攻守计划。预料由水寨、畬坑来援之敌明晨必可达到○○也。
终夜不得安眠。
3 月 20 日 二十日昨夜攻城计划不能实施,今晨援敌既到,必来反攻。五时许前方枪
声猛烈非常,为之心惊,若不胜寒者。自生以来,未有如此时之忧虑也。万一失败,个人不
足惜,其如全军生命、党军成败,何言念及此,不禁寒颤。六时起床,外出视察,枪声更猛,
惟见陈旅在神光山向上前进,不十分钟,枪声渐远,乃知其为我军击退。是后枪声渐沉寂 ,
未得报告,心犹忧愁。十一时至西门城河一带视察阵地,且观新丰街攻击点,乃即在此下令,
限本日三时同时攻击南门外南济桥之敌,驱逐后再行攻城。下令后,回五里亭。途中枪声甚
猛,城敌又想反攻之势,是时已得陈旅报告,今日反攻神光山之敌,系黄逆兴之第五旅,为
林逆主力中最强者,今日为陈旅俘虏营长四名,官兵六百名,缴枪六百杆。该逆主力几乎全
灭,乃料此时敌之反攻为其退却之预兆也。三时攻击奏效,五时钱团又得占领新丰街高楼,
87
对城猛攻,居高临下,乃知今晚必能克城。虽无入城确报,而此心甚安。十时得报,第二团
已攻入兴宁城,兴宁向称小南京,其城颇宽,城脚濠沟水深。本军攻城不及二日,竟能克复,
将士奋勇,感欣无已,然而死伤太多矣。
3 月 21 日 廿一日九时入城,驻于县署。好名患失之心未消也。正午得报称李易标部
新由水口调来,尚在离城东南五里许之长坡嶺集合,似有反攻之势,不胜惊骇,乃即派各部
向长坡嶺前进攻击。好事多磨,林逆即退,以为从此可告一段落,而乃一波又起。天之磨錬
中正,果如此耶。五时○追击部队至永和圩,已无敌踪,乃回,此心略安。晚入浴,八时后
睡。
3 月 22 日 接胡省长通电,知总理于本月十二日午前九时卅分薨于京寓,呜呼!
七时起床,得陈旅报告称,昨夜长坡嶺永和圩方面尚有敌灯发现,互相射击,逆敌心犹
未死,不可不防也。探报不确,军队未经教育,误会频起,报告虚浮,使此心不安,急焦于
兴宁未克之时。第一团消息绝无,恐今日不能集中兴宁,焦灼更甚。以后战术约有二语为准,
一日迅速集中,二日集中再战。此外无战术矣。七时何团到兴宁,欣慰无已。自下兴宁,无
时或安,至此乃定矣。下令命陈旅钱团明廿三日向梅县进攻,十一时睡。
3 月 23 日 六时起床,写樵峰信,面授陈旅钱团机宜,发汝兄电。下午看吴子一篇,
看曾公日记,急思立志,重新发奋为雄,而得总理薨逝消息,此心几碎。既带军队,自当以
死自厉。东征以来,尝以手枪藏怀,恐为敌污,不如自杀。尚何有人生乐趣耶。遁世隐藏乎,
继续志愿乎,令人悲惨不能自决。鸣呼,休矣。晚记事。
3 月 24 日 六时起床,拟应办各事次序,致真如、慕尹、民达各函。决派许吴两部由
罗冈追击,为左翼队;陈钱二部由梅县经超竹,向平远追击,为右翼队。后以潮汕情况不明,
且平远太突出,故暂中止。看吴子完。其意义不如孙子多矣。午后拟整顿队伍命令稿。看曾
公日记。三时后由东门至北门视察地形,到处是水,地形辽阔宜守也。回署接仲恺兄函,言
委余为潮汕督办。总理即薨,何职亦不愿受矣。近日心神郁绪,浮躁蛮很极矣。自昨日起,
自矢立志重新,奈何暴弃至此耶。谨言、修身(?)、静坐三者○为之。
3 月 25 日 本日正式发表总理于本月十二日九时卅分通告举哀。
六时后起床,拟整理军队命令稿。写真如信,排配办事次序。看孙子三篇。往视伤病兵。
午后看年羹尧事略。写信。研究地图。静坐半小时。晚记事。
感言一则曰:斩草先要除根,擒贼必要擒王。不杀叛逆陈炯明,不算革命真男儿。剜其
心肝,祭我总理。肃清东江余孽,实行三民主义,继续总理生命,完成革命责任。拟发表总
理逝世勉励将士文。
3 月 26 日 静以幽,正以治。六时后起床,写信,致汝兄等函电,致孙夫人及哲生吊
函。对汝兄陈述潮梅兵力配备意见。现在潮梅本军,足有万二之数,防赣边林逆,重于防闽
边洪酋也。午后,看孙子之第十一篇。军事不外于审测敌情,判明别地形,奇正虚实,远近
险易,迅捷活动,团结军心,并敌一向而已。有连长桂永清抢劫财物,私寄包裹,士兵几哗,
拟军法从事也。昨日得张师报知其前○○○○○○追击溃敌,至一大柘附近获胜。敌向赣退。有
此一战林逆不敢驻粤乎。
3 月 27 日 坚忍不拔,继续不断之精神,终是○淑总理以永继其革命事业。
六时后起床,拟电稿,述林逆退赣后,恐其由赣南窜龙川、河源老巢与某军联络由老隆、
紫金以攻我背。故老隆急须派兵也。据林逆电稿以及滇军滞迟不入左翼之事证之,其有密约
谋倒本军之计,不诬也。呜呼!赤忱讨逆,不能相助,而反相谋我。人心如此,尚有何言。
发电致函数通。十二时召集两团官兵在东门外训诫,约一小时半,发表总理逝世及痛陈本军
责任更重之意。下午看孙子之十三篇完。孙子一部书,惟在专一迅捷,审机察势而已。专一
者,集中之谓乎?看曾公家书。
3 月 28 日 肃肃雍雍:绵绵穆穆,继继续续,不慌不忙,不吐不茹。
88
六时后起床,拟战斗秘诀稿约三千言。致函电数通。阅曾公家书军事类。午后召集营长
以上官长会议,四时后议毕散会。看古文辞类纂。静坐思撰祭总理文,甚难为怀也。故不敢
动笔。晚看曾公昭忠祠各记。
躁急暴戾,骄横怨尤之态,仍未稍戒,立志新者安在,沉澹润浑者安在。及今不改○○○○○
3 月 29 日 不慌不忙,不吐不茹,沉澹润浑,偏○○○○○稍除也。
上午拟祭先师文稿成,看王介甫祭父,会客。下午看大学、中庸完,看易经爻象,以其
难解辍学。撰挽总理先师联,一曰“精神重光日月主义鼎立天地”,二曰“高明配天博厚配地”,
又横额曰“主义无疆”。挽阵亡将士联曰“愧我独生对死者,继君靖难吊忠魂”。晚拟吊将士横
额甚多,主义鲜花,革命结晶,死而荣等语。陕西生贾春林以自己失火殒命,是生对于主义
甚忠,不幸死矣。十时半睡。
3 月 30 日 六时后起床,记事,写信,办事,处置本军各事。看论语,起通令,离兴
宁后各部从速整顿之稿,约数百言。十二时,在西门外河畔,开追悼先师及阵亡将士大会,
到会者约五千人。一时后演说毕,闭会。下午三时,在西门外搭船起程。船中看经理学,如
获至宝也。
浮激慌忙之病未致,沉澹润浑之箴不行也。○○○○船至水口,以月黑不能行,即泊于水
口。
3 月 31 日 上午四时由水口开船,十二时起床,经畬坑,看经理学教程完。下午看上
论完。二时经梅,四时经鱷骨潭、丙村,旧地重经,不胜今昔之感。一路山水秀丽,雨后晚
烟如画,非行军不能得此乐趣也。
淫心邪思复动,忮心虚荣亦未尽消,慌忙浮猛之弊终未革除,沉澹浑润之箴,终不能守
也。七时到松口,水大,村中掩埋,电报不通,即宿于船中。
4 月 1 日 船中看下论,至一朝之忿亡其身以及其亲句,不胜感动。以后格身之道,端
在惩忿,其次窒欲也。
六时由松口开船,八时到三河坝,水大流激,船行甚速,经三河坝,感想无穷,本拟登
陆重游,以水大时急,故未果也。护兵厚章,昔淹死于三河、大埔之间,至今犹悲伤也。十
一时到高坡。一时到留隍,三时到潮州,自松口至三河六十里,三河至高坡——留隍——潮
州各七十里,船行甚速也。七时到汕头,与总司令叙谈一切。晚餐后与嘉伦将军商谈大计。
十一时后至财政局驻宿,会客,中央执行委员会委任余为潮汕善后督办。
慌忙忿恨,色欲忮心,害人,诸念未绝也。
4 月 2 日 忿恨忮嫉之心未消,沉澹润浑之箴未行也。
七时起床,问樵峰以财政状况,记事。上午慰问病伤官兵,有见之泪下,不忍相对者,
悲痛无已。一时后慰问毕,谒总座,下午专谈以后计划及练兵事宜,未知此六团计划果能成
为事实否?疑忌不信之人,难与共事,急远之。追击洪逆入闽剿办,其计颇赞同也。与总座
直谈粤军将领腐败,张民达以战斗为营业,避重就轻,冒功贪名,乱委人员,把占机关,敲
榨钱财,皆由上之养成,所以敢如此也,可叹。
4 月 3 日 上午写信会客,致兴宁校部电,下午三时起程,趁四川船,船上与李重武谈
天,晚与李谈天,八时后睡。
4 月 4 日 七时起床,在甲板上散步。十一时船到香港,俄同志登陆游行,余独在船中,
看下论完。七时后遇哈德安船,李日明君等来船同行,与之谈天,晚十一时后睡。
4 月 5 日 七时船到广州。[按下十余字被蒋家审查后盖住]到办事处后即趁船来黄埔,
以午前十一时在校开总理追悼会也。先到要塞司令部,仲恺兄来谈。下午一时开追悼会,咽
呜不能仰视,涕泣难止,推原其故,以到达黄埔原地,脑筋中对于总理常到之地,并受教与
蒙难之地,回忆往昔,感想尤多。故情不自禁也。演说毕,往访谭组安、刘显丞及胡展堂诸
同志,闻滇军已有戒心,○特不向左翼河源前进,而且在白云山瘦狗岭布防,未知其何意耶。
89
晚访嘉伦。十一时回办事处。
4 月 6 日 八时起床,往访仲恺兄。回处薙发。阅报。下午往大新、先施视购物品。安
乐渐生,奢侈又起,切戒之。邓罗二夫人来访。三时后由省回埔[按下一行半被蒋家审查后
贴盖]在司令部会客,见雄夫发气,忿不能惩,欲不能窒,禽兽不若矣。晚与胡教育长、周
处长谈校事后,记事。
4 月 7 日 尝思易道,以见几而作,自强不息,居安思危,从容中道,谨言慎行,乐天
安命数语为主旨。
七时后起床,安排办事日程。往病院访伤病兵,慰问并训诫之。十一时半,到校办事。
下午见学生,并各连长。巡视校内各处,布置不妥,物质欠缺,心多不安,精神亦不甚振作
也。巡视毕,对新兵讲话。夜对学生训诫约二句钟。九时后回部,与李日明谈天毕,睡。
傲情淫佚渐增,沉澹润浑未行,如不重新立志,耐烦忍苦,惩忿戒慾,约旨卑思,忍辱
含羞,则堕落千丈矣。
4 月 8 日 发伤兵款,领枪,会议,教育计划,本校[按下两短行不清]
七时后起床,排办事次序,写樵峰信,痛斥此次后方运输站人员之不得力,所运物品,
什九不到,而山炮两门,来往输送,无人起卸,竟为敌艦在汕头口外扣去,当事诸人皆推诿
卸责,不知失职贻误之咎,且此炮是总理由豫军中调来,遗留本校之最有力量之纪念,而乃
竟为俞鹏飞等所失,是为毕业恨事,可恶孰甚。上午办公,下午训诫官长,自治勤劳,教人
以动作迅速确实为主,内务以整齐清洁为主,先必使其肃静也。三时召集连长以上人员开会,
六时回部,晚记事。
4 月 9 日 色念不息,蛮容不改,沉澹润浑不勉,终于堕落而已。
上午监视诊断伤兵,实贪色欲,人而无耻,欺饰岂能自欺乎。到校办公。下午,点入伍
生名。仲恺兄来谈,知张民达在潮州湘子桥被水淹沉,生死未明,但愿其遇救重生也。此人
色污目蒙,性狡心急,早知其短命,然而不料其如此之速也,悲乎!晚召集全校士兵、学生
讲话约二句钟。天下事惟不明白之人,方多意见也。讲毕,宿于校中。
浮急心躁,色慾更浓,如不惩窒,我诚小人。
4 月 10 日 五时半起床,巡查学兵连,时遇未起各连,野外动作皆不能一致,腐败日
甚,可叹。上午办公,写东臣信,与政治部及党部学生谈话,旧学生与职员隔阂日甚,不能
自知其过,日以资格自居,必无希望也。改正讲演稿。下午在司令部,改正讲演稿,候客不
来,俗客偏来,不胜懊丧。然犹幸其不来也。晚习字,陪客。
4 月 11 日 六时起床,到校朝餐。上午看伤兵,办公,下午训诫出发士兵毕,坐艇游[按
以下一行多被蒋家审查后贴盖]孰甚。近日以来,洁如不来。汝为忌刻,愤恨悲痛,百感交
集,早知有此,而终不能防制,毫无戒懼之心,何以对人耶。三时后赴省,往访仲恺、绍基
诸君。晚四处探色幸未成为事实,眼高亦一好处也。十二时回办事处睡。[按下二行被蒋家
审查后贴盖]
4 月 12 日 六时后起床,往船接客,又不见其来。十时往中央执行委员会輓总理像,
至东校场追悼会场,到会者约十万[按下一行半被蒋家审查后贴盖]一时开会,巡行,在办事
处中餐。写仲恺信,述潮汕善后意见,许汝为忌刻,俞樵峰狡猾,令人痛恨莫名。访组安及
嘉伦、邓夫人。晚回埔,闻蛙听犬,动我乡情,啓我隐居人之心矣。记事。
4 月 13 日 六时起床到校办公,上午批阅。复经儿信。接樵峰函,恨极。改正讲演稿。
下午赴省,应湘军讲武堂之召讲演约一时半,毕,往送仲恺兄赴汕,往北校场分校巡查。往
访嘉伦同志家,谈天,详叙三句余钟。十二时回浦,宿于司令部。
[按此处十余字被蒋家审查后贴去]忿恨更甚。余以汝为为东洋式五十年前之英雄,实不
适于今日之世界。彼所措施,皆足以自杀而有余也。
4 月 14 日 六时前起床到校,上午批阅,巡视,阅操,办公。下午习字,记事,办公。
90
回司令部休息一小时。神经衰弱,体力虚馁之症复萌。晚对入伍生讲演。自七时至九时,足
讲二句钟之久,不觉其倦,只恐时间快过也。得一道教一道,有一时讲一时,不问其成效如
何也,晚宿于校中,十时睡。[按以下一行被蒋家审查后贴去]
4 月 15 日 五时卅分起床,巡察,静坐。朝餐后,与官长讲演教育方法及效力,先使
学生觉悟受教之必要,必使其诚正,能自治,不须官长之监督,而其中心仍须官长能自治,
能为学生之模范,使其意志一致,精神团结也。上午办公。入伍生第二营移驻北校场。下午
假眠二小时,办公,会议。晚训诫陈生作为,假借党部执行委员会之名,滥用职权。到工人
夜学致训词。[按以下一行被贴]
4 月 16 日 五时卅分起床,静坐。上午办公,视察伤兵。下午往省城购书。晚在分校
讲演二小时。十时后回办事处睡。
4 月 17 日 六时起床写信,七时往分校,写信,八时后往黄花冈附近检阅入伍生队野
营演习,其精神学术皆不能与第一期生比例也。讲评毕,回办事处。下午假眠,三时后外出
购书,直至晚间八时方回处。近日甚想看书,而总不能静心,故拟多购小说,以收此心。然
后再看他书也。十时宿于办事处。
○○○○色念忿怒不除,奈何!
4 月 18 日 六时前起床,往码头迎接洁如,未到,不胜懊丧。八时回校办公,视察病
院得遇郑君交谈,颇慰也。上午办公,下午视察安葬阵亡将士地点。三时回司令部,看小说。
郑君来谈,去后,入浴。宋孟果及江和风来谈。晚赴省,仲恺兄由汕回来,与嘉伦商议一切,
十二时后宿于办事处。
4 月 19 日 沉澹浑润则可,浮浓濁激不可。
六时起床,往接洁如,同回黄埔司令部。今日伤风,洁来不能免此,故终日昏沉,睡眠
而已。下午四时,胡展堂、罗翼群同志来访,详谈大局。晚九时后睡。
昏沉迷离不如人,戒之。
4 月 20 日 六时前起床,探测洁如心理,与其在沪行动。上午在校办公,往司令部与
洁如玩恼。下午假眠一小时后,办公。嘉伦、仲恺、湘芹、协之诸同志来谈。五时后回司令
部,与洁如玩恼。晚八时后即睡。
4 月 21 日 六时到校办公。[按以下二行被贴去]
4 月 22 日 今日伤风。上午在校办公毕,回司令部休养,片头疯疼甚。
4 月 23 日 今日伤风在部休养,仲恺、赣忱兄等来谈。
4 月 24 日 今日伤风略愈,在家休养[按以下六行不清]
25,26 日日记缺,27,28 两日内容记于 24 日后面。
4 月 27 日 浮[按以下约十字被贴]恺、嘉伦,汝为来会。○○○会议决定对时局处置方针,
下午会议至午夜始散。
4 月 28 日 阴,五十五度,下午会议决定率兵回省城,保守革命根据地。仲恺与嘉伦
回省成。
4 月 29 日 早醒[按以下约十字被贴]
上午会客办公,往林家○○行营视察,往病院看伤病兵,学生之亲爱过于父子之情,令
人朝夕难忘也。下午访总司令部,议事。三时搭车来潮州,四时半到潮,各团体各校学生来
站欢迎者约五千人。驻公[按以下两行不清]职员饮酒之不应约一小时,十时睡。
4月30日 早醒[按以下约十余字被贴]上午会客,调查学生在潮干涉教职员风潮之内容,
学生[按以下数行不清]。
下午游两湖,登关岳庙。。。,与洁如在途中生气。此事终不能忘,几发神经病矣。五时
回行营办公,晚十时睡。
5 月 1 日 早醒[按以下一行被贴去]
91
上午会客办公,十一时到劳动纪念节会场讲演,到会者二万余人。下午假眠后游韩山及
其中学,晚对学生训诫约一小时[按以下数行不清,下一行被贴]
5 月 2 日 上午会客办事。孔庚来访。往游关岳庙。下午往潮安党部讲演约一时半,回
行营办公。县知事李振翱擅征捐税,犹不缴卸,着即看管严办。晚宴孔君及各界于关岳庙。
十一时回涵碧楼睡。拟征集帝国主义在中国之黑幕题目完。
5 月 3 日 上午拟训诫官长挟妓及挟枪潜逃等之电稿。郭渠川,江西人,第一期学生,
竟敢于放哨时率队潜逃,余引为革命军第一之污辱,几欲自杀。假眠一小时。下午记事办公,
看经济思想史,晚宴会各将领及学生,余之演说,以本军如有一人未死,即与敌党始终作对,
以行总理之三民主义也。十时后睡。
5 月 4 日 上午看经济思想史,办公。十一时在公园参加五四运动讲演半小时。陪客。
下午假眠。想起此事,愤恨不堪,一生无一日乐趣,亦无一件乐事,环境不良,家庭不乐,
人生尚有意味乎。晚应商会之宴。此事终身不能忘也。与其若此,不如忍舍,以免获罪难堪
也。十时睡。
王东臣为火酒烧菜不慎,面部受伤。汕头行营无人主持,人才之难得,盖如此也。
5 月 5 日 上午办公,看将帅之拿破伦十八页。下午看经济思想史十八页。草学生士官
假例稿约千余言。帝国主义者在中国黑幕之题目付印,计划作战。闻又有副排长带兵二排武
装潜逃者,不胜愤恨。近日与洁如不睦[按以下三行不清]
5 月 6 日 上午○○假例训令,办公,看经济思想史。下午会客。陈真如旅长来谈。看将
帅之拿破伦。往金山中学游览,乃一胜景也。惜乎亭台坍塌荒凉满目,大杀昔年之风景。如
余在潮,必先修理,恢复旧观也。晚研究地图,思虑作战计划。据报陈林各残部均向赣南移
动,似有向赣南分进东北江,合击省城之势。
5 月 7 日 致展堂先生电,考虑计划,办公,陈真如来谈。看将帅之拿破伦。看经济思
想史,批阅。晚散步于西湖之畔,天朗气清,月明星稀,洁如同游,聊以解愁,惟忧○能久
乐于此,且恐心志日堕耳。十时回涵碧楼睡。
5 月 8 日 上午看将帅之拿破伦,看经济思想史,办公。下午,璧君夫人来潮○谈良久,
精卫同志亦来潮,叙述[按约十字不清]中正[按以下约十余字不清]回忆往事,伤心悲痛,泪
下涔涔不能止,商议党事与其调人行止,欲余一言而决。同志对余如此亲爱,愧感交集。晚
陪客在关岳庙外观潮州全城风景。十时后回睡。
5 月 9 日 今日精神颓唐,心思郁闷。为近日来此罕有[按以下数行不清]
5 月 10 日 上午季新兄来谈,以彼此心心相应,乃结为谊交○分属同志 情切同胞,海
○○○○○渝之,○○相约。汝兄总司令来谈,至下午三时后方回。往访东臣兄病,再回总部谈
天,六时回寓办公。季新兄来长谈,劝我实行总部参谋长职权,与之商谈甚久。仲恺改教导
团为党军,余认其有意防范撤我兵权,我但望其自不叛党而不配防范介石也。
5 月 11 日 上午办公后,同季新兄往总部参加总理纪念周,与汝兄商议一切回寓,批
阅。下午往总部办公,○时后回寓。拟致李汉藩、陈作发函稿,痛斥其对林处长处置之非,
并拟训令稿约数千言,至夜十二时睡。
5 月 12 日 上午拟改革意见案,训令稿,改正致李汉藩函稿,批阅,会客,假眠。下
午往总部办公。四时回寓,批阅,拟○○训令稿。晚请湘军岳参谋长、季新、元冲,褚民谊
等宴会毕,记事。
5 月 13 日 上午办公,仲恺、嘉伦、益之诸同志来汕商议粤局,先固省城。下午二时
回寓,休息,五时访仲恺,晚宴毕,会议回省计划,至一时回寓,睡。终夜未得安眠,以放
弃潮梅,全部回省非得计也。
5 月 14 日 上午办公,拟电稿,总司令等来寓会议。下午送季新、仲恺兄行后,在总
部商酌全部或一部回省,余主张八千枪正可单独回省,完全负责,其余粤军仍守潮梅,结果
92
以一部留驻,大部回省比较上策也。晚嘉伦等来寓食饭,会客,闻张民达在港,犹未淹死,
幸甚。
5 月 15 日 六时前起床办公,七时由汕头起程,同洁如搭车,九时半到潮安,与教育
长谈天,办事。下午一时训诫学生,以人生应劳动二字为主诫之。办公,会客。办事人之不
得力,不惟觅一中材不可多得,即觅一小材亦极难也,可叹。七时后,别洁如,登舟而上梅
县之道矣。
5 月 16 日 上午八时后经高陂,在船上计划行军日程,下午假眠。正午经三河坝,不
胜今昔之感,如逢旧友,对于战地之恋爱,盖如是也。三时后看将帅之拿破伦至“威灵才路” 军战斗止。五时松到松口,绅商军界来会,即在船中晚餐,记事。十一时过船,睡。
今日之病在于浮激而不能涵润也。
5 月 17 日 上午三时由松口乘电船出发,十时到丙村。船中看将帅之拿破伦。十时由
丙村搭轿起程,经过分水关、佛子坳,得签[?],近乎事也。下午三时到嘉应城,会各部官
长及绅商学各界。致东臣函。办事。晚会议各事。十时后睡。
沉澹涵润,浮浓激濁,今日之病仍在浮激,而欠沉涵也。
5 月 18 日 上午四时后起床,拟行军日程,办事次序。办公。对各官长讲演约一小时。
赴各界欢迎会讲演。下午,讯判逃兵。致总司令及教育长各电。五时后集合全校官兵在东校
场讲演约一小时半。自以为克尽其言也。晚会见部下叙事。校中派别为中山主义学会与青年
团,屡生意见,不胜其烦也。入浴后睡。
5 月 19 日 六时后起床,批阅,记事。上午静坐,看将帅之拿破伦。九时后往梅县党
部筹备会演讲。正午回部,会场欢迎盛极,跳舞唱歌,倍极优礼。下午对炮兵学生讲话毕,
开校务会议约三小时毕,对警卫军讲话。近日每日讲演三次以上,精神尚不觉疲倦,喉音亦
越清高也。晚办事,十时后睡。
5 月 20 日 六时后起床,拟○电稿。上午拟[按此页大部分不清]可以住县城中也。训诫
炮兵,晚宴各官长,并发第一期毕业证书,训诫官长。回部,办事。十一时睡。
5 月 21 日 六时前起床,办事。准备出发。本军全部本日由梅县出发,回广州。写嘉
伦、仲恺、璧君各同志信。候电不到,不胜着急。正午由梅县搭船出发,经松口来潮州。船
中看拿破伦。五时抵松口。有第二师士兵推船,水大激行,又动气斥骂,其实,固不应如是
也。浮浓激濁之病并发矣。[按以下十一字不清]
5 月 22 日 五[?]时半,船抵潮州,即入涵碧楼。拟同学录序补稿。致嘉伦信。往潮校
与潮教育长谈时局。上午九时,由潮州搭车回汕头。十一时抵汕,回寓。正午至总部与古湘
芹部长谈天。逆军已有代表到汕,与汝兄接洽,不知其果能缓兵否?下午假眠后会客。史顾
问等来谈。往访东臣及伤病兵。晚宴客。十时后睡。
5 月 23 日 八时后起床。昨夜又与洁如缠扰。英雄气短,自古皆然也。入浴后,会客,
办事。批阅。致季陶、季新各函。下午假眠后与俄顾问谒汝兄谈逆军妥洽程度,心甚不安。
会客后,办公。付印改良前方办事章程。六时后,往对河岩石○○森林畅茂,空气洁净,山
明水季,鸟语花呋,清潭怪石,与汕头市遥望,对山岩石(‘山’字下边加‘曾’字),无衣衣之
景色大不同也。八时回寓晚餐毕,与东臣谈天。十时后睡。
5 月 24 日 致组安、立三、择生各函,致周何电训令。
上午看将帅之拿破伦,办公,会客,检查地图。下午假眠后批阅,医牙,谒总座商议对
逆军招抚办法,晚宴客毕,批阅,十时后睡。
沉澹涵润,浮浓激汹诸端,激汹而不能涵润,对于下人怒骂汹狠,既伤元气,又坏身体,
当切改之。
5 月 25 日 八时起床,心志渐向安乐。美食贪乐,将何已对已死诸同志而镇抚部下耶?
当切改之。阅立三信,有所感。上午办公,拟训令稿。下午,看拿破伦。外出医牙。谒总座。
93
晚应史顾问之宴毕,再去医牙。十时回寓,睡。又与洁如睹气,不能安眠。
5 月 26 日 上午元冲来谈。外出医牙。正午谒总座。下午与元冲谈天。办公。致择生、
立三各函。料理汕头行营诸事,忙碌几无暇昝,劳苦甚矣。沉澹涵润,浮浓激濁诸端,但有
浮激而不能沉涵,以后于沉涵二字,须加意也。晚谒总座后,访史顾问,与洁如乘车游行。
十时睡。
5 月 27 日 上午办公,会客,谒总座,看拿破翁。下午假眠,办公,看拿破翁,谒总
座,访俄顾问。同洁如乘车游行至崎碌吴家祠,徘徊一周,不胜今昔之感。以此为前粤军总
部所在地,为余入粤军之初所居之处也。对于原住房间,尤为留恋。晚会客,记事。由汕头
搭船往海丰。
5 月 28 日 昨夜十一时后上船,睡至三时,浪入嘴口,被服全湿,以此为洁如之物,
不胜牵念。今日以有浪不能起身,午后二时半,船到汕尾,即登陆,农、工及学生来欢迎者
约千余人。入办事处休息。驻大同旅馆。往○白○视察汕尾兵工厂毕,回馆,会客。拟命令
稿,晚记事,复函电。入浴,十一时睡。
5 月 29 日 六时起床,昨夜好睡,几失眠误出发时刻。上午七时前出发,由汕尾起程,
经留连径,正午到海丰城,一路农民欢迎,额手拜祝,几乎○○,不然农会之盛,未有如海
丰者也。可喜于革命前途,不无乐观也。下午应人民欢迎大会参观自卫军,回行营办公。晚
对第一第六旅写拟训诫毕,记事,十时后睡。
5 月 30 日 六时起床,办公,为陆丰县长事烦忙半小时。八时由海丰搭车往公平。九
时训诫士兵毕,另训官长约一时半,驻于文昌庙,看将帅之拿破翁。三时后回海丰办公复电
省城诸公,胆怯又想调和,书生误国,所以中师白苦一生也。可叹。决率队前进,不允妥协,
免误军事也。晚李总队长赓护来,见之心痛,以二队学生仅留九十名。至公平,其余中途请
假,自由离伍,官长怕学生,至此,愤恨莫甚,大发牢骚。
5 月 31 日 四时半醒,五时后起床,安排各事。本定六时起床,以马未借到,乃延至
七时,部中人员不得力,讨气不堪。出海丰北门十里之处,有音为洪大麦村,一湾溪流,绿
水垂扬,澄清如镜,幽胜无比,至此心为之一静,爱恋不忍舍也。由此二十里山路,名分水
坳,不见人烟。盖此坳即岭下东西分界处也。其如赤石之羊蹄岭,龙○之老隆,过此即踰岭
西,直下省城之道矣。其山[按以下一行不清],道路崎岖,雨天更不。。。 下午四时到埔心
圩,闻三多祝已无敌踪矣。
6 月 1 日 滇军内部离异,胡思舜表示与本军合作○○○○
昨夜九时睡,三时醒,闻三多祝逆军未退。三时后起床处置一切,发各电以子弹未到,
不胜忧虑。六时后由埔心圩出发,沿途皆有村落,不比昨日之稀少也。十时过新菴圩,三时
后到多祝,一路平坦大道,惟天雨路滑耳,多祝人民皆出村口欢迎,心为之一慰。闻逆军昨
夜始退平山也。途中看拿破翁,阅之不忍掩卷。到多祝宿福缘祠天后宫东边一小祠也,研究
地图。近日暴躁浮急殊甚,宜以沉澹涵润济之。
6 月 2 日 五时前起床,检点应办各事,浮躁凶激,总不能改也。六时半由多祝出发渡
河,经增元,正午在下楼附近休息,以未得敌情甚闷。行至潭公圩,见部队犹未前进,又起
暴戾。近日性躁如此,若非注意沉澹涵润,必偾事也。下午经潭公圩向平山前进。得省城来
函,并差人由平山来者,言平山滇军今已退却,我即前进。四时到达平山[按以下三行不清]
6 月 3 日 四时后起床,办公,研究地图,决定明日第一纵队由平山出发,经淡水铁桥、
樟木头道路,定六日在土塘集中;第二纵队由白云出发,经淡水、龙冈、塘头厦道路,定六
日集中塘头厦,计划毕,看拿破翁十余页。下午看拿破翁。三时召集官长讲话,五时半对党
军及警卫军全部讲话,七时对第四师官长讲话,晚看省城来通报,知滇军等已起恐慌矣。十
一时后睡。
6 月 4 日 四时后起床,拟电稿,处置一切。上午六时由平山出发,经白芒花,沿途行
94
军序列无状,不胜愤恨。无教育之军队见之但有心痛。下午四时后到淡水城。自平至淡,足
有八十里路也。途中看拿破翁二十页。到淡水,驻邓家花园,会客,谈天。十二时睡。
6 月 5 日 四时起床,处置运输事[按此页大部不清]。今日天热路远,行军尚佳。而忿
怒太多,疑心太重,终不放心洁如在沪,恨之又爱之也,怜之又痛之也。奈何?十时睡。
6 月 6 日 惩忿窒欲。四时起床,五时半由黄泥塘[按此页大部不清]
6 月 7 日 [按此页大部不清]洁如事,只有置之度外,万事不可看得太真,故今日郁闷
较感轻于昨日也。假作真时真亦假,无为有处有总无。
6 月 8 日 今日看拿破翁上卷完。
四时半起床,处置一切,静坐片刻。见火车未到,不胜欣慰。六时由樟木头出发,行至
中途,经常平搭火车,至南社站,沿途山脉平平,水田汪洋。闻石龙滇桂军已退往石滩[按
以下各行不清]
6 月 9 日 [按此页大部不清]各部官长辅助方可实施计划。今日因铁路毁坏,故输送迟
延也。九时睡。
6 月 10 日 五时起床,看拿破翁九页。上午增补致洁如函。正午由石滩搭车起程,三
时抵笔村宿营。有罗冈轻便铁道火车前[按以下均不清]
6 月 11 日 四时起床,阅报告及嘉伦来信,知北江军队已到新街附近,今日亦可攻击
北路之敌也。五时半由笔村出发,经罗冈、暹冈、联安市直上火炉山,途中十一时即闻龙眼
洞附近枪声,知已开仗。火炉山可四面眺望阵地甚明,不一时,敌军退据龙眼洞后大妲岭,
凭险固守。捕获俘虏,讯鞫其在龙门埔方面尚有三旅,未曾集中,约计明日可到云,可知此
即为昨日与许师在中途接触之敌也。而据险敌军其待所部之集中乎?故决心攻击前面胡思舜
一股,然后再计其他也。第一团由右翼登洞,旗○天已入夜,乃令明日拂晚攻击。十一时由
炮兵阵地回,至惠中堂宿营,发攻击命令后就寝。
6 月 12 日 昨夜疲劳,以盛暑上下高山数重,兼之战成事不得手,甚忧也。今晨三时
后起床,即向炮兵阵地前进,恐左翼兵力不足,又恐警卫军不能作战,故急令陈旅增加一营,
而陈旅已派一团进攻,知之甚为感佩,真如实为粤军中第一将领也。五时开始攻击,六时敌
即向省城败退,龙眼洞附近完全为本军占领,乃即下追击命令,向瘦狗岭、沙河进攻。战斗
未至二时,敌即溃败,其为我在赤冈塔野炮所击杀者,约有数百名。尸尸之多,目不忍睹。
下午一时后入省城。晚会客,谈天,宿于亚州。一时睡。
6 月 13 日 上午到大本营访展堂、季新、鲍尔廷诸同志,回旅馆与仲恺谈事。下午访
嘉伦,与各同志谈天。昨日以来,市内秩序大乱,粤人以消灭外江人为口号,无论兵民对于
外人仇杀殆甚,惨不忍闻。恶劣粤军藉口搜吏索名,抢劫外省人家室,警察带路,尤为可恶。
本校官生家至遭劫甚多,而本革命军爱国爱民之热忱,与红领带之记号,皆为此一般军队所
丧失,以本军为红领带,而其余各军亦相率效尤,人民不知真假,故对本军感情亦不如前也。
与嘉伦谈广东,决非革命根据地也。
6 月 14 日 中国人之蠢不如牛,可为正式之人者,实十不七八也。
早起记事,璧君同志来访,予之回其寓,朝餐叙事。十时回办事处办公。十一时至省议
会,正欲会议之时,忽闻枪声,初甚微弱,继则激烈。予即赴北校场,见场北一带山地皆为
敌军反攻所占领,党军于五分钟之内,皆能集合对抗,不半时敌势不支,纷纷退溃,山地皆
为我占领。我即乘势追击,缴获颇多。殆至五时,战毕,往大本营报告时,忽闻河北东堤一
带枪声大作,派人调查,乃为本校入伍生队巡查班为粤军恶劣士兵所枪击,竟死二人,愤激
非常,粤人排外,恨正之心,可见一般,且射击予经过之汽车,竟伤卫士一人。无教育纪律
之兵,非人所带也。晚不能安眠,竟至发神经病。
6 月 15 日 惩忿窒欲。六时起床,欲待昨死之入伍生入殓,乃回长州司令部。今日精
神疲倦,时时欲睡。又为洁如事,犹豫不能决。特令纬国母子来粤。下午沉眠半日,看拿破
95
翁三页,看各种小说。晚,无聊已极,看小说,十时后睡。
粤人排外特性,殊为骇异,潮流所至,与方法设施,其必使化除界限可能乎?惟有宣传
与党代表之一法乎?
6 月 16 日 六时起床,为洁如事,呆思许久。男女关系,令人之不能解决如此,诚不
知其所为也。上午排议案,看拿破翁十八页。下午假眠。四时卅分校务会议至七时后完。回
司令部,与仲恺兄谈天。委任何应钦为师长,刘尧宸为第四团团长。晚办公,记事。
6 月 17 日 上午看拿破翁十五页,与伤病兵讲话,赴省视察八旗会馆校本部布置,闻
俘虏旅长罗振标逃亡,不胜愤慨。往访士章家,即回埔校视察一切。晚嘉伦来谈政府及军事
委员会组织,至十二时方去,即睡。
自知愚陋不灵,嘉伦仍一外交家也。
6 月 18 日 早起,撰武嶺乐亭记毕,记事。上午访伤病兵,烦杂不堪,亲爱踰常,不
禁忧喜系之。下午假眠后,史顾问等来谈,会客。闻许总司令已由潮汕出发,潮梅已为陈逆
各部所占领。妥协可乎哉?看拿破翁十余页。晚,纳凉,入浴,十时睡。惩忿窒慾。
6 月 19 日 早起静坐。上午整理伤病兵回籍名单。看拿破翁十五页。下午假眠,看小
说,写国柄信。赴省,见许总司令。访季兄。与仲兄谈天。魏邦平提倡广东主义,排斥外省
军队,反对本党主义,诚为可笑。十二时回埔,睡。
6 月 20 日 上午整书,办公。下午看拿破翁十五页。会客。今日伤风,精神不振。晚,
早睡。
6 月 21 日 上午办公。十时到省。开校务会议,至下午一时后方毕。往谒许总司令,
商议组织政府并人选问题。决采委员制,余力辞加入政府,以为政府直接指挥者,不宜加入
政府委员之内,[按毛思诚党政篇改为:以为政府直接指挥军人,不宜加入政府委员也。]季
新韪余言,故去之。惟军事委员会则不能辞也。晚以风猛,宿于办事处。
璧君、季新诸同志劝我不住办事处,以陈景华与邓仲元,皆住于此,先后被刺,故力强
余速迁也。爱我者,其亦因爱而生迷信也。感甚。
6 月 22 日 六时起床,回埔,对第四团士兵讲话,以其为俘虏编成,余以当兵职务及
本军此次战争,救国救民并救其滇桂军士兵,而独攻其不人道害国殃国欺下负上之杨刘二人,
而战争也。听者似觉有味。下午假眠。记事,看拿破翁八页。晚九时睡。
6 月 23 日 毋亡今日之耻辱。
今日暴戾过甚。闻洁如须月抄方到,心更着闷也。上午办事,看拿破翁十六页。下午假
眠,办公,会客。为沈团长骄矜越礼,痛斥其非,三时后得谭组安总司令电话,知今日各界
游行至沙田附近,本校学生士兵为英贼凶暴,用机关机扫射游行人员,以密集单道前进,无
有掩护,故为其射击,死伤者约 70 人,本校死二十人,伤十余人。呜呼痛哉!国势至此,
不以华人之性命为事,任其英贼帝国主义所惨杀,闻之心肠为断,几不知如何为人矣!自生
以来,哀戚未有如今日之甚也。上省时一路惨澹景象,天色顿呈不可思议之红灰色及黯淡色
之情景,悲乎。[按毛思诚党政篇修改为:下午三时后,得谭组安总司令电话,知今日广州
各界群众因援助上海各地惨案巡行,以密集单道前进,无有掩护,经沙基口为英醜用机枪扫
射,死伤者约七十人,本校学生士兵死二十人,伤十余人。蠢尔英奴视华人之性命如草芥,
肆行茭薙,闻之心肠欲裂,几不知如何为人矣。自有生以来震悼未有如今日之甚者。上省垣
时一路景象凄黯,昊天顿呈不可思议之红灰色及苍淡色。呜呼,惨已。]晚商议至一时,回
部睡。
6 月 24 日 昨晚悲痛几极,精神疲倦,热度甚高。今朝起床,因有热度气体更倦。勉
强至北校场集合士兵,讲话约一小时,体力更倦,十时回校,布置一切。下午回司令部休息,
碧君来看余病,心甚感激。晚傍看拿破翁十五页。晚会客,十时后睡。
6 月 25 日 如何可以灭此横暴之阴番。
96
上午拟要求政府对阴番惩罚案,拟军政意见书稿,看拿破翁廿页。下午假眠,看春艳秘
史,改正意见书。晚以洁如在中途不能到港,设法迎迓。十一时后睡。
6 月 26 日 忘此阴番惨杀之仇乎?
今日恐洁如在港不能来省,思虑半日,望如云霓也。上午办公,致嘉伦函,会客。下午
假眠,看春艳秘史,甚雅文也。看拿破翁十页。办公一朝至晚,除假眠外几无暇隙。所闻之
事,如军医处腐败,及教育长受人攻击,皆痛心事,尚能耐烦也。晚与教育长商议校中教职
员分配事。十一时后睡。
6 月 27 日 上午办公,发嘉伦诸函,会客,季新夫妇同志陪司徒医生来诊余病,亲比
家庭过之,感激莫名。下午看香港地图,陈真如旅长来谈,甚洽意也。东臣来谈,晚视察本
校,入浴后晚餐。十时后睡。
忘英番之惨杀我部下及同胞之仇之耻乎!
6 月 28 日 汝忘阴番杀你部属乎?
六时起床,想起洁如前事,痛恨不堪,几乎晕倒。上午拟训令十余条,看拿破翁廿页。
下午仲恺兄来谈。假眠后以瑞昌亦睡,家无人管,任我叫呼,一人不应,恨极,罚瑞昌禁闭
七日。往校视察,晚十时睡。
今日以洁如未到,暴戾不堪,不能耐忍至此,如何作事。惩忿窒慾,勉之。
6 月 29 日 阴番不灭,非男儿。
上午办公,闻洁如已到省城,心略安,即往迎访季新兄,嘉伦同志。下午回埔,假眠,
办公。晚开区党部执行委员会毕,与嘉伦讨论革命方略,余以为桂林是南方革命第二根据地,
彼甚为然。讨论至十一时方去。(惩急窒慾)
6 月 30 日 上午计划两广道路事,十时赴省开国防会议。下午四时回埔,假眠,六时
与官长讲话,以本校为革命学校,乃革腐败社会之命,即革腐败人之命,本校官长有领导国
民革命之责任,勿敷衍塞责,得过且过,立于被革命地位,并且治己治人,皆以严字为主云。
晚开校务会议。十时后回埔,入浴,睡。
7 月 1 日 汝忘英番虐杀同胞乎?
早起办公,九时后到校,行第三期学生入校开学式,季新、仲恺、嘉伦、鲁克巧夫及高
级官长皆有讲演。十二时后余自讲演一小时余,在青天白日之下,盛暑演讲,尚不觉倦,述
沙面惨杀案,谓惨凄之中,觉有一种光明,后死者固悲痛,而殉者则所乐也。下午复在会客
厅训诫各官长约一小时余,毕在校料理一切,再与干部学生讲话,五时回部,体力疲倦已极。
会客,办公,十时睡。
7 月 2 日 [按此处约十字被贴去]七时后起床,办公,上午十时入颐养园,割治鼻瘤,
心虚而痛苦尚可忍也。
7 月 3 日 驻院。
7 月 4 日 驻院。
7 月 5 日 驻院。
7 月 6 日 出院。
7 月 7 日 出院。照常办公。
7 月 8 日 照常在长洲司令部办公。因劳苦鼻孔出血,血管破裂。
7 月 9 日 今日血管破裂,性躁心急,见人辄恶,流血不止。
7 月 10 日 今日流血更剧。上午十时想入病院,步至门外,晕绝回部不知人事,约十
分时,璧君带医生来,注射血针,下午用手术塞鼻,苦痛不堪,入院。
7 月 11 日 在院。
7 月 12 日 在院,拿出塞鼻药布,医生以不见布头,拿了许多时候,总拿不出,苦痛
忧怕无已。后只有令其暂缓。迨至下午四时方拿出,如息重负,如解倒悬。
97
7 月 13 日 在院
7 月 14 日 在院
7 月 15 日 在院,近日气候皆在百度以上,焖热非常,忽起大风,据云数十年来未有
如是之风也。
7 月 16 日 在院
7 月 17 日 在院
7 月 18 日 在院
7 月 19 日 在院
7 月 20 日 在院
7 月 21 日 上午访季兄,访汝为总司令,下午鲍尔廷在院谈四小时之久,六时出院至
黄埔。
7 月 22 日 本日在司令部会客,办公。
7 月 23 日 今日检阅第一师毕,与仲恺商议财政问题,死伤部下至如此之多,而财政
尚不能统一,时时受人掣肘,言之泪不能止。
7 月 24 日 今日在省办事。
7 月 25 日 上午访季兄,访鲍尔廷同志,谈二小时余,下午休养,调查省城各军驻扎
地点。晚许汪廖来谈至十时去后,往访鲍尔廷,深谈二小时,决议不行上午计划也。一时睡。
7 月 26 日 上午在办事处理事。下午往总部。赴各军高级军官会议,予演讲,对阴番
○○各军官惟有对此鼓掌,○○○○甚不安也。
7 月 27 日 上午访史罗各顾问,访汝为兄,下午与罗顾问谈四小时,晚与王东臣谈编
制,至十时。
7 月 28 日 阴番不灭,何以立国。
上午访组安总司令,会客,十一时回黄埔,下午假眠,至四时办公。读中国地图,以总
理北上时独赠我,以国防图记也。晚与力子谈天。十时睡。
7 月 29 日 汝忘阴番之杀同胞乎?
○时后起床,往校办公。下午○九时著《对阴主战论》○毕,命题十余课,如出城舰载燃
料到埔,则阴番○○我燃料之计○矣。访俄舰。东臣、恩来来谈。十一时睡。今日佣人弄老药
饮一口。迁怒洁如,暴躁一日。
7 月 30 日 身体不强,焉能攻阴。
终日在校办公,视察,诊断○时○室,会客,五时回司令部,入浴,晚宴蔡夫人,十时
回[按以下二行被贴]
7 月 31 日 阴番不灭,何以立国。
上午办公,十时由黄埔起程赴虎门,检阅第四团第一、三两营,成绩颇好,晚宴会讲演
后宿于船中。
8 月 1 日 阴番不灭,何为革命。
上午七时到沙角检阅第二营。正午起程回校,四时到黄埔,又与洁如纠葛,不胜愤闷。
十时在校睡。
8 月 2 日 何时得灭阴番!
上午在校办公,下午休息,晚赴省访汝为总司令与季新兄,其手生疮开割,在省睡。
8 月 3 日 上午访季新兄,展堂同志,仲恺与鲍尔廷同志,汝为总司令无故不到会议者
一星期,妨碍各种进行非尠,殊非革命行动也。下午宴请俄舰“新匆罗保罗”水手及欢送史顾
问,至十时后散会。
8 月 4 日 阴番不灭,何以对先烈。
上午办公,下午开沙基死难烈士追悼会毕,办公,晚演剧,宿于校。
98
8 月 5 日 汝忘阴番惨杀汝同志?
上午巡查各队,在校办公,下午办公,记事,四时后赴省,晚访鲍尔廷,闻阴番在香港
积极备战,必欲消灭黄埔而后安,其将先毁坏长洲全岛而后制服政府,其计以为广东单独交
涉,不能与全国各省合作,故欲对广东政府单独开战也。仲恺不理校款,愤甚。在第一师部
讲演。
8 月 6 日 阴番之凶,汝果忘乎。
下午回埔,以仲恺不负责,故愤而辞本兼各职。
8 月 7 日 灭此阴番!
今日吐泻并作,几不能支。
8 月 8 日 不灭阴番,忝厥所生。
今日病未全愈,经儿与柄侄、祥甥到广州来省,心稍安乐,璧君来访,劝不能辞,余允
之。
8 月 9 日 阴番不灭,何以人为。
今日赴省准备经儿回沪。
8 月 10 日 阴番之仇将忘乎?
上午与仲恺访季兄及展堂,季陶来函攻击 CP 部甚烈。下午在省办公。晚鲍尔廷同志来
谈到深夜。闻中央银行兑现拥挤,心甚怀疑为内部之事也。
8 月 11 日 阴番之仇汝果忘乎?
今日在省办公兼休养病体,海军局长史米诺夫来谈。
8 月 12 日 阴番不灭,决无生理。
上午见汝兄后,陪经儿等照相宴会,下午在省休养。
8 月 13 日 汝忘阴番之仇乎?
上午回校理事,下午对第三期学生讲话约一小时半,以其明日欲出发旅次行军也,解释
三民主义,以民生为历史中心之定义,是始终立在革命地位,随时随地改革社会弊端也。演
毕办公,七时回部。洁如未回,心又燥急矣。
经儿今日与汪○侄等回沪北上就道。
8 月 14 日 阴番今日开沙面通西关闸门,其将对我挑衅乎?
终日在校处理公文,病院中病兵假条,今日批毕,如释重负,视病兵伤兵事比子侄事重
要倍之,带兵官并此而不为,则无良心之人,何能革命耶。下午朱益之军长来谈。此人诚一
血心男子,可与共事也。晚拟赴省访汝兄,劝其勿辞职。广东人心狭陋,内容复杂,安得中
师复生,革去广东弊端耶。夜访汝兄,十一时后睡。
8 月 15 日 阴番不灭,能安枕乎?
上午早起发气,近日性质燥急,怪僻已极。洁如耐性侍奉,毫无嫌恶之心,亦可恕其过
去之事矣。往访季新兄,再访展堂兄,为彼与汝为兄意见太深,汝则且有两不相立之心,故
劝展让步出游也。再访组安先生,复访汝兄,再访季兄。午膳后访仲恺兄,访鲍尔廷同志。
四时回新屋,与洁如○○晚回部。
8 月 16 日 阴番之仇果忘乎?
上午办事几无暇昝。下午记事,改正讲演录,鲍尔廷来谈约三小时,六时后予之同赴省
城,晚仲恺、东臣来谈。
性燥心急,非宽容闲雅,恐诚疾病以后,以宽裕温柔四字为待人自待之道,勉之。
8 月 17 日 阴番不灭,无以实行主义。
早起外出散步,回寓写信记事,访汝为兄,往司令部部务会议讲演办事之法,以时间与
数目为最要素,以科学方法、组织系统、条理秩序为惟一方法,其次则为演绎与归纳二方,
亦应注重,约演二小时,不觉其口破唇焦也。下午看拿破翁“莫斯可”章完。往访益之总司令,
99
视察师司令部,晚往访汝兄,仲恺来谈主义,十时半睡。宽裕温柔,足以有容也。
8 月 18 日 阴番不灭,决不使广东经济独立。
六时前起床,记事。七时到北校场检阅步兵第三团。十二时回寓。见什物布排不好,大
斥洁如,气煞半天。此以昨夜睡眠时间不足,以致今日精神散漫焦燥也。下午看拿破伦数页。
访汝兄。与仲元夫人。晚早睡。宽裕温柔之箴,未稍遵行也。
8 月 19 日 阴贼不灭,焉能安枕。
上午检阅第三团,学科成绩不如第四团也。下午访汝兄后,回黄埔。晚在校办公。九时
回部。
8 月 20 日 廖党代表为阴逆走狗谋害。[按毛本党政篇改为刺廖紧突然发生,必为英虏
狗阴谋无疑。]
在校看学生反对共产党学生函件,心滋不悦。想与之讲演时,适接电话谓廖仲恺兄在中
央执行委员会门前为凶徒狙击殒命,不胜悲痛,几不知如何是行,即赴省公医院吊唁,目如
雨下。下午开会,命汪许及余三人组织特别委员会,授以政治、军事及警察权,而应付时局
也。
8 月 21 日 阴逆不灭,死无日矣。
上午往公医院殓廖先生,再至中央党部,下午在军部开特别委员会对付时局,研究廖案。
经济困难已极,幸有中央银行接济,心稍安定。
8 月 22 日 阴贼汝果能败余乎?
上午访罗克觉夫同志,下午在寓开特别委员会,汝兄态度略佳,心甚安慰。
8 月 23 日 阴贼可恨可痛!
今晨召何师长王参谋长来寓,授其机宜,预定明日军事行动,解决时局。下午往组安处
会议,回寓,开特别委员会,痛陈利害,汝为兄似能动心也。议至午夜,以外交关系,欲先
与阴逆表示愿解决罢工案,免其干涉,故延改时期。明日不能发动也。
8 月 24 日 阴贼,我的同志为你谋害。
上午办事。访罗克觉夫同志。下午在寓开特别委员会,决定明日捕拿嫌疑犯胡毅、林直
勉、林树巍、赵士觐等。
8 月 25 日 阴贼之计可谓狠矣。
今晨捕获林直勉一人,其余逃遁。在粤军总部扣留谋叛政府之梁鸿楷,招桂章、杨锦尨
(meng 或 mang)、梁士锋等,发现英逆谋害政府以梁鸿楷为总司令,魏邦平为省长之大阴
谋,乃即宣布戒严,缉拿魏逆。下午会议军事计划,解散梁杨梁逆在省各部队 ,至夜四时
方得了事。张逆国桢亦拿获。自仲恺同志被刺以来,未有睡○○○○○
8 月 26 日 阴番汝计穷矣。
上午略休息,往总部议事,往二人请愿大会讲演。下午办公记事,七日以来今夜始得安
眠也。
8 月 27 日 阴番我必灭汝。
上午办公,会刘文岛等,往访汝兄。下午开会研究进行方针。晚会客,十一时睡。
8 月 28 日 阴贼犹未灭也。
会客办公。上午看各国革命史,往访汝兄,会余际唐军长。下午往总部欢迎俄国工党代
表及列宁号船员,晚十一时回寓睡。
8 月 29 日 阴逆不灭,何以立国。
上午会客,看书,下午会客,开特别委员会,晚十一时睡。
8 月 30 日 阴贼不灭,革命不成。
七时往第一师训诫官兵后回寓,会客,往访鲍尔廷同志,下午开特别委员会。晚十时睡。
8 月 31 日 阴番残暴甚于生番。
100
上午访组安、季新二同志后,往黄埔本校,赴廖党代表追悼会,下午办公,开追悼会。
五时后回省,访罗嘉觉夫同志,晚十时睡。静敬澹一之工未验也。
9 月 1 日 阴番专利用弱小民族自相残杀而彼乃从中取利也。
上午办公,往祭廖公灵柩,往访鲍尔廷同志,下午与季新谈天后休息少顷,开特别委员
会,议三事:一、财政问题用委员制,共同监督、强制解部,否则以武力讨伐之;二、东江
出兵;三、展堂行止问题。议至十一时散会。
廖公今日出殡,送者约五六万人,生荣死哀,盖如是也。
9 月 2 日 阴番之阴谋犹未已也。
上午往访璧君,回寓拟训令稿,下午开特别委员会,办公,今日骄矜暴戾之性又生,静
敬澹一之箴未有也。
廿五日在长沙击沉日本海军小轮一艘,死其水兵一名,伤二名,彼不敢提出抗议,以三
千金抚恤费了事。
议定以邓择如为财政部长,李子宽为厅长也。[按毛本党政篇改为李子宽为广东财政厅
长。]
9 月 3 日 本日罢工工人逮捕由港来省之阴番二名,坚不发放,可爱。
上午办公,会客,拟党军败亡预兆之训令,约千余言,手致刘、蒋两团长书。下午与鲍
尔廷谈天,三时往军事部开宴广州商人大会,余讲演一时余,颇动其听。据言商人叙会未有
如此次之欣喜情形也。九时后散会回寓。
暴燥日增,卖智好胜之心又起,戒之,毋忘。静敬澹一之箴也。
9 月 4 日 阴番提来军部,免其籍口,宜释放也。[按毛本党政篇改为:昨逮捕英醜二
名,拟予释放,即提至军部,处置一切,以免其藉口。]
七时致茂如函毕,往小北门飞来庙宪兵营,训诫官兵。九时回寓,十时赴黄埔,对官长
讲话约一时余,毕与展堂相见,为阴番事,即回省处置一切也。
9 月 5 日 阴番可杀
早起办公。上午回校办事。性燥心急,于人难堪,静敬二箴绝未注意矣。正午对官长讲
演约一小时余,下午对第二期毕业生讲演约二小时毕,往访展堂叙谈良久,乃决定宜接赴俄。
今日赴省矣,晚改正讲演稿。理事以避烦,不回省,特船回去送信,该船入夜至中流砥柱前,
遇有一拨十余人电船在中流相待,见我船前进,彼即跟踪追随,因见船中只有一当差者,故
未动手,是天成全我者厚矣。
9 月 6 日 阴番凶狠,不能不灭也。
上午在校办公,十一时行第二期学生毕业典礼。下午对全体学生讲演,认明帝国主义为
我们惟一敌人约一小时余,毕,改正讲演稿,见毕业优等生拍照,晚观剧。十二时睡。
9 月 7 日 阴番可杀。
上午改正讲演稿,办公。下午假眠后办公,看拿破翁五页。晚读古文。轻浮燥急辱骂部
属,毫无静敬澹一之工,品性日下矣。
9 月 8 日 阴番不灭,何以立国。
五时起床,巡查,上午办公,下午假眠后办公,看拿破翁十余页。晚回司令部读古文,
九时后睡。
辱骂部属殊失体统,静敬澹一之工未有也。
每日之事,自问有欺妄与愧祚之事否?日日以此相课。
9 月 9 日 阴番不灭,革命无望。
五时起床到校办公,讲演,九时搭江固舰赴省,舰中改正讲演稿。到省访季新兄,叹息
某公不明状况,把持财政,必欲限制本军之发展,殊为缺憾。下午赴北校场廖公追悼会讲演
半小时回寓,入浴,与鲍尔廷同志商议粤局,访总座汝兄,晚汪谭朱三公来寓议事。十时散
101
会。轻浮之病不除,静敬澹一之箴不行也。
9 月 10 日 阴番未逐,何以对人。
六时前起床,往访季兄,回军部办事。七时搭江固回校,舰中改正讲演稿,到校办事,
终日改正讲演稿。晚看拿破伦,十时睡。
怨恶燥急之病仍不能免,欺妄愧祚之心其未验乎,以后每日先看拿破伦,然后记事办公
也。
9 月 11 日 阴番谋我甚急也。
昨夜中霄起坐,不能安眠。上午七时到校办公,下午假眠后改正讲演稿,办公。晚在要
塞司令部看书。今日看拿破伦十页。欺妄怍愧之事仍不能免也。
午夜起坐不能安眠。
9 月 12 日 阴番谋我可不戒乎。
上午看将帅之拿破伦,下午改正讲演稿。季新兄来商议时局甚久,晚读古文。
欺妄愧怍之验甚少,静敬澹一之工未足也。
9 月 13 日 忘阴番之仇杀同胞乎!
六时前到校办公,九时后开第三届本校特别区党部选举大会,至一时散会。下午办公看
将帅之拿破伦第七编完。视察休养室,晚读古文静坐。
欺怍之心未绝,静敬澹一之工未完也。
9 月 14 日 阴番阴谋破我之计如此。
六时前起床,到校记事,办公,阅操,季新、真如诸同志来谈。下午罗克觉夫将军来谈,
看拿破伦十页。晚写组安总司令信,请其写先父墓誌及乐亭碑也。十时后睡。不自爱惜身体,
何以担当国家大事耶。
今日九时北校场第二团着火,焚○损失甚大,何天之磨炼英雄,必欲使之困苦艰难一至
于此哉?
骄淫不改,愧怍欺妄不能绝也。
9 月 15 日 阴番仇我更深。
六时后起床办事,八时到校理事,记事,看将帅拿破伦十页。下午罗将军来谈。程颂云
总司令来谈。看书。晚开区党部第三届委员成立会,九时回司令部睡。
欺妄怍愧,骄矜轻浮之病未除,沉润澹浑之工未验也。
碧君昨夜生子。
9 月 16 日 阴逆可灭,法美可恨。
六时前到校办公,致刘尧宸、何敬之、王东臣各函。上午批阅,看将帅之拿破伦十页,
下午与胡戆忱兄谈天,改正讲话稿,晚办公,十时后睡。
躁急忿恨,欺妄怍愧之病未绝,沉润澹浑之工未足也。
9 月 17 日 阴番毒计无时或已也。
四时醒后,思虑时局,决除障碍,以经济绝交之中,一般奸逆不易逃避煽惑,商人亦不
易动摇也,计划一切。八时回校理事。季新、任潮诸同志来谈大局,愤慨财政支配之不均,
汝为兄以万五千人而占九十万至一百万之饷,使各友军衣食无着,痛苦莫名,其忍心极矣。
下午与展堂兄谈天,回校改正讲演稿,批阅文牍,晚在司令部与展堂兄谈天。今日骄矜傲慢
轻俘之气甚炽,戒之。
9 月 18 日 阴番不灭,何能取消不平等条约。
五时后起床,回校办公,记事,看将帅拿破伦之第八编完。会客。正午对第五团士兵训
诫,人数已足,不胜欣慰。派该团往虎门也。下午会客,谈时局,拟致汝为兄函稿。晚对学
生讲演,为第六队学生梁田义受家庭经济压迫自杀也,晚九时前回部与展堂兄谈天。
今日忙碌终日,几无饮食暇昝。愧怍欺妄之机未验,但有忍辱而已。对汝为之事,可质
102
鬼神而无愧色也。
9 月 19 日 阴番之仇莫忘。
五时起床回校理事,改正致汝兄函稿。上午季新、任潮二兄来谈,下午改正讲演稿,各
部已如命出发完毕。予即于夜间十时回省,发汝为兄函,责其四事,与汝为兄谈电话二次。
其险狠极矣。复汝为信,终夜不能安眠。
9 月 20 日 上午会议,以汝为兄提出政治委员会[按毛本党政篇改为:上午出席政治委
员会议决汝为兄事]讨论完毕,准其赴沪养疴而彼犹欲保其体面,思求表白其财政舞弊并欲
以余信为凭,加余之罪也。晚汝为兄搭新华轮船赴沪。任潮来谈,十一时睡。
9 月 21 日 上午办事看书,下午会议军事财政诸问题,晚应鲍尔廷同志招宴,十二时
回寓睡。
9 月 22 日 上午办事会客,下午会议以军费过额报告毫无准备,致受人责言,不胜惭
愧,至夜心犹不安也。晚在校宴“阿司托拉享”船各同志。十时后睡。愧怍无比,不安极矣,
乃知权利之于人为不能忘之事,可叹。
9 月 23 日 阴番之仇不可忘也。
下午办事,记事,趁江固到省,下午往访罗克觉夫,到政治委员会,晚与季新兄在寓商
议一切。十一时睡。今日愧悔轻浮之行未绝,终觉心有所不安也。
9 月 24 日 阴番河南船今日到省,工人设法拒绝。
五时起床静坐后,复睡,六时半起床批阅,上午会客办公,下午[按毛本党政篇加写:
下午诣政治委员会]往访谭组安总司令,回寓会客,记事。组安先生来谈,罗克觉夫将军来
谈东征计划,○时与季兄在家谈论一切。十时后睡。
9 月 25 日 阴番骄横之极,岂可不灭!
上午改正讲演稿,会客,下午赴政治委员会,与陈真如谈话,晚宴熊克式总司令,回寓
与罗克觉夫论东征计划,十二时睡。
愧怍之心不能灭绝,精神有时不安,思虑散漫不能专一,当以沉润澹浑四字箴之。
9 月 26 日 阴番不可以理喻也。
上午改正讲演稿,拟东征训诫,假眠,下午改正东征训诫集完,会客,定出师计划,晚
入浴,睡。
愁闷迫促,总觉此心不能广大自由也,欺妄愧怍轻浮急迫之病未验,静敬澹一之功未全
也。
9 月 27 日 阴番助陈逆银贰百万元,枪万杆。
上午往访季兄,在湘军讲武堂讲演,往访熊锦帆不晤,往祝左湘芹老先生寿,往访朱益
之兄。下午办公,会客,晚往军部会议出师准备,至十二时后散会,一时回寓睡。
粤人不明革命原理之党员,多怀一种排外反党之心,令人嫌恶如此,何以革命也。惟有
侧身修行,舍命报国而已。欺妄愧怍轻浮之弊未除,沉润澹浑之箴未行也。
9 月 28 日 英番助陈逆飞机以攻革命军
上午记事,组安、益之二总司令来会,商议熊事,研究东征作战计划,至一时后决定下
午赴政治委员会,回寓,批阅,晚往政治训练班讲演,往访碧君,十一时回寓睡。
今日急迫轻浮疑虑忧闷诸几未绝,沉润澹浑之功未验也。
9 月 29 日 毋忘阴番之仇。
上午理事会客,九时搭车往石滩检阅第九团,成绩不良。下午至新塘检阅第七团及补充
团,成绩优良,至晚八时后回寓商议一切,十二时后睡。
9 月 30 日 阴番未灭,何以家为。
上午办事,会客,检阅第八团,成绩良好,商议作战计划,得到陈逆计划。下午会客,
休息,办事,各军纷纷请求饷弹,麻烦无以为计也。轻浮躁急,骄傲之病未除,沉润澹浑之
103
箴未验也。晚以敌情变化,商议计划,十时后睡。
10 月 1 日 阴番可杀。
上午理事,往司令部办公,会客,研究作战计划,下午假眠,办公,四时往第一师誓师,
大雨淋漓,各官兵群立静听,精神焕发,预祝胜利,可慰。晚往碧君姊招宴,久不食味,以
此为甘滋也。十时回寓,复经儿信,准其赴俄留学也。近日躁急蛮狠忧患过甚,宜戒之。
10 月 2 日 阴番不灭,何以革命。
上午理事,往访季新兄,到军部办事,下午与汪谭朱诸公协议一切,四时后往黄埔,与
学生过中秋节,训诫约一小时后回省寓,见客,月光朦泷。十二时后睡。四时后起床登屋观
月,青天一色,夜深人静,但闻四壁虫声唧唧,如助余之叹息。
忧患躁急甚矣。如此佳节良景,而毫无欢乐之意,国事凌乱,内部复杂,皆以一身当,
未知何日得息肩任也。
10 月 3 日 阴番之仇切不可忘。
上午理事,熊克武、余济唐来寓,以其通陈逆图倒我后方故扣留之,将其一班人员如喻
培棣等皆被拿获,搜索其家,得 许多证据,一枪不发而平此大难,人以我为凶,而不知革
命非严厉迅速不能彻底,国家扰乱至此,无非人无决心,苟且偷安,姑息善奸之过也。如有
人不顾利害做去,一切假革命党不难消灭殆尽,盖人心本弱也。以后联治派政学系或能息迹
也。午后解往虎门安顿。晚在寓。九时后睡。
10 月 4 日 阴番不灭焉能独立。
上午理事,往访益之兄、季新兄,再往军部办事,会客,下午往访罗克觉夫将军,回寓
办事,会客,商议解决川军计划,批阅,会客,晚记事,入浴。近日暴躁轻浮,欺妄愧怍之
病益炽,沉润澹浑之功未验也。
10 月 5 日 阴番犹不肯降我也。
昨夜十时到黄埔,阍者沉睡,久叫不醒,恨甚,中国人之如睡狮,信矣。动手又打人,
记大过一次。夜深月白,景静色清,司令部风景在粤诚不多见也。今日五时后起床,观月静
坐。上午往观休养室及公园,见卫兵皆睡,枪前哨无人,不胜愤恨,又要加气。目之所睹,
耳之所闻,凡有人事,无不悲伤,吾党如何能完成革命也。下午巡视,回校理事,四时回省,
以经费困难,不胜焦灼,晚访罗克觉夫,又访朱益之,与之换订蘭谱,回寓,与季兄谈天,
十时半睡。
10 月 6 日 阴番不灭焉能自由。
近日暴躁忿恨,褊狭惊怖之念不绝,总是静敬澹一之功未到也。六时起床,记事,上午
会客,访友辞行,下午三时后出发上车,洁如、碧君诸姊妹及季新、鲍尔廷,组安诸同志皆
来送行。车抵笔村,由湘芹带余、张、冯诸将士来见,心颇乐也。七时后抵石滩下,明见[?]
日各纵队出发○○乃集中○水、博罗鸭仔步淡水,八时后抵石龙,会客,十时后睡。暴躁疑虑
之病,终不能改也。
10 月 7 日 阴番何日可灭?
六时后起床,日升东方,云色似彩,精神为之一畅,近日急宜治暴,以恕与耐二字医之。
今日暴怒愤激傲慢轻躁,可谓已极。几视国人皆为可杀,风习已成,灭己之祸其尚能挽乎?
苟且推诿,无志无气,哀哉,民族至此,甚何以堪。今日第一纵队进至马嘶、联和一带,第
二纵队可至桥头圩、谢冈一带,敌逆尚无前进消息,恨不能灭此朝食也。致杨坤如电,以电
线不通未发。晚十时睡。
10 月 8 日 阴番不灭,何能独立。
早起训诫宪兵毕,致季兄函,电茂如函电,敌踪是否到达平山,谍报不一,以意度之,
尚未进也。思虑作战计划,下午送李任潮至樟木头站,车中看将帅之拿破翁,八时回石龙,
记事,写季兄信,本日前方可至龙溪、苏村、鸭仔步、新圩一线也。今日心气比昨日和平,
104
但对侍役仍怒目乱骂,不能戒正,客气要结之病,终未治也。沉润澹 浑之箴未验也。
10 月 9 日 阴番不灭,何以复国。
上午看将帅之拿破伦。下午研究地图与输送兵讲话,晚谈天,九时后睡。
今日心气较昨又躁,终不能以恕与耐二字治之,盖骄矜之气已深,如不守沉润澹浑之箴
则不可○○矣。
10 月 10 日 阴番我必歼汝
早起办公,以管理处迟缓,行李无人管理,又发暴气。上午九时由石龙开船,风急沙飞,
顿呈奇观。舟中看吴子完。看孙子七篇。看至虚实,不禁叹为观止矣。孙子论兵,非吴子所
能及其万一也。晚八时到博罗,入县署,与敬之等谈天。攻城部队已前进,迫近惠州矣。决
定调遣布置计划。十一时后睡。
佣工无用,不能如意,应该自动,以动气不如动力,反可增和气,而练身体也。
10 月 11 日 阴番之仇其将忘乎?
六时起床,为佣人蠢笨事不如意,又起暴戾,躁急如此,将奈之何。上午致汪李函电,
看孙子十三篇完。下午重看吴子。会客,理事,审定攻城计划,拟六言训诫及布告,以告敌
我二军士兵。第四军今日主力可达官桥,与永湖。第一师移驻博罗,第三师及第四○已逼近
惠城矣。今日性虽燥急,时○○○沉润渗浑之功终未验耳。交通不便,接济不灵,徒使愁闷。
10 月 12 日 阴番联陈逆以谋我。
上午会客,拟攻惠计划稿。十时后由博罗搭船至白沙滩,行进十里至第四团步兵阵地太
保山视察惠城及阵地毕,即至飞鹅岭以巡视阵地。旧地重游,总理已亡,不能复来,今昔异
感慨不置。半夜宿于岭脚之祖古庙门外。
10 月 13 日 阴番可杀而不可赦。
六时起床,准备上阵,往访谭师长,九时登飞鹅岭左山,选择炮兵阵地毕,再至右山炮
兵阵地指挥。正午敌炮对准余阵地连发三颗,皆头上尺许飞过,乃即变换位置,不免张惶,
事后不胜惭愧,自恃为生命置之度外,奈何胆小如此也,移至下山炮兵阵地观察攻击,炮击
有致,而西门第八团先锋队为障碍所阻总不○○,不胜焦急。及至六时许,有报告城上已○○○○
者,少顷又闻城内枪声,巷战甚激且缴枪之声历历,○○余以为必破城矣。七时后得何师
○○○○○○入城,而第四团长刘尧宸阵亡○○○○甚多,队伍几难收拾,不胜焦灼,乃回飞鹅岭麓
宿营,特令各部本晚夜攻也。是夜精神不佳,几难成眠。
10 月 14 日 六时起床办事,上午商议作战计划。余提出三案,一、集中兵力于惠州附
近,暂不向潮梅前进,专攻惠城,以待其援敌之来,一鼓扑灭之;二、左右两翼仍照预定计
划前进,而留第二纵队监视惠城,并留第四师助攻;三、以第二纵队及第一师由本山向海丰
前进,击敌主力,而留余部暂驻惠博之间。罗将军亦主速攻。复得何师长报告称第四团已决
定下午三时攻城,士卒不因官长伤亡之多而堕士气,殊出意料。真不愧为革命军矣。下午四
时十五分余在飞鹅岭右山炮兵阵地○北门城上已有军旗飘摇空中,乃知确实破城。三年来○○○
不破之天险,今竟平服于一旦,总理有灵耶,可慰 ?
10 月 15 日 阴番之仇其可忘乎。
昨夜回佛祖古庙宿营,致季新兄详函,十一时睡。今晨六时起床,致辞军长职,通电急
流勇退,不敢居右,以保我总理委托之明,不忝我父母此生也。九时入惠州城,绅商学工皆
出城欢迎,驻旧督办署,会绅商学界,委陈学基为惠阳县长。记事,办事之人不得力,到处
加气,令人闷损。数日以来,惟用人不能得力,几视中国人皆为可杀,以不生不死贻误国事,
不如杀之为美也。然而燥急已极,能不戒惧?下午会客。李任潮军长来惠,决定前进○○○○
有城急报称陈逆带北洋舰三艘在○○○○附近,拨兵数百,似有上陆,以图袭击○○○○○一团往
虎门增防。晚与罗将军○○○○○精神不足,而司令部人员无用,决意辞职○○○当胆碎乎?
10 月 16 日 六时起床,改正通电,会客,对四团官兵训诫以克城立名立勋,继续奋斗,
105
完成已死同志未成之事业,而刘团长尧宸之死难,克惠城尚不足以抵猛将之亡也,可○。正
午对总指挥部人员训诫,以本部人员太笨也。下午会客。四时开阵亡将士追悼大会讲演,晚
批阅,召集第一军团长以上官长会议,程纵队各部皆不愿与我[?]同行,又须另定计划。办
事如不公道,一失信义,必使人人○避也。本日沉浑澹润之未验也。
10 月 17 日 阴番国内海员大罢工。
上午办事,会客,往访程颂云纵队长回,假眠,下午办事,往访谭师长,陆副师长,游
第一公园及北门城楼,尸尸枕藉,臭气难闻,入城三日而炮击之,余尘犹未沉着,北门一带
民居破坏殆甚,陈逆凶横,延祸人民,可痛也。发辞军长呈电,与罗将军研究卸去军职事,
而彼极不赞成也。九时后睡。沉润澹浑,略能自勉,军事不成则败。趋于极端,未有平衡两
可,以图延缓而望幸成者,可以致胜也。
10 月 18 日 阴番不破,无以立国。
早起定应办事件表,致函电,发家信,研究作战地图,下午假眠一时余,往西湖,出平
湖门,搭船先游留丹,次游元妙观,衰败零落已极,复游百花州,与罗将军休息谈天约半小
时,游红棉水榭,毕,再回平湖门入城,百花州幽雅,水榭轩畅,正对西湖塔,然不能与西
子湘比其万一也。晚接省城电,南路江门陈铭枢告急,言邓本殷全部来犯,拟电复固守半月
以待东征军回援也。与任潮谈电话,十时后睡。
沉润澹浑之工未到也。
10 月 19 日 阴番勾通北段,竟以十万金悬赏执余。
今日心气略和,然愤怒仍不能断也。沉润澹浑之箴未守也。上午研究作战计划,余意以
主力由三多出紫金,捣河婆以图逆敌之后,及得报言三多祝已有敌三千余人,不胜欢快,以
埔心前方决战一切事皆易解决,惟恐其远遁,不能决战,致延时日耳。下午假眠后,由东门
登城,经南西北各城至公园,回署。北门炮弹毁坏,几无完室,而城楼尤甚也。惠州城墙之
固,城楼之高,余未之见也。晚会客。北江川军愿受归编矣。
10 月 20 日 阴番不灭,焉能解放一切人类。
今日心气较平,然倦时犹牢骚发气也。得敌方准报,其主力集中在紫金蓝塘一带,不出
余之所料。犹起矜持之心戒之,而调动部队及第二纵队,定明日向新安埔心进攻,恐中敌计
阻止,犹恐不及,焦灼万分。终夜不能安眠也。沉润澹浑之箴未履也。上午商议作战计划,
致训诫学生电稿,十时卅分由惠州出发,经惠阳县城出东门,经马鞍、平潭,下午七时后到
○山。七十里马路宽大平坦,稍修正可通汽车。路中看将帅之拿破伦十页。晚十时睡。
10 月 21 日 阴番畏我益甚,而谋我更急乎!
昨夜以军队布置未安,不能安眠,五时即起,与谭师长电话,令第一师派炮与机关枪各
一连至三多祝归三师指挥也。上午赤石电话通,与何师长通电拨付枪炮事毕,十一时赴农民
欢迎会,到者约千人,见我农民之乐,胜于胜仗几倍,不胜欣慰。余以革命军辅助人民,组
织强固之团体,而军阀则摧残其组织也。下午假眠,看将帅之拿破伦,得报第二纵队本日攻
击新菴,逆敌见我军前进,彼即溃退,第三师集中三多,第一师明日进攻梅陇,第二阶纵队
向蓝塘、紫金前进,以后或易于设施也。晚研究作战计划,十一时睡。
10 月 22 日 阴逆其畏而恨我乎
调拨部队与枪炮,皆能遵命照行,指挥不能不谓如意,岂有不致胜之理乎。昨晚起床听
电话二次,心固颇乐也。上午批阅,亲复函电,研究作战计划,下午假眠,看将帅之拿破翁,
四时出郊外往迎璧君来军慰劳。璧君骑乘至中途坠马,幸未受伤,而其痛甚烈,犹能乐快说
话也。晚与璧君谈天。得何师长报告,海丰已于本日五时克复,逆将谢文炳向陆丰逃遁。与
罗将军论明日处置,予必欲先清○尾,置兵一营留海丰附近,颇与其有讨论也。
10 月 23 日 阴番不灭,人类不平。
上午六时起床,记事,招待璧君上船,其伤势似颇烈也。八时后由平山出发,正午抵增
106
光附近乌石角,地势广阔,间有小森林,及小丘上土匪三五成群,竟敢开枪示威,闻其以专
劫饷弹为事也。在增光休息三时后抵三多祝,接李任潮军长报告,昨夜张发奎旅在安墩前方
老龙坪附近,与逆敌黎生部六千人激战,损失颇多,卒被我军击退,其余各部以地图不准误
事,相差至卅里之遥,故不能救援也。第三师已向龙窝前进矣,晚研究作战计划,八时后睡。
10 月 24 日 阴番之仇何能忘也。
昨日心气较平,然仍有暴戾之色。沉润澹浑之箴未守也。得程纵队长报告,廿一日得河
源城云。沿途人民欢迎,商贾照常更盛,惟此可以稍慰寸心耳。上午六时起床,处置一切,
见人面色,心殊不愉,而我之面色应自改善也。九时由多祝出发,下午五时到达埔心圩,山
景奇特,观览生感,而民情淳朴,老幼环集周围,对余谈笑尤为欣慰。途中见八十老人,清
秀出群,对余和○致敬,更为欣慰。轿伕担伕无教育种种恶态,电信队缓不济急,见之发恨,
又起华人应灭之念也,晚调查路程,十时睡。
10 月 25 日 阴番派魏逆邦平扰我南路,逼近江门。
五时前起床,致李、何、胡、汪函电约十余通,处置一切,八时由埔心出发,经李坑屯、
鲤鱼坝即宝溪口、猫公峰、马头山以至禾多布,约行八十里,山路虽不高,然甚坎狭不易行
也。自鲤鱼坝至禾多布,名为四十里,其实足有五十里也。十万分一地图以宝溪在西北,鲤
鱼坝在东南,相差几五六十里,广东测量局之不可靠、延误军事计划至大,殊可杀也。不然
第四军可不经宝溪,直由蓝塘达紫金矣。晚六时卅分到禾多,布定作战计划。廿四拂晓以前,
逆敌又敢反攻海丰,幸我军有备也。
10 月 26 日 阴番之仇,其能忘乎。
五时起床,六时由禾多起程,拟至紫金也,经黄草峰(双门峒)山路约卅里,一时半到
龙窝圩,与李任潮军长商议作战计划,余主张第四军全部调回南路,而以第十一师暂缓出发,
以备不虞,决定后,任潮赴紫金,余即留驻龙窝处置一切。得谭师长由华阳来报,逆敌在塘
湖一带筑垒以备抵抗,余以为其后卫部队掩护主力退却,○○意以为逆敌退去,除守兴宁外,
决无在途中再致反抗之理,亦不研究其抵抗线以何地为宜,轻敌必骄,而不知第三师败也。
机即伏于断也。以后对于作战,应得两大教训:一、兵力务须集团,不可○○○人以下必可作
一路也;二、注意敌军败退之抵抗线。
10 月 27 日 今日第三师之败,虽战斗无力,我以三千之众而当敌万余,余寡亦太悬殊。
五时后起床,致李任潮及各部函电,八时出发,由龙窝经黄田,二时半抵羊羔圩,接谭师长
告急之函,进至大坪,又接阵脚动摇,乃略与罗顾问详明情况,余即前进至里圩,见败兵纷
纷退来,力经镇压尚能停止,少顷,退兵更多,遍山遍路奔逃,虽枪毙一人,亦不能止其溃
退,然各兵见枪毙一人,皆恐慌不敢退后,足见带兵非严不可也。余待部队退尽,无法留后,
明知敌弹对我击,而其决不敢来追,故与罗将军退至羊羔,幸有农民带路,不致差误,司令
部所有物品均被溃兵沿途抢罄。第三师平时之无训练,可恨也。夜与罗将军论敌人今日必退,
彼亦以为然也。
10 月 28 日 阴番可杀
昨夜住于羊羔圩彭家,幸主人招待殷勤,然终夜思虑,不能安眠。明知逆敌决不敢穷追,
而心犹不安,败仗对于精神之影响如此也。五时半处置妥后,交待谭师长毕,由羊羔出发,
经流坑、秋溪以达岩前,约六十五里,途中步行骑乘,甚觉疲劳也,二时到达岩前,知李任
潮昨日已由紫金回省,不能面唔,其军队仅留第十一师,幸已向华阳出发。一日疲劳,徒致
跋涉,自愧决心之不坚也。得廿六日何敬之由河婆报告,知其已到河婆,并悉黄逆在安流,
以为其必向安禄流前进,必稍安。犹恐以委其代理潮汕督办,命令太早,致其不顾安流逆军
○○○○各个击破也。调兵散漫,联络无方,不胜自愧 ,后当戒之。
10 月 29 日 阴番阴使魏邦平、袁带周○○○我顺德中山。
五时起床,以副官处不能尽职,毫无组织,且不热心,愤激不堪,痛骂王文翰一场。七
107
时半方得由岩前出发,看将帅之拿破伦,至下卷五百零一页止。途中得各方报告,知塘湖、
梅林一带逆军已退,又恐其向河婆攻我主力第一师,心更不安,故兼程向前,四时到达华阳
圩,知陈师已向塘湖,冯部已向安流渡前进,心虽稍安,而总忧虑其追击不力,被敌各个击
破,连夜下命令促其利用月夜急进。晚观察华阳地形,乃一小平阳也,人民数百家,西有大
坪,约数百家,农民对我甚表好意也。与罗将军月下山上卧地谈战场之乐。
10 月 30 日 阴番仇我之心犹来已也。
六时后起床,得冯轶裴报告,昨夜犹宿营梅林,而未进安流渡,得陈济棠报告,亦宿于
塘湖,犹未进至黄沙,并言逆军集中罗径约万人,犹恐被其各个击破,不胜忧虑,及至十时
许,得第三纵队报告,廿八日可达五华城云,乃知逆军二十八日退向罗径坝、汤坑方面无疑。
虽未得冯部报告,此心稍慰也。与第八团官兵讲话毕,假眠,下午记事,与罗将说明罗径坝
逆敌必退理由,与谭师长谈指挥军队单位不可过五位理由。与第七团讲话毕,回宝林寺行营,
得报知罗经坝逆敌果退,此心稍慰。然经此一战,惊心犹未定也。晚○○
10 月 31 日 阴番使魏逆谋我南路更急。
六时起床,致季兄告捷电,逆敌林虎、李易标、刘志陆所部,所谓三黄之主力部队完全
已为我军击破,彼始以廿七日击退我第三师后想转河婆与洪逆击我第一师、嗣以洪逆退棉湖,
而其主力到达七岸輋(she)径,遭遇第一师,而第十一师又由塘湖、黄沙龚其右侧,故其于廿
九日退回罗径坝,卅日上午退在双头附近炊事,而我第一支队复由安流袭击其双头之前,除
黎生、张化如二逆部漏网以外,其余完全为我缴械,约五千杆,炮五门。前来作战,未有又
此次之痛快也。八时由华阳出发,经琴口、梅林经板坑小道约八十里,六时到罗径坝,宿营。
11 月 1 日 阴番谋我南路,得廿七日电,香山各县亦失,形势紧急,然无妨大局也。
昨夜第一支队张和司令派人来报告,缴得敌械四千杆,炮三门,机关枪廿余挺。拟以此
○俘虏与枪炮补充该支队,希图扩张,恢复粤军也。余不准其请。以俘虏补充士兵,不胜危
险,惟准其枪械暂由其自管而已。今日恐其为此退留安流,编配俘虏,扩充军队,妨碍大局,
余乃改程至安流,催其前进,并收集俘虏,点验枪械。十一时到达安流,果有如所料,而彼
见余来,方准备出发,点缴俘虏,输送枪械,否则彼必逗留安流,编配俘虏,无意前进矣,
余候至五时,待其出发后方起程回罗径坝。时已九时矣。即睡。
沉润澹浑,未验体力疲倦而精神焕发也。
11 月 2 日 阴番可杀不可赦。
六时起床,记事,七时半由罗径坝出发,经七輋径、横江至河婆,沿途男女老幼观者如
睹,道为之塞,胜于单食壶浆矣。凡至忧虑患难之时,惟见人民安居如常,欣喜现色,聊可
自慰,虽至败仗,心犹安然,以有人民为我后盾。廿七之夕如无人民乐于向导,则不知如何
结果矣。此次作战,身体较苦,而兜截逆敌主力殆尽,未有如此之痛快者也。二胜一败,小
败而获大胜,其味过于百战百胜也。此次作战,每为敌军所拘,而不能自由如计,且兵力分
散,不能集中致胜一点,皆比上次不如也。
11 月 3 日 阴番害我国家,至此能不痛心?
昨夜闻俘虏及战利品解到河婆,心略安。饷项至今日已竭而复解到,可知经费用之不尽,
决无穷竭不济之时。此一经验也。得省电称,南路逆敌全数溃退,前报失恩平、新兴、香山,
其势岌岌,而今竟为我军击退,亦一快事也。与罗将军论进取闽南事。本日五时起床,复函
电,七时由河婆出发经下罗打尖,十三时到达鲤湖,与普宁揭阳直通电话,第一师已到揭阳,
而潮汕逆敌闻于今日已完全向饶平、黄冈退却,其在边境或尚有一仗,以决定最后运命乎。
到鲤湖休息。本日○○○○○○○性也。
11 月 4 日 阴番不灭,人类决无平等之日。
昨夜看新社会观。今日五时起床,看将帅之拿破伦,八时由鲤湖出发,市人观看如堵,
沿途人民欣喜往来,安若无事。于此实足自慰也。途中看拿破翁。十四时到普宁城,沿途男
108
女老幼欢迎之状,实难形容[按以下四行不清]罗顾问○谈善后事宜。以冯玉祥无消灭关外○○
之勇气,必须我革命军接战,方有肃清希望之言自诩,不胜自惭,言不能谨,容不能润。以
后骄气日张矣。戒之,八时睡。
11 月 5 日 阴番不灭,中国焉能独立。
本日第一师入驻潮州汕头。
潮汕逆军三日完全退尽,闻向饶平退闽南也。六时起床,复颂云、伯南各函。八时电普
宁出发,七时即过广大圩,一路人民观者如睹。自○战争以来,未有如此次之欣乐也。途中
阅报,看将帅之拿破翁,思索北方奉直之争[按以下五行不清]。
至家书,画武岭学校图样,与罗将军谈军队整理事,晚九时睡。
11 月 6 日 本日余抵汕头。阴日帝国主义受一极大打击也。
六时后起床,邵力子秘书长到部,叙谈。八时半由揭阳出发,发舰途中,看将帅之奈波
翁完毕,甚佩其积极的精神,至老不灭,而其败于傲慢与不知足也。十三时到达汕头,各界
竭诚欢迎,得未曾见,可知人民生活日殷也。驻盐运署,不禁有今昔之戒懼也。致季新兄函。
会客,笔记奈波翁战略要语。谢文炳来电乞降。可恨。福建派兵入粤助逆,今残逆入闽,又
为收客,应急袭也,徒以闽周与孙传芳讨奉,为我军同情,故不愿乘虚略取,乃电其代缴残
逆之械,允则和平,否则难免战端也。
11 月 7 日 本月三日阴番犹唆使莫雄部在新圳附近拢我防地也。
六时起床,摘录奈波翁战略要语。上午会客。十一时赴欢迎会,到会者工学界最多,约
有万余人,巡行长径与时间足有一时余。阴日帝国主义者观之,其将寒心呼?革命军在群众
之基础○固,实堪自慰。下午致静江、蔼士各函。致学生电,勉(原文‘曰’字下面‘助’字)其
勤学。[按毛本党政篇改为:致学生电,助其专业求学,毋为人利用才卷入竞争漩涡也。]晚
庆祝苏俄革命八周年纪念日,各界来宾到者甚众,商会长徐子查亦到,此为各处所罕见。可
知群众对革命倾向之心理,非昔日之薄弱可比也。讲演约一时余,会毕,致电苏俄政府祝贺,
十二时睡。
11 月 8 日 阴番气怜可恶也。
晨起静坐,骄侈忌嫉之机未除也。昨日击佣人,极恨国人之愚钝,奄奄无生气,暴戾非
常也。记事。近日淫欲复起,戒之。暴燥不戒,必有祸害。沉润澹浑之箴未行也。上午会客,
致季兄函,开本军整顿会议。日本领事内田氏来会,下午三时由汕头搭车出发,五时抵潮州,
到站欢迎之民众万余人,道为之塞。驻涵碧楼。看报反对派造谣忌功,无所不用其极,以攻
惠时俄兵死者三百余,又云骆风祥等内讧之○○○○射影无风起浪,何曾有一俄兵耶?
10 月 9 日 阴番不灭,国无幸存
[按首数字被贴]暴性未减,沉润澹浑之箴未证也。上午会客,外出购书,并观察民情,
商户乐业、人民熙熙可爱也,惟警察甚少耳。[按毛本党政篇在此加写:时第二次东征奏捷,
驻节潮安。]下午赴欢迎大会,各校学生皆到,心殊乐也。各界在涵碧楼设宴,余以热心党
务,尽力建设助(原文‘曰’字下面‘助’字)各界也。晚登西湖山关岳庙,驻宿也。与罗将军
谈天,看太戈尔传,十时后睡。
11 月 10 日 阴番不灭,主义难行。暴戾疑虑之病不能除也。
昨夜甚觉安眠。朝醒[按此处被贴数字]起床,记事,程颂云纵队长来会。九时训诫第二
第三团官兵毕,发闽周属其解散陈逆在闽之残部通电。下午对各乡来潮欢迎之农工学生讲演,
游太和观、老君洞、吕仙洞等胜景,其岩石之壁立,雄状可爱,此乃为潮州西湖山之第一景
也。晚看列宁丛书第五种,其言劳农会与赤卫军之组织与新牺牲之价值,帝国主义之破产原
因,甚细密也。十时半睡。草宣传敌方及训育士兵之标语数十条。
11 月 11 日 阴番必灭。
六时后起床,续草宣传敌方标语,记事。拟函电各稿。上午与罗将军商议整顿军队、建
109
设政治事毕,会客。下午往开元寺对各校学生讲演约一时余,五时回关岳庙,晚看列宁丛书
第五种,十时睡。
色欲暴戾,骄矜浮躁蛮横之病未绝,沉润澹浑之箴未行也。
问各部伙食统计数,函孙贸瞻,令程追击道路。
11 月 12 日 阴番不逐,何以立国。战史材料,文集材料,射[?]罗坤
上午撰《军人精神教育标语》,同罗将军等往游韩山及湘子桥,回寓看太戈尔传。会客。
下午看太戈尔传,会客。闻俞镇○在平海为土匪所戕,不知确后,甚念。晚宴第一师各官长
于廖家祠,讲演一时余,十一时回营睡。
暴躁色欲嫌恶虚伪之病未绝,沉润澹浑之箴未行也。
太戈尔以无限与不朽,为人生观之基点,又以爱与快乐为宇宙活动之意义。列宁以权力
与斗争为世界革命之手段,一以唯心,一以唯物,○○学言,则吾重精神也。
11 月 13 日 阴番不足虑,虑吾人不能自强。
上午批阅,复电,看太戈尔传,与罗将军游太和观、小函谷诸景,其岩石之大而险,令
人可爱也。下午看太戈尔传。假眠一小时。往金山中学讲演,晚九时回关岳庙,与戴立夫谈
天,十一时睡。
近日心绪躁急,以为他人不能信已时遂嫉忌,因之愤恨,此正可观察对象,磨练身心之
资,而且借镜自鉴也。
11 月 14 日 阴番藉口以汕头有疫,使封锁我交通也。
上午批阅、复函电,与罗将军商决对闽缓进。游公园,与青天白日古跡,下午由潮州搭
车○汕菴埠车站,欢迎者甚众。到汕入署,事无调理,不胜愤恨。办事员之懒惰,殊足令人
灰心也。入浴。阅批。晚宴俄顾问演说。十一时毕,睡。
暴戾躁急,蛮狠怨恨之病未除,沉润澹浑之箴未行也。
程颂云、轶斐各电,定对闽方针,处置军队。传[?]颂云为军长。
11 月 15 日 阴番其畏我乎。
上午拟颂云电稿,会客,与罗将军讨论对闽方针,彼主缓进,以其不熟情形○○○假眠二
小时。看报说俄顾问乘○○○行,本日起汕头各界庆祝本军胜利,异日商界以自动的捐[按以
下数行不清]
11 月 16 日 [按此页基本看不清]午夜与诸同志。。。视察民众心理,出于自动,殊难得
也。
11 月 17 日 [按此页基本看不清]
11 月 18 日 [按此页基本看不清]送罗将军行。。。几欲杀人也。
11 月 19 日 阴番其将以阴谋来愚弄我政府乎。
上午批阅,办公,会客。下午会客。程颂云纵队长到汕,我第三纵队自动的○○○定漳州,
张毅复电赞同前[按以下数行不清]
11 月 20 日 ○○○○与程颂云纵队长谈天。致季新兄长函[按以下数行不清]看颜氏家训。
11 月 21 日 阴番不灭世界革命难成。慎独则心安,去人欲存无理。
上午致季新、子文二兄书,会客,办公○○○○顾问议事,下午会客,批阅。○○○专车抵
潮州,驻关岳庙。晚读古文,列宁丛书,其言权力与联合民众为革命之必要,又言联合民众
以主义的感化与训练为必要的手段。皆经历之谈也。十时睡。
11 月 22 日 阴番恶焰方张,不多轻亲,徒希其国内革命也。
上午○○○宴俄国同志演词,办事。下午看列宁丛书。假眠。同洁如往游太和观,观后岩
石间榕树之大,过于太和○○○之树,此二树皆在千年以上,诚可爱也。晚批阅,读原道篇,
十时后睡。
骄矜浮躁之病未绝,沉润澹浑之箴未行也。
110
11 月 23 日 阴番之毒不可言喻
上午拟兴办地方事业稿,批阅函电。下午假眠后,视察野战病院,窳败污秽已极,伤
○○○已极,饮食不时,看护无人,院长只○○○○无人,心恨极时,几欲杀尽军医,不足抵其
贪劣之罪也。鞭敲二下,实在不忍也[按以下数行不清]
11 月 24 日 (此页不清)[按毛思诚本党政篇载:闻关税会议通过于千九百二十九年以
无条件承认中国关税自主,以革命地位稳固也。]
11 月 25 日 阴番可杀。
上午拟令稿。处理公文毕,参加潮州祝○大会,讲演,在涵碧楼观群众游行[按以下数行
不清]
11 月 26 日 阴番不灭,何以○○
[按本页模糊不清]
11 月 27 日 阴番之仇岂可忘乎。
上午张○五等来见,陈师长伯南、蔡顾问亦来也,与选送独立第二师官长讲话。[按以下
数行不清]
11 月 28 日 [本页不清]
11 月 29 日 [本页不清]
11 月 30 日 [本页不清]
12 月 1 日 阴番不灭何能独立
[本页不清]
12 月 2 日 阴番何能灭之。
[本页不清][按毛思诚本党政篇:下午闻本党捣乱分子,在北京召集第四次中央执行委员
会宣传驱逐鲍尔廷,开除共产党员,移中央委员会于上海,取消政治委员会。现因北京政府
变动,投氏濒倒,冯民继政。切不能张动。行将无形打消矣,可痛恨也。]
12 月 3 日 阴番犹未灭也。
上午看书,批阅,会客,下午有学生十余人,同第一师政治部主任李侠公来部, 告发
李之对“共产党报告”言四团都非同志,以此语激成本党党员愤慨,怂我监视,以其为政治部
人员,带兵官不能干涉,惟云以严办了事。近日共产与非共产之争,几使本校本军内部分裂,
可虑也[按毛本党政篇:后患正长也。]。
12 月 4 日 阴番之仇,其能忘乎?[本页大部不清]难成大事也。今日为共产党与非共产
党事又来纠缠,欲继承总理遗产而不认总理为总理,天下宁有是理耶。
12 月 5 日 [此页不清]
12 月 6 日 ○○○○○○我今日答谢潮安各界祝捷大会○○○与此行而已终。在涵碧楼拟第三
期本校同学录序约数千言,犹未尽意,○○○提灯大会,观血花剧社之还我自由,○○解释剧中
意义。
12 月 7 日 阴番之仇不可忘也
上午批阅,办公,会客,下午看书,致敬○○书,晚观剧,十二时后睡。
12 月 8 日 上午○○文稿。下午为共产主义与国民党内部纷争关系,召集政治部与党代
表讨论团结办法,余以无法中提出办法二项:一、校内准共产党员活动,凡有一切动作均得
公开;二、总理准共产党员跨国民党,而未准国民党员跨共产党,然亦未明言其不准,现在
本校亦不禁止国民党员加入共产党,惟加入共产党者须向特别校党部声明请准也。众亦以此
较为妥善云。
12 月 9 日 [本页不清]
12 月 10 日 [本页不清]
12 月 11 日 阴番之仇其能忘乎。
111
三曰求仁则人,悦民胞物与,宏济群伦。
上午批阅办公,十时由潮安出发至○○○○第九团至十四时半入镇○○○○○迎者五六千人,
道为之塞,所到。。。无不如此,可知民众对于革命已觉悟,非昔日之比也。
12 月 12 日 阴番可痛。上午会客,办公,十时由汕头搭轻便车正午到澄海,点验第七、
八团名并到城毕也。四时半入城,应各界欢迎○○○盛满○灯彩,极热烈也。六时[以下不清]。。。
兆麟为船上工友在沪击毙。
12 月 13 日 阴番不灭不已。
上午会客办公。批阅,薙发,下午应俄○○○○之宴,回营,假眠,批阅,读史○○○○船员,
十一时后睡。
12 月 14 日 [本页不清]
12 月 15 日 阴番非灭不可。
上午拟电稿,会客,十时由汕头搭车至浮洋,统裁第一师野外对[以下不清]
12 月 16 日 [本页不清。]
12 月 17 日 阴番可杀。[本页不清。]
12 月 18 日 阴番不灭,革命不成。[本页不清]
12 月 19 日 阴番之仇不可忘也。
上午批阅,办公,会客,读项羽本记赞,○○○○会议毕,医牙,晚读古文,批阅。(以下
不清)[按毛本党政篇:十月间,广州开边界被压迫民族联合大会,足证中国已成为世界革
命之中心地点。]
12 月 20 日 [本页不清。毛本党政篇记:晚宴奥尔根同志等,余讲演不能救世界革命
党就不能救中国革命党。听者甚以为然。革命是苦痛事,惟见各国同志来华日多,及青年学
生奋斗不已,二者为生平之乐事也。革命程序无器测量,惟同志来者之多寡能知其成功迟速
耳。]
12 月 21 日 ○○○○恩怨恨正盛,色念未绝;沉润澹浑之箴未行也。
上午,读古文,批阅,会客,致○○函[以下不清]
12 月 22 日 阴番○暴已极,未有不为吾党所灭也。
[本页不清]
12 月 23 日 [本页不清]
12 月 24 日 [本页不清]
12 月 25 日 阴番不灭,世无天理。
[本页不清]
12 月 26 日 一年将到,阴番如故也,可不自愧薄弱也。
上午办公读史记,分配被服,批阅公事,下午假眠,往监绥靖委员何应钦宣誓训词,以
造成廉洁之军队,方能造成廉洁之社会为主旨。[按以下不清。毛本党政篇载:闻汕市查获
鸦片十五万两,足见澄清有望也。末句 毛本改为国内政治之澄清,于此渐见曙光矣。]
12 月 27 日 阴番横行如昔,此一年中革命之奋斗不能算有效也。
上午拟离汕训令稿[按以下不清。毛本党政篇:往汕头市党部讲演。]
12 月 28 日 阴番不灭,何以立国。
上午批阅,办公,十一时由汕头起程,一时到澄海,宴第三师[按以下不清。毛本军事
篇:官长,训诫。晚八时后回汕头。豫定明年八月克复武汉。毛本党政篇:晚得季新兄电称
孙文主义学会将于二十九日示威行动,宣布西山会议传单。王柏龄糊涂至此,可恶殊甚。严
电阻止,不知有效否?
12 月 29 日 阴番之仇其有报乎。
上午办公,会王季文,孙传芳之代表也。[按以下不清。毛本军事篇:孙传芳之代表也。
112
十一时由汕搭车赴潮安,对分校员生训诫约一小时毕,下午往问伤病兵毕,五时由潮搭车回
汕。晚宴会,召集干部会议。离汕后处置办法。十一时上意利民舰回省垣]
12 月 30 日 [本页不清]在船上。。。
12 月 31 日 阴番仍未灭也。
七时船抵虎门,即搭江汉舰进黄埔,十二时入校,下午在要塞司令部休息。纪山嘉、罗
茄夫来谈。本校欢迎会,受纪念章。○○○抵省,访季新兄谈。
113
1926 年
1 月 1 日 与冶诚纬儿同床。[此页难以辨识。毛思诚本党政篇:昨日归自汕头。上午
九时,往中央党部,参加本党第三(毛本改二)次全国代表大会,开会典礼毕,阅兵。簇队
巡行群众约十万人。为孙文主义学会事,痛诫惠东升等。]
1 月 2-6 日 [原件损坏,难以判读]
1 月 4 日 阴番犹未灭也。
1 月 6 日 阴番横行如故也。
1 月 7 日 阴番可○○
上午○○○○与静江兄谈天。接见美国新闻记者,约谈两小时,痛抵美国外交政策之错误
及基督教的虚伪,下午应军○○问题重在全民武装,官长○○○○○取消军备,完全从事于生产
○○○纳也。○○○来访,余○○○○○昔日骄矜,今日谦恭,反增汗颜。晚请○○兄食蛇肉。孙夫人
到粤。
1 月 8 日 阴番又想联和
上午会客,批阅,往访孙夫人未晤。往访鲍顾问,询其冯玉祥四日下野通电之意义,余
以为日本使段、吴、张与岳孙合作以抗冯而对俄,故冯下野也。季新以为冯对岳孙不愿合作,
以其欲统一北方故也。余首肯焉。晚往访孙夫人,回与碧君散○。
忿恨色欲诸恶未改。沉润澹浑之箴未守也。
1 月 9 日 上午批阅,与鲍尔廷、奥尔○○谈天,季新兄○谈。下午批阅,○○○江兄来黄
埔○○览长洲,○景一周依然如故,○○忿恨,诸过未改,沉润淡浑之箴未守也。人才缺乏,事
务纷繁,责任重大,○○○○问无穷,人心卑污,习俗日下安榻○○有个头绪也。
1 月 10 日 阴番其有灭乎?
上午读史记,谈天,下午会客。○○○○○晚在校宴请全国代表大会,演讲至十二时散席。
冶诚狡○不改,使人忿恨,回想○○○○○不禁痛心欲绝○○○○○。……未改,……未守也。安○
死○○怀,惟冀挽回,○○之砥柱,谋矣。……
1 月 11 日 阴番尚未○○○
上午批阅,办公,作纪念周,说明纪念周之意义,毕,办公。下午假眠后,思索战略,
先统一西南,联络东南,然后直出武汉为上乎;或统一湖南,然后联络西南、东南,而后再
问中原为上乎?其或先平东南,联络西南,而后再问中原乎,殊难定也。哲生由沪来谈调合
本党内部方法,余思西山会议,不提于大会,或竟保留至第三次大会再决也。晚对第三期同
学训诫。忿恨、色念诸过未绝也。
1 月 12 日 阴番之仇已报乎?
上午改正宴会全国代表大会讲演稿,下午假眠,会客,批阅,晚宴请俄顾问蔡力伯洛夫
饯别也。会议对第二次大会提案及选举名单。一时后回部。忿恨○○○○○○。○起怕劳○○○恶,
如不猛省,失败即在,○○○,对党对国,何以对总理与已死同志。
1 月 13 日 阴番未破,何以家为?
上午八时到校办公,下午在校点第三期学生九百名毕,四时半回司令部谈天,散步,茂
如来会,以其心术不正,败校风,愤恨异甚,尤加面斥,无奈太甚乎?时后悔愧无已。晚讲
演一小时半,九时后回部,食蛇肉。
愤恨辱骂,色念悔愧诸恶未改,沉润澹浑之箴未守也。
谁人可侮,灾必逮身,戒之。
1 月 14 日 阴番何时得灭?
上午八时后,到校,批阅,对三期学生训诫约一时半,下午批阅,回司令部,假眠后,
与静江兄谈天。晚读史记高祖功臣年表序,记事,十一时睡。
114
1 月 15 日 上午○○○到校,改正慈庵记,办公,看曾胡治兵语录,准备讲义。季山嘉
顾问来谈,下午予之谈政略战略,谈至五时方毕。准备讲义,办公,晚讲演约一时半,九时
回部,晚餐谈天,读史记。
忿怒横暴傲慢媿悔,欺诈色念,诸恶未改。沉润澹浑之箴未守也。
1 月 16 日 阴番之仇已忘乎?
上午在校办公,会客,下午在司令部休息,四时后回校办公,晚训诫,九时半回部,
十一时睡。
1 月 17 日 阴番之仇未忘也。
上午批阅,季新、璧君诸同志来司令部,朝餐后往校,来宾已来矣,十时后行第三期
学生毕业典礼,孙夫人与其妹亦到,一时训词毕。会餐。下午送客,再对学生讲演一时余,
陪客,倦极矣。晚与静兄谈天,失○○智弄巧,自失信用而已。
忿怒色念欺诈媿悔诸过未改,○浮妒忌傲慢诸恶尚少○○
1 月 18 日 阴番之仇其忘乎?
上午参加本校纪念周训诫约卅分时,以本校历史喻先慈养我之苦况,不觉泪下心伤。训
毕,批阅,会客,办公。下午由黄埔与静江兄搭船回省,见办事○污秽糊涂,人员推诿,不
负责任,痛恨○骂,回寓,门禁不严,愤慨横暴更甚。晚改正文稿。
忿怒色念欺诈媿悔诸过未改,○浮妒忌傲慢诸恶尚少○○
1 月 19 日 阴蕃可恨
上午改○○○会客。横暴不成状,如不戒,必有后患也○。哲生兄来谈。下午季新兄来,
别后假眠。晚旁后来谈时局,对罗季等主张与行动,心辄不乐,我以诚往,彼以诈来,非共
事之同志也。晚静江兄谈天。今日本党第二次全国代表大会闭会,余以脚痛心闷未出席。今
夜郁郁,几不能眠。凡事至欲罢不能得之时,是诚乃反遭疑忌、机刺,惟有以诚字当之。
暴戾忿怒色念媿怕诸恶未改,沉润淡浑之箴未守也。
1 月 20 日 阴番不可赦!
上午批阅,改正文稿,会客。十一时约同季新兄全家与静江兄等往游黄埔之东南海神庙,
土名博罗庙,五时后回省寓。晚与季新兄往访鲍尔廷,予之谈,非诚不能共事,彼甚开诚。
一时回寓睡。
抑郁愁闷,今日为最忿恨。色念欺妄○○未绝也。沉润澹浑之箴未守也。欲辞职离粤,
几无善策,愤而欲辞○○○数次。
1 月 21 日 阴番可杀!
七时起床办事,批阅,八时往燕塘检阅第四团,至下午六时后方毕,回寓,检阅成绩不
良,各种举动差误,浮泛玩忽,而不确实、迅速认真,各官长之无调理经验,尤不热心,疲
玩极矣,如不竭力整理振作,必败无疑。晚组安、季新兄等来谈,十时记事,入浴。
忿怒色念欺妄愧悔轻浮诸过皆未绝也。沉润澹浑之箴未守也。
1 月 22 日 阴番之仇可忍?
七时前起床,批阅,八时往北校场检阅第五团,成绩较好。看病院,正午回寓。下午二
时检阅第五团内务及场操,六时往访鲍尔廷。晚会客谈天。
1 月 23 日 阴番可杀!
七时起床,批阅,八时检阅第六团至下午五时毕。往访季山嘉顾问与孙夫人,晚宴第二
师下级干部,午夜回寓,入浴睡。
忿怒色念欺妄媿改悔轻浮诸过皆未绝也。沉涧澹浑之箴未守也。
1 月 24 日 阴番可杀!
上午批阅,十时往北校场集合第二师全师官兵阅兵,总讲评,直至下午二时半回寓。假
眠,改正文稿。为廖公案与廖夫人磋商办法。晚宴第二师连长以上官长,训诫一小时毕,至
115
季新兄议事。十二时回寓,入浴睡。
数日来检阅,成绩虽不良,而精神团结不少,或有进步也。对官长严斥、痛诫,仍无异
言怨色,而且顺从,于心滋乐也。
色念忿怒愧悔未绝,沉润澹浑之箴未守也。
1 月 25 日 阴番未灭焉。人患失之,我则无法,失也苦甚。
上午会客,往访罗顾问,回寓。季新兄来谈,今日以?往梧州访李黄也。下午奥顾问来
谈毕,与静江、璧君、洁如往游白云山,先游安期仙寺,再游能仁寺,幽静雅逸,胜于安期
寺也。回安期仙寺休息,再游方君瑛墓地,回寺晚餐毕,静兄下山。月白风清,山静流响,
令人起隐居之乐。与璧君谈天。宿于避炎轩。
抑郁忧愁,疑忌忿怒,色念诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
1 月 26 日 阴番可不灭乎?抑郁愁闷不能约志,卑思徒欲胜人可乎?
七时前起床,与璧君姊由安期寺登白云峰,瞭望四周,旷观达怀,总不能解愁释闷,如
何可使我舍责释负,期达隐居之目的也。由峰顶北下至月溪寺,乃宋代苏睛川右丞相之墓莊
也。由此向右横行,径双溪五宝泉、静仙岩,风景虽好,破烂几不可居。出静仙岩回安期寺
时已十一时。峰下白云寺仅存墙壁。归途游濂泉寺,傍有张良庙,而其地乃白云与濂泉为正
脉也。正午回寓,下午办公,批阅,会客,往访季山甲将军,商运兵往津援助事也。晚往汪
寓宴五嫂看影戏。一时回寓。
1 月 27 日 阴番之仇忘乎?
近日胜人○○○凡事不肯降心息气,所以骄矜,益加抑郁。○○如平心静气论之,何事不如
意,何事受人侮耶。未免不自足,责人太厚也。勉之。七时半起床,批阅,八时半起程,往
西村检阅教导第三团。广雅书院规模宏大极矣,五时后回寓记事,批阅,会客,晚与鲍顾问
商议北满州军事。十二时回寓,睡。
忿怒色念躁急愧悔诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
惟坚忍淡浑,乃可革命。
1 月 28 日 上午改正文稿,会客。十一时检阅教导师第二团,由张民达最好部队改编
而其,成绩实不及党军最劣之部也。下午二时回寓。中餐假眠,三时半往筹备处开中央军事
政治学校筹备会,六时半回寓,晚往访季三嘉顾问,研究北方军事政治,余实决心在北方得
一革命根据地,其效亦必大于南方十倍也。
忿怒忧愁色念胜人愧悔诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
1 月 29 日 阴番可杀!
未明即醒后,反复不能安眠。上午批阅,拟训令,下午假眠,会客,孙夫人来访,与静
江兄叙别,谈本党与个人处境之难,不禁感慨系之,人才缺乏,精神涣散,同志不明事理,
挑拨离间,尽其所能,可谓险矣。致季陶、元冲函,勉其自全。与碧君姊谈天,晚宴静兄等,
饯别也。谈天。十时半送静江兄起程回沪,依依焉。
忿怒色念抑郁嫌烦愧悔诸过未绝,沉润澹浑之箴未守也。
1 月 30 日 阴番之仇犹未报也。
上午批阅,致函季兄毕,八时半起程往虎门检阅第一教导团,一时到沙角检阅第一营,
三时到虎门寨检阅第二三营,六时卅分训诫毕,回舰起碇来省,十二时回寓,舰中批阅稿件
而已。
忿怒色念抑郁之过未改,沉润澹浑之箴未守也。
本月检阅第二师教导师完毕,第三期学生毕业者八百人,演讲十余次。第二次全国代表
大会完竣,列数事蹟可喜而痛苦难言也。
1 月 31 日 阴番不灭,世无宁日。
上午记事批阅。季新兄来谈半天。广西当局或可诚意合作也。方君璧同志为余画油画甚
116
像也。下午批阅,看经济思想史,一面办公,一面求真也。晚往政府宴会。忿怒略减,色念
未绝,愧悔疑忌,抑郁诸过较前略减。沉润澹浑之箴似履也。随美人之意,画豪贤之像,或
对美人读书办事,乃可减少忿怒而振精神也。
晚与鲍顾问等商北满财政事,至十二时回寓。
2 月 1 日 上午批阅,下午假眠,往访季山嘉顾问,回,会议,校事烦杂,困难已极,
不知如何清理也。范围扩大,委权于人,不能精神贯注,责任愈重,权位愈高,因之精神散
漫,危险之度亦愈增矣,可不慎哉。忿怒危念,愧悔疑忌,诸迹未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 2 日 阴番防我极矣。
上午批阅后即来黄浦,时已九时矣,回司令部后,即搭船往大石头附近检阅第一入伍生
团,至四时后讲演毕,回校,与季新、子文二兄谈财政事,磋商至晚方得解决也。晚约孙文
主义学会与青年军人联合会干部开联席会议,解决双方干事加入两会,惟高级官长须令其退
出也。○时回部。
骄横失言,色念媿悔诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 3 日(12 月 21 日) 余之日常行动,阴番亦起注意。今日送年。
上午写信毕,九时后往大操场检阅教导第三入伍生团,一时方毕。下午在校改正讲演稿,
周赤忱君携孙传芳信来粤访问,晤谈一小时而别。晚鲍尔廷同志来谈,以彼北上观察情形也。
[毛本党政篇改作:鲍尔廷自北回,晚来述观察情形。]彼谈解决土地问题为革命之基础,余
亦以为然,惟忧无法引起全国大革命耳。余言北伐非大革命,现在国民政府亦不足为真正革
命政府也。彼默认不答。今日失言,愧悔色念。忿怒诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 4 日 阴番谋我益急矣。
上午批阅,欢迎广西、湖南代表讲演约半小时。下午批阅,会客,四时回司令部休息后,
往平冈后山观察阵亡将士墓基朝向,坐位未定, 但愿其子孙世世发达,并思筹永久不朽之
计也。回忆往事,凭吊烈士,不禁黯然销魂,独忧现在将士骄横奢侈,不知创业之艰难,甚
恐不能继续同志之生命耳。晚餐吃酱蹄,与冶城、纬儿等围坐言笑。近日来,以今为最欢也。
十二时睡。愧悔色念忿怒之过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 5 日 阴番之仇其能忘乎?
七时后起床,往校,写子文兄、季新兄信,回与白崇禧君谈天,后批阅,程颂云军长来
谈。下午回司令部,休息,改正讲演稿。五时后往众烈墓地勘察方向毕,甚愿诸烈子孙世世
皆能革命也。巡视病院,见病生但有伤心,放眼非部下棺材,即为学生病痛,并使民间造墓
不安,吾心何其忍也。六时后回部,晚餐,晚记事。
忿怒色念媿悔欺忘诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 6 日 阴番可杀。
上午批阅,与择生谈校事,十时后回省,船中及在寓改正讲演稿。下午三时往访季山嘉
将军谈校事。四时后开军事委员会议财政诸事。晚宴周赤忱毕,往访璧君及颂云,回寓,改
正讲演稿,十二时睡。
忿怒依连,愧悔疑虑轻浮失言诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 7 日 阴番可恨。决不再任军职。
上午改正讲演稿后,会客,十一时往访季山嘉顾问,谈政局与军队组织,针砭规戒之言
甚多,而其疑惑戒懼之心,亦昭昭明甚,以中国之社会与空气,难怪其以土耳其为殷鉴,亦
难怪其疑中国军队为贪污卑劣之品也。呜呼,国家若此,军人如彼,欺凌侮辱,诚令人格丧
失,无地自容矣。二时回寓,假眠,不能成寐,懊悔殆甚,抑郁不堪。晚宴浙江代表,九时
回寓,急思跳出环境,免成军阀也。
轻浮疑虑抑郁忿恨褊急愧悔诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
117
2 月 8 日 阴番谋我益急。
上午批阅后,由省寓回长州休息,下午假眠后,监视烈士墓工,晚傍回部,拟辞军职,
及此生不复任军职。通电稿成,晚餐。十时后入浴,睡。
忧患疑惧忿恨愧悔诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 9 日 阴番之仇不可忘也!
上午往军校办公,下午发辞一切军职,愿任校长及政治委员会委员通电,批阅中央军事
政治学校章程,会客,晚在部读古文,与力子谈时局。十二时睡。
抑郁忿恨愧悔诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 10 日 阴番不可赦也。
上午静坐后,周赤忱先生来谈,往校参观。下午办公,与赤忱先生谈天后,回司令部休
息,视察诸烈士墓工,往游长洲岛一周,晚记事,办公。
忿怒客气愧悔疑虑诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 11 日 阴番非天不足言革命!
上午深思处境困难,非积极进行,冲破难关,不能革命,否则消极下去,减轻责任,以
为下野余地,盖苦无善法也。忍辱负重,不接不联,必非革命行动耳。思索半日,仍以道义
为主,或有昭信感○万一之望。下午假眠后,办公,外出散步。晚烦闷静虑,记事。苏友疑
忌侮慢,防范欺弄之行,或非其本来方针,然亦无怪其然,惟有以诚义感之而已。
忿恨疑虑愧悔色念犹豫诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 12 日(12 月 30 日) 旧历年满。阴番如故,犹未灭也。
上午烦闷抑郁,登长洲第一峰升旗山瞭望,山海眼界虽远,仍不能旷观达怀也。陈雄夫
来谈,以其已撤职查办矣。下午假眠后,力子来谈。闻季新以余未覆其信不悦,甚为歉惶,
自觉固执太过,使人难堪而启怨望,又接其一信,余读之感动。祭祖毕,思虑甚久,心稍宽
慰也。
客气愧悔愁闷忿恨褊急责人诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 13 日 旧历新历已过一日,阴番如故也。
上午七时起床静坐后,往校见学生怠惰失礼,心痛殊甚,大加训斥。在校改正通电稿,
回部休息,下午同纬国母子等往游鱼珠炮台,回部已五时许,择生来谈。晚深虑熟考,通电
不发为宜,如求进步,必须积极,否则往莫斯一游,观察苏俄情形也。甚悔客气动态太无耐
力也。
忿怒忧患疑虑抑郁色念诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 14 日 阴番可恨。
上午办公,往校,改正讲演稿。季新兄来谈,终日终无善法以解决辞职之意也。晚回司
令部,抑郁已极,身难极矣。晚十时后睡。
悔愧疑虑忧患抑郁已极,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 15 日 阴番必诛!
上午回省,往访李任潮军长,自觉语言恍忽,不胜惭惶,再访朱益之军长,回寓后午餐
毕,与立夫登白云山安其仙居、能仁寺两处,登高望远○○之,旷达不少也。晚与季新兄往
访季山嘉将军,谈至午夜后始返寓晚餐,二时睡。洁如受屈,心甚歉仄也。
恍惚愁闷,忿怒色念疑虑愧悔诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 16 日 阴番不灭何以立国。
上午记事,批阅,璧君来谈,往访孙夫人,入军部巡察。下午季新、任潮兄来谈,改组
参谋团,撤调苏俄同志之政务官,以免其令人指摘也。假眠不成,抑郁已极,讥刺之友,疑
忌之人,何法得以成全之?晚会客,九时后即睡。
疑惧愧悔色念求全忧患诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
118
2 月 17 日 阴番不灭不已。
上午往访季新、组安二兄,回寓批阅。下午往白云山送葬,晚傍回黄埔,抑郁无聊已极
矣。晚回司令部。
疑虑抑郁忿怒愧悔诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 18 日 阴番非灭不可!
终日愁闷,诚如坐愁城也。不如意事之来,往往连接而至,所谓屋倒反遭连夜雨也。部
下不规,败坏军威;家中不○○○为难堪,公私两败,内外夹攻,令○○○至自杀。其实徇外为
人之心太重,此○○卷舒,不能自由自主,往往以人之喜怒为喜怒耳。为人须学得自强不息,
方可为人。申刻客来,心略舒展。与洁如同观烈士平冈墓基。今日忿恨疑虑意气愧悔诸过未
改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 19 日 阴番非灭不可。今日为余进步之日,抑郁拂逆惶恐忿怒色念未绝也。
上午写鲍尔廷信约数千言毕,即回省与季信兄商议赴俄事。余决意赴俄休养,研究革命。
以近来环境恶劣,有加无己,而各方怀疑渐深,积怨丛生,部下思想不能一致,个人观念亦
难确定,而安乐非可与共,亦不得不离粤休养之一也。季山嘉来寓相访,闻余赴俄,状似不
安。此次赴俄决心实为余新生命存亡之一大关键也。下午领纬儿往第一公园观览游艺会,照
相,在办事处休养。今晚纬国母子起程回沪,余回东山寓,与力子商议一切。
2 月 20 日 阴番可杀!
上午往访季新兄,同璧君○○南南强中学参观逰艺会,正午回寓。下午○苏俄红军成立八
周年纪念日,有○○○李任潮来谈,两广政治军事财政统一计划似有希望。○去抑郁疑忌○○人
在自强,患难可共,安乐难共,是○○大抵如斯,惟在不能自立耳。晚记事。愧忤色念怨尤
诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 22 日 (丙寅正月初十日壬午)月曜日[即星期一]
阴番非灭不可!
上午改正讲演稿毕,往○○○○○○季新兄来谈,下午同访○○○○○○军,四时回寓休息,愁
闷无聊○○○○○退维谷,政治生活诚非人所○○○○○矣。处境至此,诚令人所万不能○○○○○道
德云乎哉,感情云乎哉?晚应俄○○○○○宴。十一时回寓睡。
愧悔怨恨忿闷抑郁诸过未改,沉涧渗浑未杀也。
2 月 21 日 阴番不灭不休!
上午会客,往访季新兄,谈财政事,下午在寓会客,外出散步。
今日愧悔较多,抑郁略减,忿恨○○○○未息也,沉润澹浑之箴未守也。
此二十一日之日记也。
[按此日日记在二月二十三日页上,故有此注]
2 月 23 日 此二十三日之日记 [按此日记记在二月二十一日页上,故有此注]
阴番非灭不可!
上午批阅,东臣来谈,取消卫戍部事,闻茂如言人毁我时,又见人嫌我。抑郁已极。所
谓○○恶毁之人即是○○○○失之鄙夫也。心地不豁达○○○○益之军长、任潮军长来会○○○○公馆
政治会议。晚○○。
2 月 24 日 阴番可杀!
上午往访季新兄后,回寓会客。下午在季山嘉将军家会议。四时后往访孙夫人,回部,
晚为处境困难,终夜几不安眠。
忧患苦痛极矣,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 25 日 阴番可恶极矣。
昨夜不能安眠,早起会客。季新兄来谈,择生兄亦来谈,下午璧君来谈,忧患已极。晚
季新兄来谈。
119
今夜又不能安眠,忧患抑郁,莫甚于此也。沉润澹浑之箴未守也。
平生忧患,未有如昨今两日之甚也。
2 月 26 日 阴番不灭无以立国
上午茂如来谈。撤革王懋功之师长职,扣留之,此人狡猂恶劣,惟利是视,昔日以其少
有才,期其感化,今则愈趋愈下,其用心险恶不可复问,外人不察,思利用其以倒我,不知
将来为害党国与革命至于胡底,故决心革除之。下午季新兄来谈,会客,晚九时回睡。今晚
略得安睡矣。
忿恨忧虑疑懼愧悔诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
2 月 27 日 阴番非杀不可!
上午早起会客毕,往访季新主席,报告要事,及对基之意见,彼允之,即进行。基之专
横矛盾,如不免去,不惟党国有害,而且中俄邦交牵动,然其个人行动,决非其当局者之意
也。发力子电。下午会客,与季新兄议事。基已自知其错误,并有辞去之意,不知其尚有何
作用也。晚傍散步。晚与洁如等乘车环游市街。勒令王懋功出境赴沪。晚十一时睡。凡事应
认明其原因与要点,要点一破,则一切纷纠不解自决。一月以来之难境、心战,至此稍安。
然而危险极矣。
沉润澹浑之箴未守也。
2 月 28 日 阴番必灭!
上午由省回校,往大石头,对入伍生第二团新由惠州开回者训诫三时后,回校阅报,办
公,晚回司令部。九时睡。
今日心神略舒,夜能安眠,而又起一件不安之事,令人苦思焦虑不得解决。最后决用强
制手段,否则危患于党国,险象不可名状也。
疑虑愧悔色念诸过未改,静敬澹一之箴未守也。
3 月 1 日 阴番犹未灭也。
早起到校,与择生商议处置军械意见毕,批阅,阅报,时以此为念也。下午接见各处主
任,宣布本校今日各教职员就职,会客,晚讲演。
疑虑色念媿悔诸过未改,静敬澹一之箴未守也。
3 月 2 日 阴番不灭不已。
上午在校审察应看之书及时间,批阅,下午改正讲演录,五时回部。贤甲母舅来。往众
烈士墓地监工。晚会客记事。
疑懼抑郁愧悔忧患诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
3 月 3 日 阴番犹未灭也。
昨夜看革命心理一书,起至今日,看至九十八页矣,乃知革命心理,皆由神秘势力与感
情作用以成者,而理智实极微弱条件也。憎恶嫉妒虚荣热忱乃为性格变迁之原因,亦甚有理
也。终日在校办事,看书。
疑虑灰心愧悔忧患诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
3 月 4 日 阴番不灭不止!
终日在校看革命心理下卷,乃知法国革命甲古班党全以其信仰之强固、嫉妒与残暴专横
以成其势力也。然而终不可恃也。今日精神较昨为減。择生以对党之感想判断结果为本党必
无,其必以共产派代之,而吾辈惟有领导青年左倾,共图国民革命之成而已,吾亦以为其判
断之有所见也。又谓吾近日感情冲动,亦以为然也。
怯弱疑虑懊悔萎糜忧患诸过未改,静敬强一之箴未守也。
3 月 5 日 阴番必灭!
终日在校看革命心理一书完。恐怖与憎恶二者,乃为暴动之原,感情神秘与集合之势力
120
在革命心理学中占一要位,而宗教式信仰乃为革命心理惟一之要素耳。顺应时势,迎合心理
为革命领袖惟一之要件。 吾何能之。
单枪匹马,孤苦零丁,迕逆毁蔑,此吾今日之环境也。总理与诸先烈有灵,其当怜而援
之,不使我陷于绝境至此也。
怯弱哀痛悲惨疑忌愧悔忧患诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
3 月 6 日 阴番必灭
在校办事,会客,看政治社会史。今日疑虑忧患懊悔灰心诸过未改,静敬强一之功未到
也。
自觉历史观念太深,感情作用太多,政治兴趣丝毫没有,此其所以革命不成也。
3 月 7 日 阴番必灭
今日往珠村潘文治家中访候,聊以解愁也。乡间本来总胜于都市也。途中看菜根谭,以
毋忧拂逆与不为物役二语最能动心。三时回埔休息,经扶、择生来谈,闻有人以油印分发各
处作反蒋运动,此心反得安适也。
沉闷悲伤愧悔忧患色念诸过未改,静敬强一之箴未守也。
3 月 8 日 阴番必灭!
本日为中央军事政治学校开校之日,上午与季新兄商议大方针。予以为中国国民革命未
成以前,一切实权皆不宜旁落,而与第三国际必能一致行动,但须不失自动地位也。彼极为
然。下午行开学典礼,宴会,讲演,晚回司令部。昨今二日看曾公嘉言钞,乃知其拂逆之端,
谤毁之来不一而足,而彼劝其弟以咬牙立志,悔字诀与硬字诀,徐图自强而已。今日疑虑略
减,而总不能释然耳。静敬澹一之箴未守也。
3 月 9 日 阴番食人如故。
上午在校与择生议事。后思虑半天,拟总理逝世周年纪念感言稿。下午回省途中登岸,
经猎德村而至东山,约行十五里路。在寓会客。晚陈师长真如来谈。十一时后睡。
吾辞职已认我军事处置失于自动能力,而陷于被动地位者一也。又共产分子在党内活动,
不能公开,即不能开诚相见,办世界革命之大事,而内部分子如貌合神离,则未有能成者,
二也。吾因此决心辞去也。忧患愧悔诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
3 月 10 日 阴番非灭不安。
上午会客。闻各种谣言,不能入耳者。此心为之泰然,反不抱悲观也。以诚待人,事后
一切当能释然著信也。下午行第二师师长布达式,讲演二次,照相后,游黄花冈,步行回寓。
近日反蒋运动传单不一,疑我谤我毁我忌我排我害我者,亦渐显明。遇此拂逆,精神颓
唐而心志益坚矣。惟自恨缺乏政治智识,又少组织能力,前之以为政治组织,完全信任同志,
不必研究,而今觉事事非精明审虑,皆成为傀儡矣。忧患色念恐懼愧悔诸过未改,沉润澹浑
之箴未守也。
3 月 11 日 何以灭此阴番?
上午为苏俄代表库弼下克氏来粤,与季新兄商欢迎事。下午为进退关系,忧虑终日夜不
成眠。
一月以来拂逆忧患几难自持,何吾沈陷一至于此。总以无经验无学识,不慎言,不检行
所致也。静敬澹一之箴未守也。
3 月 12 日 阴番必灭!
昨夜终夕不寐,今早起床会客,忧患思虑不可言状。九时往中央党部作纪念周,午后会
客,四时往季山嘉处,茶会,晚早睡。
忧患悲惨已极,沉润澹浑之箴未守也。
3 月 13 日 五时闻门铃,不胜骇异,知必有要事,及问阍者,乃知沈副师长存中病笃,
即整衣往视,则见其满身黑斑,各处流血,不胜忧闷,陪至七时回寓,未几即得其故亡之报。
121
呜呼,屋倒反遭连夜雨,吾之拂逆,竟一至于此也。退志益坚矣。上午再吊存中丧,回寓抑
郁半天,下午往迎苏俄同志,听取报告,六时往视存中入殓。晚往访史顾问。十时后回寓睡。
思虑忧患疑惑悲惨诸过未改,静敬澹一之箴未守也。
3 月 14 日 阴番无法灭乎?
上午往本校补总理逝世纪年周,下午送存中副师长出殡,晚与季新兄谈话,其催予离粤
乎。十时后睡。
悲忿忧患疑惧诸过未改,静敬澹一之功未到也。
3 月 15 日 阴番犹未灭也,何能捨责。
上午陪俄国中央执行委员等赴黄埔参观,见要塞窳败,不胜惭惶,拟决辞职。下午回省,
阅报,访黄季宽君未晤,往旧卫戍部察看,萧条零落,不忍观也,然而心犹泰然。会客,知
王懋功之恶劣,及世道人心之险诈,诚不能办事矣。革命绝望。晚在家愤闷已极。
忧患疑惧已极,自悔用人,不能察言观色,竟陷于此,天下事不可为矣。沉润澹浑之箴
未守也。
3 月 16 日 阴番可不灭乎?
上午批阅,会客,往访黄绍竑会办。下午与季新兄谈天,择生来会,汪夫人由汕头来省,
余往访之,晚会客谈天,十一时后睡。
忧患悲惨疑虑诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
3 月 17 日 阴番犹未灭也。
上午会客,往访璧君,回寓议事。下午往黄埔,晚讲演。
疑惧忿恨不堪名状,沉润澹浑之箴未守也。
所受苦痛至不能说不忍说,且非梦想所能及者,政治生涯宦海风海至于此极,可谓历尽
艰难矣。
3 月 18 日 阴番必灭!
昨夜焦虑,竟至不眠。早起与邓择生谈话。上午回省往访璧君。下午会客,四时后开会,
议决北伐准备,晚与择生、任潮谈天。十二时睡。
疑惧忧患拂逆怨恨轻浮诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
3 月 19 日 阴番必灭!
上午往访季新兄回寓,会客,准备回汕休养,而乃对方设法陷害,必欲使我无地自容,
不胜愤恨。下午五时,行至半途,自思如何,必欲私行,予人口实,志气何存,故决心回寓,
牺牲个人,一切以救党国也。否则,国粹尽矣。晚终夜议事。往经理处下令镇压中山舰阴谋,
以其欲陷我也。
权利可以放弃,责任岂可放弃乎。名位可以不顾,气节岂可丧失乎。故决心不走。
3 月 20 日 阴番可杀。
六时起床,闻已占领中山舰,乃即往造币厂北校场训诫第二师将士毕,会客,组安军长,
不以此举为然,书生态度,不知革命之举动也。璧君、梯云、铁城、勷勤皆来会谈,三时往
访季新兄。晚回寓会客,俄顾问及其军事委员伊万洛夫司堪,来谈。今日戒严时,士兵竟将
俄同志寓所守卫,形同监视,且缴其械,不胜歉仄。今日静敬澹一之箴未守也。
3 月 21 日 阴番犹未悔祸
上午拟致季新兄函,思虑再三,卒未能成,以既不愿以伪待友,又不能以意如我也。终
日会友,往来于造币厂之间,人才缺乏,实无改造一切之能力也。孤苦零丁至于此,极可痛
也。军队不出动则已,如一出动,即不能事事制止,必有自由及不轨之则也,以后戒之。晚
傍访季新兄病,观其怒气冲天,感情冲动不可一世,甚矣。政治势力之恶劣,使人几乎无道
义之可言也。晚早睡。今日决心甚坚,故能贯彻一半主张。沉润澹浑之箴未守也。
3 月 22 日 阴番不可不灭!
122
上午俄使馆参议来见,问余以对人问题,抑对俄问题。余答以对人问题,彼言祗得此语,
此心全安,今日可令季山嘉、罗茄觉夫各重要顾问离粤回国。十时后,开政治委员会,决议
令俄顾问主任引去,第二师党代表撤回,对不规军官查办。下午与谭朱李各军长谈对俄顾问
及共产党各问题,皆赞成余意。事前皆反对我出此举动,而事后将余之言奉为金科玉律,人
心之变化,其如此之速也。晚回校讲演。十时后睡。沉润澹浑之箴未守也。
3 月 23 日 阴番必灭!
终日在校思虑政局及处置方法,闻汪主席迁移就医,不胜疑惧,昨日决议完全尊重其意
思,宜无不愿也。下午奥尔根同志来谈,廖夫人、褚校长又来谈。会客。五时后静江兄到要
塞部,余回部叙谈一切。今年以来,所有政局内容与外交经过情形,与之尽量说明。晚十时
后睡。
疑虑忧患愧悔嫉忌诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
3 月 24 日 阴番非灭不可!
上午与静江兄谈天,十时到校,会李任潮、黄季宽二军长,正午回部休息,下午往别伊
万洛夫司基,彼属余革命以农工为基础,以政府与党之强固为要点,又以干部意志一致为首
务。余言革命势力应集中,革命应时时进取,不宜取保守态度,凡余视为革命障碍者应迅即
扫除,又以革命组织应以革命之利害为前提,不宜应人而设也。彼此皆以为知言。晚回长洲
与静江兄商议一切。十一时睡。疑虑忧患愧悔诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
3 月 25 日 阴番果有灭乎?
上午与静江兄商议经过事实,为人陷害,屡濒于危之状,彼几视余为奇才,即对方亦称
余为天才,然而危难极矣。正午组安、益之、季宽各军长来谈,余以廿日之事自请处分之呈
见示,彼甚乐意也。四时后回省与子文商议,找觅精卫行踪,不可得,后得其致静兄一书,
称余疑其厌其,所以不再任政治军事之事,彼之心迹可以知矣。为人不可有亏心事也。晚组
安等来谈,十一时后睡。矜誇忿怒疑惧愧悔诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
3 月 26 日 阴番可杀!
上午致精卫、子文、组安、任潮、益之告休养书,属其促精卫出来任事也。十时后召集
第二师各官长训话毕,回校。下午乘中山舰来虎门,驻沙角台,晚与九渊、立夫谈世界大势
毕,看书,九时后睡,三时宋部长子文来挽劝我不走,我允之,彼去再睡。
政治生活全是权谋,至于道义则不可复问矣。精卫如果避而不出,则其陷害之计昭然若
揭矣,可不寒心。色念媿悔机诈之过未改,沉润澹浑之箴未守也。
3 月 27 日 上午登探海灯台,眺望风景,总难解愁。十时乘船由沙角起程,下午三时
抵东莞城,驻节于公园红棉山庄,会见官长学生,心稍安乐。往县署第二十师部巡视,晚在
公园纳闷。
学校处置不定,军队政治工作无人,党务全体执行委员会无期,政府产生不易,此皆今
日重要之期应研究者也。
忿怒色念媿悔疑虑诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
3 月 28 日 阴番之仇可忘乎?
上午拟致静江兄电稿,召集第廿师官长在东莞中学训诫。正午宴会。下午对中学校学生
讲演,三时由东莞城起程,六时回抵虎门之沙角宿也。晚看书,与立夫谈天。
政局不能从速决定,甚恐夜长梦多也。某兄始以利用王懋功离叛不成,继以利用教育长
陷害又不成,毁坏余之名节,离间各军感情,鼓动空气,谓余欲杀某党,欲叛政府,呜呼,
抹杀余之事业,余所不计,而其抹杀总理人格,消灭总理系统,叛党卖国,一至于此,可痛
乎?
3 月 29 日 阴番可杀!
上午看书,拟对时局意见书。下午往威远台巡阅,登其最高峰,由西台回部。清泉幽谷,
123
海天一色,得此聊偿游乡之乐也。四时回沙角,再拟整理党务意见书。晚记事。
机诈色念忿怒愧悔疑虑诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
3 月 30 日 阴番之仇不可忘也。
上午拟准备北伐稿。看书,登瞭望台观海楼,瞭望四海岛屿,列列可数,天朗气清,诚
一佳境也。楼下有碑,为彭玉麟所建,不禁起怀古之念也。下午乘船游蒲洲及大角炮台,对
岸香山之万顷沙,一目瞭然也。四时后回沙角,濒海台,阅报。晚接各友函电,早睡。
色念机诈愧悔疑虑诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。祗要大权不旁落外人之手,则其他
事皆可迁就也。前日政府事事听命于外人,以致陷于被动地位。此非外人之故,而精卫自让
之也。
3 月 31 日 今日身体发热甚不舒齐,看书。下午拟游下游台,以热度甚高,未果行。
静兄、洁弟来虎门访问详叙政局。季新兄行踪仍无下落,此种不负责任之所为,非当大事者
之行也。无怪总理平生笑其为书生,为调和派也。
4 月 1 日 今日热度未退。上午由虎门起程搭中山舰回黄埔。十一时抵要塞司令部,会
客,下午各委员均前后来会议事,与各军长妥商大局。江西方本仁与湖南唐生智皆来告急,
余意先令其表示态度,服从政府,否则亦须令其与政府攻守同盟,然后约期相助也,众意为
然。
4 月 2 日 今日热度未退。上午写信,休养。下午与邓择生谈三月二十日之事,缴俄国
顾问枪械与镇摄中山舰事,彼拟以为近于反革命行动。余教其革命党应事事以革命行动出之,
如总理主张废除约法,余之主张改正党代表制,如他人为之则为反革命,而以余与总理行之,
则无论何人应认为应取之手段,以由首创者即有废除之权也。静江、子文兄来谈。适值欧阳
格舰队司令被扣留,以欧联合右派不利于党也。晚也静兄商议,至十一时睡。
4 月 3 日 阴番不可不灭。
热度至正午始退。上午刘师长来谈,古、伍等又来谈,令人不悦,右派徒思利用机会,
联结帝国主义以陷党国,甚可叹也。下午谭、朱、宋诸同志来谈,商议大局毕,拟即日提出
开全体中央执行委员会及了结三月二十日之案,皆得通过也。恩来来谈,俄顾问亦来谈,今
日之处境,实左右为难。已往若无主见之人,诚不易应付也,政治生涯实非梦想所能及也,
记事。
4 月 4 日 阴番必灭 上午与静江兄谈天,季宽、任潮兄来辞行。下午俄参事萨某来谈
约二小时回去,看书,休息,批阅,晚记事。
疑虑厌怨褊狭愧悔忿怒诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
用人之难已极,察言之难更甚,天下惟狡诈人不可用,对狡诈人之言尤不可不时时留心
也。
4 月 5 日 阴番可不灭?
上午到校作纪念周训诫约一小时毕,办公,会客,下午阅报,办公。子文兄来谈,右派
拟开市党部大会,示威运动,属余致函铁城制止之。上海谢持等致电静江、组安等欲来粤开
伪第二次全国代表大会,皆思利用此机以倒[捣]乱也。傍晚往察平冈诸部下墓基,又往第一
病院视察旧鱼雷局,皆搭蓬厂,一新旧观,悲苦交集。近日为人事与政治问题甚难处置也。
4 月 6 日 阴番之仇,其能忘乎?
上午改正反对上海第二次全国代表大会通电后,即到校办公,巡查寝室及讲堂毕,批阅。
下午休息,批阅,会客,考虑时局。晚改正开学时训诫,巡查,宿于校中。疑虑色念忿恨愧
悔褊狭诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
今日通电有誓为总理之信徒,不偏不倚,惟革命是从,凡与帝国主义有关系之败类,有
破坏本党与政府之行动,或障碍我革命之进行者,必视其力之所及扫除而廓清之。
124
4 月 7 日 阴番之仇,其能忘乎?
上午在校改正讲演稿,会客。静江兄来谈。接精卫兄函,似有急急出来之意,乃知其尚
欲为某派所利用也,不惜党国之败坏也。下午休息,会客,与静兄谈天,任潮谈天,晚宿于
校中,十时睡。
疑虑机诈,色念媿悔轻言浮动诸过未改,沉润浑澹之箴未守也。
4 月 8 日 阴番能不灭乎?
四时后起床,巡查点名后,阅操。上午,批阅。蒋雨岩代表方本戎来谈毕,张谭朱宋诸
同志复来谈大局,及季新兄出来事。下午张国涛、史顾问前后来谈,与静兄商议大计。晚决
致季新兄覆书,以促其觉悟,至十一时睡。
疑惧怒媿悔轻浮虚荣忿怒褊狭诸过未改,沉润浑澹之箴未守也。
4 月 9 日 阴番可杀。
早起续覆季新兄书,约数千言。十时到校,批阅抄录复季新兄书,至六时止。孙哲生兄
来谈党务,晚对全体学生讲演。九时回司令部,与静江兄议事。十一时睡。
4 月 10 日 阴番不杀不止!
上午与蒋先云谈天,到校批阅,改正讲演稿,会客,下午俄顾问来谈,金、郭两团长来
谈,心甚歉仄也。拟告本校第一、二、三期学生书,甚不洽意也。晚谈天,记事。
对于退出军队之共产分子,甚难为怀也。团体分裂,操戈同室,损失莫大也。二年心血
尽于此乎?以后政治方针,究以如何决定,方能使革命成功耶。
忧虑褊狭疑惧媿悔轻浮诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
4 月 11 日 阴番可杀。
六时起床,批阅,上午批阅,改正讲演稿,邓教育长演达调潮洲分校,以何敬之调为本
校教育长。下午批阅,李登同军长来谈,哲生来谈。假眠。深思广东政局,甚难处理,党务
军事裂痕已明,右派与共产派两者之间亦难调理,土匪与地方主义更难消除,实无善后之策
也。晚记事。
褊狭疑虑媿悔忧患轻浮诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
4 月 12 日 阴番岂可不灭乎?
五时半起床巡查,上午批阅,拟正告本校各期同学书,会客,对师范学校学生讲演外,
终日拟信稿,批阅,无暇阅书也。纪念周报告军事政治及党务后,大雨,乃回。晚九时回司
令部,与洁如谈天,十时后睡。
疑惧褊狭媿悔忧患忿激色念诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
近日稍能振作精神,惟怯馁之心未除,要自问此心究有疾怍否耳。
4 月 13 日 阴番非杀不可
五时起床,盥洗毕,来校巡查,批阅。上午改正致同志书,批阅,下午任潮、静江兄先
后来谈,批阅,政治问题之复杂困难,财权足以制人如此也。晚闻有人以前星期演讲为不然,
心甚歉惶,改正讲演稿,十时后睡。
忧患褊狭愧悔疑惧轻浮诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
4 月 14 日 阴番不可不灭。
六时起床巡查,上午改正函稿,批阅,静江、组安、哲生、梯云先后来谈,梯云急于解
决罢工问题,以贪英国借款,推其意为英人所利诱,余反对之,并斥其妄。不料哲生为其所
愚,可叹。后以余据理反对,彼亦无异辞。政治人心险恶如此,可悲也。下午与静江兄商议
政局,留子文财部事,及发表致季新兄函,事后洗浴休息。五时回校,为发表正告同志书事,
反覆诵读,决定发表也。八时后回部。
政治与军事之成败,皆在心理,而事实甚微也。
4 月 15 日 阴番非灭不可。
125
六时由司令部到校,上午批阅,看书,张、谭、朱三同志来谈改选主席事,余赞成之。
下午休息。萨顾问来谈政局,会教职员。晚开校务会议,自改组本校以来,今日第一次列席,
各人员精神为之一振。十二时闭会。宿于校中。
轻浮忿怒色念疑惧愧悔诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
4 月 16 日 阴番非先灭不可。青年军人联合会今日宣言取消。
?时半起床,巡阅,批阅。上午会客,批阅,为调敬之来省,致啓各方谣言,又恐其疑
虑,不安殊甚。自知举动错妄,不顾全局与前后,愧甚。下午由校回省,与静江、益之、任
潮、组安先后商议改选主席事。四时后赴国民政府开联席会议,推选谭组安部长为政治委员
主席,余为军事委员主席。晚会客,十一时睡。忧患轻浮疑虑忿怒愧悔色念机诈诸过未改,
沉润澹浑之箴未守也。
4 月 17 日 阴番之仇岂可忘乎。孙文学会今日亦决议取消。
六时起床,致敬之函电,上午杨匏安、刘经扶及各团长来会,组安部长来长谈经过及将
来之政治与党务。下午休息后史顾问、李任潮来谈,与静江、组安二先生谈粤局之将来。晚
与孙文主义学会干部谈取消学会事,往访益之与静江二兄,回寓入浴,睡。
轻言专横忧患疑忌机诈忿怒愧悔色念诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
慎言养气,不可不勉。
4 月 18 日 阴番必灭
上午批阅军事委员会文件,前后会客七八次,与史顾问开诚谈从前季山嘉之非,以后应
注意改正之点。胡赣忱来谈,下午会客后休息。往访静江、组安、任潮、子文诸同志,闻胡
展堂兄已有“海孙威”出发回国矣。晚与静江兄谈天。十一时睡。
疑忌机诈忿怒愧悔轻浮色念诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
4 月 19 日 方鼎英为本校教育长。阴番不灭,社会不宁。
五时后起床,静坐,批阅,八时由省回校,主纪念周讲演,阅报。下午假眠后批阅。萨
顾问来谈,闻展堂兄复政治委员会电,不回粤只回沪云。批阅文件,改正第二次全国代表大
会军事报告,晚巡查回司令部休息,十时睡。
北方国民军内部不和,鹿钟麟部于十五日退出北京,集中西北,张之江部闻有与吴佩孚
言和息,段祺瑞十号逃入东交民巷法使馆,闻今已出来执政云。
4 月 20 日 阴番威逼利诱,其计尽矣。
疑虑轻浮忿恨机诈愧悔色念诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。五时后起床到校批阅,上
午会客,批阅,下午复学生熊函稿,会张衡同志等,见十九日军事委员会主席汪通电,不胜
骇异,政治复杂与危象,实难测也。晚在司令部与洁弟谈天,十一时睡。
4 月 21 日 阴番可杀。
疑虑颓唐悔恨悲愤忿恨轻浮诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。上午看新青年杂志,阅某
电知其怀疑且涉不规,不胜忧愤,何天之压我,如此其甚也。下午白剑生、陈真如来谈,又
接某电或易解释,心略安也。晚宴退去本军之党代表及 CP 官长,讲演约一小时,众疑释然。
十一时回部睡。
4 月 22 日 阴番必灭。
六时到校巡查批阅。上午看新青年,会客,批阅文件,下午批阅,会安舜卿,静江兄来
谈。晚校务会议至十一时,夜宿于校中。
近日躁急嫌恶忿怒忧患懦弱疑惧愧悔轻浮诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。迩来于发强
刚毅○气独缺,所以事事只有怯懦悲愁,以后对于不可免之祸患,祗有竭其力之所能以打破
之。
4 月 23 日 阴番非灭不能革命。
五时半起床致敬之电,规戒其骄矜也。上午,○省与静江、楚伧兄商议党国事。任潮部
126
长来谈。批阅文件。下午组安、子文、雨岩、史顾问等各同志来会,所谈无非党国大事也,
晚会议,免吴铁城公安局长职,决议后散会。批阅,入浴,十二时睡。
忧虑疑惧怯馁悲愁散漫而不能深思专一之过未改,沉润澹浑发强刚毅之箴未守也(宽裕
温柔)。
4 月 24 日 阴番非灭不可。
上午批阅文件,请吴铁城来谈免其公安局长职之理由,约一小时。会客,令李章达带兵
往接公安局长职。下午会客,看书,脑筋涨烈非常,与立夫往白云山安其仙居休息,鸟鸣景
静,凡心为之一洗。七时回寓,组安部长来谈,伍梯云不以撤换公安局长事为然。晚访静兄
谈党国事。十时后回睡。
疑惧忧患轻浮躁急怯馁诸过未改,静敬澹一发强刚毅之箴未守也。
牵一发而动全身,处置政治益觉武断不周也,戒之。
4 月 25 日 阴番可杀。
上午看杂志,与静江兄谈天,下午往游“石门返照”,惟见“贪泉”二字之石碑及一小
亭,他无所有业。其地有小冈与小山,风景亦不佳也。六时半回寓。请客。晚与宋子文弟换
帖,十二时后睡。
客气轻浮色念忿怒疑虑怯馁愧悔诸过未改,静敬澹一发强刚毅之箴未守也。
4 月 26 日 阴番犹未灭也。
六时起床,往送白剑生,便访子文兄。人事之难极矣,上午九时到校,主席纪念周,报
告近二周政治军事之结论。下午假眠一小时,后改正对各党代表宴会时讲演稿,至晚十一时
方毕,宿于校中。
客气轻浮疑惧怯馁愧悔忿怒诸过未改,静敬澹一发强刚毅之箴未守也。
4 月 27 日 阴番可杀。
五时半起床,巡阅,上午批阅军事委员会公文约二百件,看书。任潮、真如、朱绍良诸
兄来谈,任潮不明革命事理,仍不免有割据与封建之恶习也。下午会客,批阅文件约百件,
对广大学生讲演,改正讲演稿,晚在司令部休息,看总理手札。
人心疲玩,恶习太深,封建思想不破,革命总难成功,政治复杂,瞬息万变,谨慎犹虑
不及,奈何忽略耶。忧愁疑惧轻浮愧悔躁急诸过未改,沉润澹浑发强刚毅诸箴未守也。
4 月 28 日 阴番可杀。
六时起床,到校办公,上午批阅文件,会客纷繁已极。下午办公,静江、子文二兄来谈
经济事。晚回省会议,十二时仍回黄埔。
胡展堂、鲍尔廷诸同志近日可到。精卫问题恐起纠葛。闻吴佩孚委叶开鑫为湖南总司令
攻湘,广东问题又起,一波未平一波又起,未知如何结果也。
4 月 29 日 阴番可恨。
六时后起床到校,上午会客,批阅,任潮、真如催出兵北伐甚急。下午假眠后,批阅。
胡展堂、鲍尔廷同志来粤,余往船迎接,到司令部谈天。晚与力子兄谈往事。十一时睡。
疑虑忧患轻浮愧悔诸过未改,沉润澹浑发强刚毅诸箴未守也。
4 月 30 日 阴番必灭。
六时前起床到校,上午批阅文件百余通。十一时回省与静江兄议事,下午与展堂兄谈天,
其言似多挑拨不确,心甚疑之。二时至四时半,与鲍顾问商议党事,交换意见,彼尚有怀疑
之点也。四时半后到政治委员会,晚与静江、组安、益之、子文诸同志谈天,十二时后睡。
疑虑轻浮怯馁机诈愧悔诸过未改,沉润澹浑发强刚毅诸箴未守也。
5 月 1 日 阴番必灭。
今日为劳动纪念节。共产派与右派之双方工人仇视,似有自相冲突之势,余再三警告双
127
方,并令军队戒备,故尚无事。上午看职工运动稿毕。假眠。与静江兄谈天。下午假眠后会
客。蔼士、果夫来寓甚欢。晚与鲍尔廷谈时局约四小时之久。十一时回寓。
疑惧色念轻浮机诈愧悔诸过未改,静敬澹一发强刚毅之箴未守也。
5 月 2 日 阴番犹未灭也。
上午批阅文件,会客,往第三次全国劳动大会报告工农兵大联合经过情形。下午会客。
往白云山游息,归访湘芹,回寓,批阅军会公文。晚宴蔼士兄等毕,商议大局,一时后睡。
疑虑愧悔客气轻浮色念机心躁急诸过未改,沉润澹浑之箴未守也。
5 月 3 日 运输船、驳货船、宪兵侦探队。阴番必灭。
上午写信,八时后由省回校,主席纪念周演讲。上月廿六日阴舰捕拿华舰为国耻。下午
会客,对?子师范生及教育会讲演,几无暇咎。晚主席政治工作会议,十一时睡。
忧患疑虑愧悔轻浮机心客气躁急念怒诸过未改,静敬澹一发强刚毅之箴未守也。
5 月 4 日 早起阅操,巡查,上午办公,会客,下午批阅文件,三时后回省。主席军事
委员会。晚与静江、子文谈天。十一时后睡。
5 月 5 日 阴番可杀。
上午批阅,与蔼士兄谈天,往访组安先生,访静江先生。下午看新青年杂志,四时回埔。
陪蔼士、果夫游览,晚看书,十时睡。
近日忿怒躁急殆甚。轻浮色念媿悔疑虑诸过未改,忧患渐消,是心渐放矣。静敬澹一发
强刚毅诸箴未守也。
5 月 6 日 阴番必灭
五时起床,到校,记事,看书。上午批阅,办公,会客。下午假眠,批阅,会客。械船
已到。晚看新青年,十时后睡。
疑虑轻浮忿怒客气愧悔诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 7 日 上午会客,批阅文件,十时在大操场作“五七”国耻纪念讲演。自知失言,心
甚愧悔。下午回省,与静江议事,晚与鲍顾问议事,至三时方毕。
愧悔色念轻浮疑惧忧患怯馁诸过未改,静润澹一发强刚毅之箴未守也。
5 月 8 日 提要:闻汪精卫尚在广州。社会记事:阴番必灭。
上午拟再告本校各期同学文稿。会客。闻汪精卫在西关也。与静江、组安、益之议事,
至下午二时毕,与静江兄谈天,往访鲍顾问。四时后,主席军事委员会。八时往访蔼士兄,
晚十时后睡。
愧悔色念疑惧忧患忿激怯馁诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 9 日 闻胡展堂不辞赴香港。阴番必灭。
上午会客,批阅,往访任潮,往参沈存中追悼会,往访潘杨病状。下午会客看书(法国
革命史),与史顾问商议时事,晚议事至十二时睡。
疑虑色念忧患愧悔怯馁忿怒机心诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
复杂纷繁,至不可言。难怪二十四史以政治人物为中心也。
5 月 10 日 阴番必灭。
上午回校,看作战计划。主席纪念周讲演。下午会客,欢迎第二次全国劳动大会代表,
全省农民协会代表、教育大会代表全体千余人,讲演两次。批阅文件约百余件。晚九时回司
令部。○时睡。
愧悔疑虑色念轻浮忿怒机心诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
闻展堂昨晨潜赴香港,船中适遇精卫,是诚不约而会。冤家必逢对头也。
5 月 11 日 阴番之仇不能忘也。
上午批阅文件毕,回省访李德邻军长自广西来,定北伐计划也。往访静江兄议事。下
午假眠后与蔼士兄谈天,往访鲍顾问谈时局毕。与谭、朱、宋、张诸同志叙事。晚宴李○各
128
同志,会议北伐计划。十二时后毕,回寓。
愧悔惭惶恍惚骄矜色念轻浮疑虑支吾诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 12 日 阴番必灭。
上午会客,记事,往访静兄及鲍顾问,商议党务政局,各种难题蝟集一身,复杂艰难
日甚一日,令人无以为计,惟有竭其力之所能而已。下午会客,与静兄鲍顾问谈党务整理办
法,困难极矣。到政治委员会,晚宴李德鄰军长等谈北伐援湘事,一时睡。
忧患愧悔色念轻浮忿怒愁闷怯馁恐惧诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 13 日 阴番必灭。
遇垂危撼动之时,只有静敬二字以待,变化之来不可○忙急乱,以误党国大事也。上
午拟国民党与共产党条件,会客,议事。下午会客。元冲来粤,与静兄鲍顾问谈对共产党条
件。晚与各军官○会,十一时回。
忧患怯馁愧悔忙迫疑惧忿怒诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
忧患愈深,精神愈振,天之磨砺英雄者如此。
5 月 14 日 党国与本身存亡之际,其困难苦痛盖如此也。阴番必灭。
上午外出散步回寓会客,各界代表来见,请求解决共产党谣传事,与鲍顾问等磋商国
共二党协定事项,彼○不同意,余以至忱切言并言对共党提出条件虽苛,然大党允小党在党
内活动,无异自取灭亡,余心实不愿如此亡党条件,但总理策略既在,联合各阶级,故余不
愿主张违教分裂也。彼闻此乃允余意,下午又想变更。谭平山、张国焘二同志来见亦如此,
使人为难异甚。余几惶惑成为神经病矣。晚十二时睡。
5 月 15 日 第二次全体中央执行会开幕。
上午会客。九时同静江兄参加第二次中央委员会全体会议,推余为主席,提出修正党
务案,联席会议案及两党协定案。当余提出协定案,各委员甚惊惶,卒通过。余言过甚,终
日心殊不安,恍惚非常。后会客,休息。同蔼士兄等游白云山,宿于能仁寺。
近日心神之恍惚苦痛倍尝,然而以今日为甚。个人之处境与事理相背,心与行违之苦
痛,盖如此也。静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 16 日 闻英国大罢工已息,不知果否?阴番未灭。
昨晚宿于能仁寺。今晨五时起床登山游云岩、双溪、安其祠等处。九时后回省。十时
开会,审查整理党务案,至下午一时完毕,往访鲍顾问。余甚以两党革命,小党胜于大党为
忧。革命不专制不能成功为忧。本党党员消极抵制共产,而不能积极奋发自强为忧。彼甚动
听也。晚在寓会议军事。赴鲍公馆看影戏。十一时回睡。
色念恍惚,疑惧,怯馁,忧虑,轻浮,忿怒诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 17 日 今日通过党务整理二案。阴番未灭。
上午致唐孟潇函,会客,九时到中央全体会议通过整理案党事案后,余即自请处分三
月二十日案,全场决议以此案既不能完全发表,认余自认罪案不能成立,且通过以后,本党
完全信托余为革命重心,完成总理未竟之志也。下午休息,会客,访静江、德鄰诸同志,在
党部欢迎英国工党领袖“孟郎姆”君。晚与鲍顾问谈党事,左右为难也。恍惚懊悔色念疑惧怯
馁忿怒诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 18 日 阴番可杀。
上午记事,批阅,往吊古湘芹之太翁丧。在党部开会通过中央执行委员会选举主席案。
下午在校欢迎孟郎大佐,回省参加英士兄逝世十周年纪念。晚宴客,与静江谈天,十一时睡。
愧悔之极,竟成恍惚忡怔语无伦次之象。疑惧怯馁忿怒诸过未改,静敬澹一发强刚毅
诸箴未守也。
对于党事,实于心有愧,所以时起灰心遁世之念也。
5 月 19 日 阴番可杀。
129
上午静坐一刻。九时往党部参加全体执行委员会,通过余所提议之重新登记案及统一
各省党部案,哲生与泽东为左右派案甚起争执。下午会客,往访鲍顾问,静江兄等。到政治
委员会,晚应鲍顾问之宴毕,与鲍、宋在静家议事。失言示弱,甚悔愧也。一时睡。静敬澹
一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 20 日 阴番可杀。
上午戆忱来谈,静江来谈,九时到中央全体会议,通过重行登记案,选出联席会议代
表。下午与静江、组安兄谈天,休息后,与鲍顾问谈天,总以元冲为不然也。与静江兄在葵
庐谈天。宿于葵庐,早睡。
愧悔色念疑惧忿怒懒惰诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 21 日 阴番可杀
上午由葵庐回寓,批阅,与鲍顾问商议宣言,九时后到中央全体会议审查训令,提出
宣言起草委员会案,通过。下午与吴稚晖 、钮铁生君谈天,回寓,批阅,至夜九时方毕。
疑虑愧悔压制迷信忿怒色念怯馁诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。今日心神
稍安而疑惧更甚也。
革命须求自立,不可勉强迁就,世界革命应统一指挥,但各国革命政权仍须独立,不
能以用人行政亦受牵制。一国政治不能独立在于其不能自主也。
5 月 22 日 全体中央执行委员会闭会。阴番可杀。
改革国民党欲成为一真正不妥协的革命党,欲成为一实行三民主义之革命党,以党员
资格整理党务而非以军人干涉党事也。总理责任交给国内青年,愿以奋斗之青年替代国民党,
然而非欲党员对三民主义疑为不彻底之革命党也。如言不彻底,则俄国革命未始彻底也。不
革命一语,为宣布革命党员之死刑,闻者无不反对。革命必致破裂,应联合革命的新旧党员
对外也。上午记事,往党部参加全体会议通过宣言等案。下午往军事委员会主席。晚访吴稚
晖先生。疑惧愧悔厌烦偷懒色念诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 23 日 上午往葵庐休息,与静江兄谈天。下午往市党部报告,言多失慎。与鲍顾
问谈时局至夜十一时,回寓,会客,午夜睡。
轻浮失言愧悔恍忽色念怯馁诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 24 日 阴番可杀。
上午批阅,会客,九时后到校,主纪念周,来宾吴稚辉、钮铁生诸同志均来参观,与
雪竹、任潮谈天。下午会学生,休息,会客。河南、贵州、广西代表均来联合,忙碌,烦闷
殆甚。喜其势力浩大,而惧其基础不固也。晚为医院不良,学生与院长争执,调解之。九时
后即睡。
忧患疑惧怯馁愧悔色念客气诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 25 日 阴番可杀。
上午六时到校,朝餐后到司令部休息。[按此处约五字被贴去]十时回省,与静兄议事。
闻吴稚辉先生谈天颇乐也。下午休息,与鲍顾问谈天,拟设总司令事,改正组织法,晚宴吴
稚辉先生等,十二时睡。
疑虑色念怯馁愧悔轻浮诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 26 日 阴番可杀。
上午批阅,会客,往访组安部长,回葵庐,与静兄谈天。研究党务及大局。下午与果
夫谈天,心略舒齐,精神稍安。到政治委员会,晚宴客,访子文。十时后睡。
疑虑色念忿怒怯馁愧悔偷惰诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 27 日 阴番可杀。
上午会客,批阅,往访鲍顾问,谈肃清反动分子事。下午往高级训练班,致开学词,
主张入国民党之共产党员应退出共产党,以为集中革命势力之计也。五时回寓,入浴,伤风。
130
晚宴客,与张、谭、鲍、宋等商议时局至一时半睡。
疑虑色念怯馁忿怒愧悔机心诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 28 日 阴番可杀。
上午批阅,往访嘉伦将军与益之军长,往东校场检阅第一师,训诫毕,至党部开会。
下午往校,主席本校特别区党部选举会。晚往访子文与鲍、谭、张诸同志议事,十二时后睡。
轻浮忧怨愧悔色念馁机心诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 29 日 平冈火药库爆发。阴番可杀。
上午会客。李宗仁等不识政治复杂情形,徒怪迟缓可惜也。令人左右为难,可叹也。
客去休息。下午与嘉伦将军谈天约三小时毕,往军事委员会开会,广西湖南代表急请北伐,
议决先拨广西军费廿万元出发援湘。晚宴第一师官长。十时得长洲平冈火药库爆发,详报死
三人,伤五十人,不知天时潮湿火药旧爛之故,抑另有人暗算,尚未查明也。忧患愧悔色念
忙迫机心诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 30 日 阴番可杀。
上午拿办吴铁城,开军事会议,分配枪械,八千杆枪以七千分给各军,或可使其无异
言乎?下午与嘉伦将军谈天至三小时之久。批阅,与静兄议事。晚陪宴嘉伦。往访子文与静
兄。色念忿怒愧悔诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
5 月 31 日 阴番可杀。
上午批阅后,八时往校参加纪念周,讲话,会客。下午批阅,火雷局平冈火药库爆烈
处附近房舍皆遭损伤,惟死伤不大,又为不幸中之幸也。三时回葵庐,与静江议事,益之、
组安、果夫诸同志亦前后来谈,设立总司令部事,至十时半睡。
色念媿悔忿怒忧患轻浮诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 1 日 阴番必灭。
上午与静江兄谈天后,往党部开常务会议,通过邵元冲任青年部长,叶楚伧任秘书长
案。下午会客,批阅。晚与钮铁生先生谈革命形势及计划,十一时睡。色念未绝,愧悔时生,
忿怒无己,偷懒不戒,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 2 日 阴番可杀。
上午会客。○○顾问谈天,令人为难。下午改○○○○○与静江、组安、子文诸同志谈时局,
令我无法以持其后也。晚与静江、子文二兄研究本党本校事,十时后睡。
色念未绝,愧悔时生,客气迁就,诸病丛生,知我者为我艰难,不知我者以为不负责
任。政治军事至此难极矣。静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 3 日 阴番可杀。
上午批阅,会客,与鲍顾问谈天,电邀冯焕章来粤共商大计。下午会客,与张谭二公
谈总司令事,余惶愧力辞,推组安担任,而彼不允。各军长又推余不休,否则视为不负责任,
进退两难矣。与鲍顾问谈话,力说余任总司令负担首领责任,否则彼辞○○。晚与嘉伦将军
谈军事,十二时回寓。
忧患抑郁愧悔色念忿怒燥急诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 4 日 本日中央党部及政治委员会通过任余为总司令。阴番未灭。
上午批阅文件,会客,休息,检阅第二师,训诫毕,回寓。下午会客。与静江、组安
二公谈事,与铁生、嘉伦议事。晚记事。
忿激愧悔色念恍忽懒慢诸过未改,静敬澹一诸箴未守也。
以后每日办事,急应规定时间,不使忙闲太甚也。
6 月 5 日 政府委中正为国民革命军总司令。阴番可杀。
上午会客,往访顾孟馀同志,谈党事。下午会客,商议组织总司令部事。往沙河与入
131
伍生团讲话,回寓后与静江、子文、鲍尔廷同志谈党事及筹款方法,晚致经儿函及改正函稿,
十一时睡。
忙迫愧悔色念疑虑诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 6 日 逆生之事戒之。阴番可杀。
上午批阅,会客,改正函稿,为受第三国际之指导主张也。往访白剑生兄。正午宴第
二师官长,训诫约一小时。下午休息,晚宴嘉伦将军毕,与静江、组安、子文谈天。十一时
回寓。
色念客气忿怒愧悔疑虑诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 7 日 阴番必灭。
上午批阅,八时起程回校参加纪念周,约一小时半之讲演毕,会客。敬之由汕来省。
下午批阅,会客,终日未暇也。晚回省批阅,访静江兄,回记事。
忿怒骄傲色念媿悔匆忙诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
今日决定课程表,思实行之。
6 月 8 日 阴番必灭。
上午看政治训练部组织大纲,会客。与鲍顾问谈军政侦缉委员会系统,共产分子在本
党应不跨党理由,与取消政治训练部,归中央宣传部,或另立军事部案。下午访嘉伦,予之
谈总司令组织法及航空队聘用俄顾问事。回寓发热,高至 100 度,休息发汗,当夜退冷。
6 月 9 日 阴番必灭。
上午休养,与静江、嘉伦同志谈北伐战略,约三小时。下午看法国革命史,乃知俄国
革命之方法制度,非其新发明。十有八九皆取法于法国及改正其经验也,可宝贵也。晚宴敬
之军长等,毕,会客,十二时睡。前途茫茫,国情复杂,详思更无把握,惟一可守者数语以
为进行之方:一、消灭复杂军队;二、多用纯粹革命分子;三、歼净[按毛本党政篇作铲除]
反动势力,不嫌残忍;四、力图巩固后方,尽一分算一分也。忿怒色念媿悔疑虑伪虚机心诸
过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 10 日 看法国革命史完。阴番必灭。
打倒帝国主义,关系人民痛苦,为余一生之事。三民主义即在其中矣。上午与静江、
敬之谈天,看革命史。下午会客,看法国革命史完。办事。晚散步回,入浴,十时半睡。
忿怒色念媿悔躁急疑虑诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 11 日 阴番必灭。
今日伤风更剧。上午批阅文件,会客,下午休息,会客。闻茂如言,甚愁闷,彼总量
狭,而敬之亦所见不大也。静江、组安先生前后来谈,毕,余甚拟回黄埔,避嚣静养半日,
心○更甚。忿恨恼怒,使洁如难堪,甚悔也。用人之难,组织不惯,所以国乱而事败也。诈
伪○○色念轻浮躁激愧悔诸病未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 12 日 阴番必灭。
早起改正讲演稿。上午来黄埔休养,拟于此数日内将第三国际关系问题、中国革命总
计划及出征前后之准备三者确定大纲也。下午休养。雪竹来谈,记事。往诸烈士墓地视察工
程将毕,于心略安也。晚批阅文件,十时睡。
愧悔疑忌机心愁闷患失色念骄横诸病未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 13 日 阴番犹未灭也。
上午休息,下午写大字,似觉有趣。与静江兄谈本党问题。接经儿函,甚有进步,与
静兄阅之,晚十时睡。
淫逸愧悔疑忌患失诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
将来事○不得许多疑虑丛生,放心不下,时○○不如随其自然也。
6 月 14 日 阴番必灭。
132
上午批阅文件,参加纪念周,介绍敬之讲演,颇有所感,使人不安,是余之不能以诚
待下之过也,戒之。回部休息,下午休息。晚拟就职通电稿。十一时后睡。咳嗽不止,伤风
不愈,甚念也。
忿怒疑忌愧悔忡怔轻躁忧患诸过未改,沉涧渗浑发强刚毅诸箴未守也。
6 月 15 日 阴番其不灭乎?
今日伤风较剧,精神甚不舒也。上午批阅文件,看建国方略。下午假眠后看校史大纲。
择生来谈。晚谈天,入浴睡。
愧悔疑虑色念忧患诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 16 日 阴番可杀。
昨夜咳嗽更剧,几不成眠。今晨略有热度,勉强起来招待来宾。正午行本校开学二周
年纪念会及陈逆炮击观音山谋害总理之纪念,余演讲二次,介绍来宾,立四点钟之久,尚不
疲倦,乃知精神愈用而愈出之言为不虚也。四时行东征阵亡将土墓成立典礼,余甚感以速死
为快。盖将士之墓已成,学校基础已固,继续有人完成革命者,必在黄埔学生。总理主义、
革命事业不必要余亲手造成,留与学生完业亦一乐也。色念疑虑愧悔忧患诸过未改,静敬澹
一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 17 日 阴番可杀。
上午回省,往访李德邻未晤,回寓会客。下午拟恳亲会特刊稿。会客,李密、徐列白、
李德邻、白剑生、顾孟诸同志来谈。晚宴客,访静江兄,十一时睡。
色念媿悔疑虑要结忿怒诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
多见部属学生,少管文字琐事。
省察内情外势,统计官长升降赏罚。
调杜承志来党中服务。
6 月 18 日 约鲍送○○○顾陆○○,阴番必灭。
调制各军官长姓名,本校官长履历,学生姓名籍贯单,各军枪炮种类数目,本校存数
数,调制地图及谍报敌情兵力单,移动日期及地点,调遣官长表册,军费弹药类别表。上午
改正文稿,与敬之谈奉上对下之道,欲成功事业,须不听妇言,保持系统。与鲍顾问谈政治。
下午送李德邻军长至石围塘,回寓,会客,休息,改正文稿,晚宴敬之。十一时回寓。色念
媿悔疑虑忿怒诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 19 日 阴番必灭。
上午批阅,顾孟馀、谭平山等诸同志来会,往访嘉伦将军。下午假眠后,组安先生来
谈,批阅文件,与静江兄谈天,晚回黄埔,息心静养,颇得幽雅之致。十时后睡。
忿○○○伤其元,行蛮如此不如人矣。
客气愧悔色念疑虑诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 20 日 敬之军长今日起程。阴番可杀。
病体○愈,残贼其身,父母遗体,总理遗业。○○○○上午看建国大纲,敬之来谈,送其上
船。下午回省休息,与静江、果夫诸同志谈天,晚宴陈真如师长等。十一时睡。洁如不知治
家之道,完全如一小孩,时不如意也。
忿怒客气愧悔色念诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 21 日 香港派三凶以水瓶藏炸来行刺。阴番必灭。
上午会客,批阅文件,会议北伐作战计划,至下午五时止。接北京来电,西北军已攻入
雁门关,山西全省不日可下云。晚纳凉。十时后睡。
忿怒色念机心愧悔诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
七月一日总动员,其次序以第四、三、一、六各军为先后出发也。
6 月 22 日 阴番可杀 上午批阅文件,会客,下午假眠后批阅,○○○毒,淫荒无度,骄
133
傲慢惰,败身○○满备矣。党国危机至此,自身存亡未知,谋我者日急,而我则堕唐如此,
何以报党国而慰已死诸人在天之灵也。人才缺乏,不能善诱,只能痛责,嫌嫉如此,而能治
国乎?晚与静兄谈天后回寓。记事,批阅。
忿怒躁急色念淫欲怠惰嫌怨诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 23 日 阴番非灭不能立国。
上午静坐,看俄国革命史,开宣传委员会。下午往政治部训话毕,往东校场参加沙基惨
案纪念会演讲,回寓会客,办事,往政治委员会开会。晚宴客○子文,回寓,记事。
色念○○蛮傲愧悔机心疑虑诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 24 日 阴番必灭。
上午批阅,会客,回校点名。下午点军官第一团学生,第十队及政治大队学生名,毕,
改正宣言稿。晚宿于司令部。
6 月 25 日 阴番可杀。
上午改正宣言稿,自八时起,点军官第二团炮工经理大队学生名。下午改正告诫将士文。
晚批阅文件至十一时半睡。
色念忿怒疑虑愧悔机心诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 26 日 阴番可杀。
上午○○○○看俄国革命史。九时回省,会客,检阅第二十师。下午会客,四时与子文○○○
洞游览,是一高洲,并无山洞,欧美人住宅为多。有真光女学校房舍样式甚美也。晚回寓与
力子谈天。革命以集中与统一为惟一要件,而其基础则在下级士兵也。
色念忧患疑惧愧悔诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 27 日 阴番必灭。
上午看俄国革命史,改正宣言稿。下午在黄埔同学恳亲会主席,演说三次,晚观剧,同
学会成立,气象甚好,心窃慰之。十二时回寓睡。
色念媿悔忙迫疑惧客气忿恨诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 28 日 看俄国革命史。汉有三户,灭英必汉。
上午看俄国革命史完。参加本校总理纪念周,讲演,下午点入伍生第一团名,会客,晚
批阅文件,至十一时睡。
色念媿悔嫌恶疑虑忿怒怕烦诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 29 日 阴番必灭。
上午七时往燕塘点验入伍生并训诫之,官长能力薄弱,精神坠唐,不胜愤慨。军队如无
有精神之将领引导,必不能强也。十一时与嘉伦谈天。下午会客,批阅文件。伤风又作。既
到同学会,组织完定。十一时后回寓,睡。
忿恨○○○○色念媿悔诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
6 月 30 日 阴番必灭。
上午批阅文件,会客,参加组织委员会定本党政策及土匪剿除问题,下午与嘉伦谈时局,
往访大、三姊妹回寓,调遣接受军械人员。晚宴客,十一时后睡。
忿激色念恍忽愧悔诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 1 日 阴番可杀。
上午批阅文件,打电话不应,躁激非常,极恨国人无心肝,所部无血心,每生亡国之叹。
如何能使一般馁弱残夫振奋有为,无雷霆霹雳之威,何以能揭散阴霾沉雾耶。十时往国民政
府纪念周成立周年,毕,往第三军军官学校参加毕业典礼。二时后回寓,会客,休息,阅报,
○○○○,回寓,记事。
忿激○○○○愧悔○○骄矜诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
134
7 月 2 日 上午排事办事,往医牙科,往访○○○,往访鲍顾问,谈至下午二时半回寓,
余甚以其对党意见为不然也。以本党有历史有主义不可强勉也。餐后会客,往访嘉伦将军,
与静江兄,晚傍回黄埔,以纬国母子来粤也。
色念媿怍疑虑诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
美龄将回沪,心甚依依。
7 月 3 日 阴番必灭。
上午巡行平冈先烈墓旧营盘之经理大队,大陂地之补习班、炮兵队、工兵队乃至本校,
再至分校,回司令部,见径理大队,漫无纪律,各处宣传,多是 CP,心甚不安。拟誓师词。
下午在校办事,晚回司令部,批阅文件,至十二时后睡。
○○○○○○色念媿悔疑虑诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 4 日 阴番必灭。
起床后○○回省,会客,办公。九时后到中央执行委员会全体会议,议出师宣言、训令
党员及誓师典礼案。下午会客,会议整理兵工厂案。写孔夫人等信,往访孙老夫人及子文弟。
晚会客,与静兄谈天,记事。燥急色念虚伪忙迫愧悔疑虑诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴
未守也。
7 月 5 日 阴番必灭。
上午批阅文件,致学生信,往访鲍顾问,到全体中央会议。下午与静江、组安先生谈商
政治委员会归并中央委员会常务会议,而彼则欲常务会议归并中央政治会议。夜会议,卒以
常务会议存在而政治会议归倂也。下午会客,○○○○,会议。十二时后睡。
7 月 6 日 阴番必灭。
上午六时半,点验第二团毕,参加中央全体会议,选余为常务委员会主席。下午开中央
组织部登记会议,四时后回寓。见中山舰来电,风浪大,接械船不能到达目的地,沉没二艘。
用人不良,准备不周,中国不负责任,思之痛心。另派船去接,不知能顺利否?甚念。为此
忧闷,忙碌半天。晚与静兄谈天,批阅。午夜睡。惭惶忿怒色念怕烦灰散疑虑诸过未改,静
敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 7 日 我灭阴寇。
上午办事。点第七团士名兵,毫无纪律,且无仪容,见之忿恨,大加申斥,至十一时回
寓。为接械事忙碌愁闷,以风大小船不能出口,而该舰又大不能进来,时日延久恐被洩漏也。
到组织宣传会。下午会客,对政治大队训诫。访组安先生。晚宴客。十二时睡。
7 月 8 日 阴番可杀。
上午记事,点第四十团名,训诫毕,回寓,会客休息,下午为玉龙办事,糊涂不从命令,
忿恨非常,痛斥不止,尝以为国人性情馁弱糊涂,不自研究进步,只有亡国。若不能振之以
猛与严,尚有济乎?与鲍顾问谈天,谈外交与土地问题。访朱军长之后,往黄埔与纬儿散步
解愁,晚九时睡。
忿恨色念恍惚愧悔怠惰诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 9 日 本日就总司令职,并誓师。阴番可杀。
五时卅分起床,同纬儿由黄埔回省,阅报,九时就国民革命军总司令职。在东校誓师。
群众到者约五万余人。吴敬恒先生代表党部,谭延闿先生代表政府致训词,授印旗。下午休
息后,阅报,批阅文件。晚公宴,十二时散席回寓。
今日不见总理亲授印旗及训诫,反使我领导革命,悲痛惶恐之至。
7 月 10 日 上午记事,点验第四团花名,宪兵教练所毕业训话。下午休息后会客,与
静组二兄会议中央常务会议及政治会议名单,政治委员会不取消而停止归并政治会议也。会
客,批阅文件。晚会客。嘉伦同志报告其飞机及器械到齐也。今日见洁如治家无力,毫无教
育。又见上海伪党部评论整理党务案,以余为众矢之的,不胜沉闷,忿激,而终日忧惧。慌
135
忙愧悔疑虑色念诸过未改正,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 11 日 阴番必灭。
五时后起床即点验第五第六两团,至正午毕。下午访泳安、嘉伦诸同志,接唐孟潇总指
挥昨日午后三时占领长沙之报,五时往长洲休息,晚早睡。
7 月 12 日 阴番必灭。
○○○○○○上午在校主纪念周讲演后,即到总司令部主纪念周毕,理事,蒋鼎文团长失却
贰万元饷项,不胜疑虑。下午假眠后会客,往静兄处会议关于中央常务会议政治会议人员问
题及解决罢工会议、北京关税会议之对付方法,余以关税会议为卖国条件,决心与吴佩孚宣
战,通告中外。晚办公。九时后睡。色念疑虑忿怒愧悔诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未
守也。
7 月 13 日 阴番必灭。
五时后起床,改正讲演稿,九时后往中央党部开常务会议,就主席职。至十四时半始闭
会,回寓,改正稿件,七时方毕。晚入浴后往访子文及静江兄。十一时后回寓睡。洁如○○
骄矜,岂余有不德乎?
诸过未改, 诸箴未守也。
7 月 14 日 上午批阅文件,召开宣传委员会,议决战地民政财政处置事项。下午休息
后会客,往总司令部办公,会客,晚主席同学会常务会议,以对汪之感想及事实,为干部言
之。十二时睡。
色念忿怒专横愧悔忧愁疑虑忙迫诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
受经济束缚苦痛忧患无已。人才缺乏,事事受窘,可叹也。
周公恐惧流言日,王莽歉恭下士时之句,不胜古今同辄之感。历史与舆论皆非事实也。
7 月 15 日 阴番可杀。
上午改正稿件,在中央党部开政治会议,下午往总部会客,办公,与嘉伦商分配械件事。
晚与岳军谈天。十一时后入浴睡。
色念○○○○媿悔忧患拙呆忙迫诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 16 日 阴番可杀。
上午改正讲演稿。中午往访嘉伦将军,回寓,会客,下午休息后批阅文件,往总部办公。
宴会,十一时回寓睡。
今日○○非常,色念疑虑愧悔淫佚诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 17 日 阴番必灭。
上午批阅文件,往中央开常务会议,推静江兄与组安兄为常务与政治会议代理主席。下
午休息后与鲍顾问谈政治军事与党务问题。晚宴客,十一时回睡。
色念○○○○○智忿怒愧悔骄横诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 18 日 阴番必灭。
上午会客办公,十时后往黄埔休息,下午休息后与纬儿讲笑话。晚早睡。
7 月 19 日 阴番必灭。
上午批阅文件,主本校纪念周席,并到欢送会讲演约一时余,下午会客,批阅文件,四
时回省,在总部会客,办事,晚会子文,回寓后以伤风早睡。
忿怒○○○○疑忌色念躁急诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 20 日 阴番必灭。
本日以伤风发热精神困疲,终日休养,改正讲演稿及告华侨书。
骄横忿恨嫌恶色念媿悔躁急诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 21 日 阴番必灭。
上午会客,办事,会议,下午看俄国共产党史,撰我少年轶事。晚会客。十一时睡。
136
懒慢躁急愧悔色念骄矜诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
我政府与阴番于十五日正式开参解决省港罢工案会议,而昨日阴番挑衅,特拖小火轮至
深圳华界破坏纠察队检查仇货,纠察队即将阴番二名及火船扣留,彼蛮番不问理由,即将我
深圳车站派兵占领。事之可耻,孰甚于此。
7 月 22 日 阴番可杀。
上午得阴番占领深圳之报,不胜愤激,乃与鲍顾问磋商诸事,到中央政治会议报告军事、
党务、外交详情毕,往航空处参加开幕礼。下午休息后往访嘉伦将军,到总部办事,晚办事,
十二时睡。
犹豫客气忧虑慌忙愧悔色念骄矜诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 23 日 阴番必灭。
上午批阅文件办公,下午以戴立夫不得余命令而交代军械库长,令余为难,不胜怨恨愤
激,怒辱其不堪暴躁暴横已极,不改必败也,切戒之。与鲍顾问谈革命方略及政治主张,彼
以余言为然,而犹以土地问题缓提为念也。晚宴上海商人代表,十一时后睡。
躁急慢横侮辱愧悔色念忙迫诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 24 日 致溥泉信。阴番可杀。
上午办公会客,往访谭○斋未晤。往访古勷勤,回寓。下午会客,与静江、组安二兄谈
政治进行方鍼,与王盛二代表谈总工会与工人代表会又起纠纷,工人代表在党部要求扣留陈
森不休,各常务委员无法来见余后,余准其将陈森随传随到,始了事。晚来黄埔,与纬儿谈
天,早睡。
骄矜躁急侮辱愧悔色念忙迫诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 25 日 阴番必灭。
上午往烈士墓地观察工程回要塞部休养,整书。下午记事,回校整理函件,收拾一切,
为出发准备也。四时回省,在总部办事。往访登同未晤。晚应党部与政府出师公饯演讲,略
带骄矜之意,戒之。
忧虑躁急色念客气,侮辱愧悔诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 26 日 闻石井兵工厂罢工。阴番必灭。
上午会客,写同学会信。下午主总部会席,办公,属托后方事务,为战费事。子文吝刻,
使人难堪。晚应子文宴,与鲍顾问谈天,静江兄谈天。二时后睡。
忧患愧悔疑虑色念诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 27 日 阴番必灭。
六时起床会客,整装。七时半由东山寓中出发,八时半到黄沙车站,同志已来站,鹄候
多时矣。纬儿能送此行,我心甚乐,而离别亲友未免有感,含泪痛别,足征心理之强健,不
如从前也。九时半开车,车中看俄国共产党之建设[毛本改为看书]。六时到达韶州,各界来
站欢迎者已满矣。○○共产党之建设感言。寄果夫信,晚会议。
7 月 28 日 阴番必灭。
三时后起床整装,本定四时由韶州出发,应副官办事生疏,而其处长又病迁延,至六时
催迫出发,方得起程,出北门,经布头,居民约五百家。午后三时始达盔头村之东,乃一龙
门[按毛本作韶关],对乐昌之防御阵地也。驻于兵站,批阅文件,复蔼琳函。伤风又作矣。
晚九时睡。轿夫贪懒,佣人无用,司令部办事紊乱无状,行军次序纷乱,不胜躁急。
忿怒蛮骂色念媿悔诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 29 日 阴番何日可以驱逐。
三时起床,本定四时出发,又迟延至五时方能起程。途中甚热,骄伕皆病,只有步行,
约二十里,正午至乐昌城,途经八里碑及杨溪等处,土匪放枪示威,胆大如此,可恨也。下
午休息后中餐,与嘉伦将军谈天。副官招待不周,斗室陋狭,行李迟缓,心甚抱歉也。晚旁
137
阅城街狭家密,城堞砖建而高度约有丈五也。晚与建生谈天。十时后睡。疏忽散漫躁急疑虑
色念媿悔浅薄诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 30 日 阴番必灭。
七时后起床,以洁如无了,心甚懊闷,致函规之读书治家。十时后对行营人员训话,以
时间与空间(即地点距离)为办事之原则,而其方法,则分轻重缓急与先后也。组织系统范
围与统计亦为办事方法之要素也。下午休息后,看邓文仪由俄来信,其中以土地制度为重要,
土地制不外土地国家外(即归国有)与土地社会化(即归社会分配),如太平天国制是也。
余复之。记事。其言军队,为青年人民之学校,余深惭有意而时不及也。愧悔色念客气怨恨
机心诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
7 月 31 日 对总理失敬,记大过一次。阴番必灭。
二时前起床,早餐毕起程,由乐昌城北门行卅里至风门坳,其路阔度约有丈许,斜度并
不大,由是坳行十五里至牛颈坳,二坳相连,路亦可行也。十时半到达九峰村,由乐昌至此
约六十五里,其地有学校,学生皆俊秀,不如其他山中人也。户口仅百余家,惟沿途人烟颇
密也。休息后,对军民联欢会演讲。看建国方略。记事,愧悔色念疑惧机心诸过未改,静敬
澹一发强刚毅诸箴未守也。
近日甚思研究土地问题,有一解决之方也。
8 月 1 日 阴番必灭。
零时一分起床,早餐,一时由九峰出发,道途崎岖,行军不易,六时后上山,径经青草
岭、鱼岭关时,已八时,路之阔度约有三尺至一丈余,山岭亦不甚高也。十一时后方达塘村,
其地名为黄圃,宿于高小学校。村家整齐,似甚富庶。由九峰至塘村,足有九十里之多,皆
在谷中,惟到塘村之前,松木茂盛,沿途林立,令人起天童之感也。下午休息,看建国方略。
记事。动手打人,骄矜蛮横,毫无耐力,甚至误打僚友,暴躁恍惚,疑惑色念诸过未改,静
敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
8 月 2 日 阴番犹未灭也。
一时前起床,由塘村出发,行十里,经界牌岭入湖南境,经平和村[按毛本作和平村]至
良田,道途宽阔,山岭不高,程度之长约八十里,沿途乡民欢迎,竹爆之声不绝,途中乡村
似甚整齐富庶也。十一时到良田,各界欢迎于十里郊外,甚感也。驻宿于山中高小学校。赴
欢迎会后,休息,五时起床拟电稿,情形复杂,应付为难,军队旧习未改,派别纷烦,终无
革命精神,以之而欲求彻底改造难矣。色念媿悔机心疑虑躁急诸过未改,静敬澹一发强刚毅
诸箴未守也。
8 月 3 日 失马是福,特恐不能失而反扰耳。五时前起床,整装起程由良田至彬州[按
毛本作郴州,下同],沿途民众欢迎,爆竹“必发”之声不绝于耳,各村人民与农会有迎于十
里之外者,殊可感也。农民协会组织尤其发达,将来革命成功,还在湖南为最有成绩,而军
人尚梦梦如前,可不惜哉。到城中,各户爆竹欢声雷动,于心窃安也。休息后中餐,由良田
至彬州四十里,道途平坦宽大,地方丰饶,大非昔日所想像之彬州也。
8 月 4 日 阴番必灭。
昨晚到会群众约五千人,讲演约卅分时。上午拟电稿训令,约六七通。九时后登苏仙岭,
在苏仙庙过午。相传为汉苏耽在此成仙,旁有沉香岩为其升天之所云。麓下有白鹿洞,以苏
耽有白麓养育于此洞云。四时参观楚义帝墓,在孔庙之后,现成为小丘林[按毛本作丘陵]矣。
晚到党部讲演约一小时,回行营,批阅。第一军纪律堕落日剧,愤愧无已,今日严电三通,
不知有效否?精神不贯,职务太多之弊,足以败亡党国也。○○愧悔疑惑色念躁急诸过未改,
静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
8 月 5 日 复唐电。阴番未灭。
138
三时半起床,四时半由彬县出发,经马头岭,看建国方略。十一时到棲凤渡,约有二百
家,其地为通衢要道,驻于神农庙,宜于练兵也。休息。下午三时到联欢会讲演,到会者约
有千人。回行营,入浴,看书,与李仲公论川滇黔事颇○。晚与嘉伦将军谈论攻鄂攻赣之战
略,彼甚顾虑到武昌后为帝国主义所妨碍,故须多加兵力,对赣暂取守势也,余赞成其说。
十一时记事,睡。色念媿悔疑虑躁急忿怒诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
8 月 6 日 阴番必灭。
总理之物质建设,完全以国为家,奈何余时时以家为○也,可耻,改之。二时四十分起
床,三时由棲凤渡起程,行至十里许之金陵镇,尚未拂晓,即有群众鹄候郊外,观者道为之
塞。略坐,讲演即别,鼓声爆音声振数里,是诚可谓真正民意矣。过油榨圩,远方来者在四
十里之外,可感也。十一时半到达公平坊,夹道欢迎。民意殊可感也。自棲风至公平约七十
里,道路平而狭窄,耕作与森林茂盛也。下午○○研究地图,批阅电文,记事,途中看建国
大纲。愧悔色念恍忽疑虑贪失诸过未改也。十一时后睡。
8 月 7 日 志在灭英番
二时半起床,三时出发,有沿途民众,未至拂晓,皆鹄立欢迎,可感也。途中看建国方
略。十一时到达来(耒?)阳城,欢迎甚盛,应酬士绅后休息二小时,看建国方略物质建设
完毕。此○○○○经济为基础,而以科学方法建设一切○○建国者必需之学。总理规划在前,中
正实行于后,以成总理之志也。入湘以来,为其当道怀疑恐怖,拒之不得,迎又不愿,余以
至诚感之,今稍谅解矣。晚到联欢会讲演。今日疑虑愧悔色念骄惰诸过未改,静敬澹一箴未
守也。
8 月 8 日 阴番必灭。
昨夜八时后由耒阳登船之前,闻党部藉党营私,毫无意识,痛斥其干部未免为客气所蔽
也,戒之。今日在船中看建国方略之心理建设,全部完。甚矣!○○○○○○大矣哉!非总理孰
能阐明无遗也。水浅滩扩不能速行,未免闷闷,沿途风景情形无足纪者。夜间以时常开战,
不能熟睡。惟闻钟声稍解旅梦之迷昏耳。
8 月 9 日 就职已有一月,今○○○连衡○○,德业日损,悔疚丛生,上对总理,下对士兵,
反躬自省,无不愧悔。其原因乃在骄○○○○四字。以后应勤敬澹诚为○○于○○○○加注意也。今
日在船,拟宣战宣言,勉强草就,文不达意也。沿途无所记述。惟耒河淤寨水师窳败,船常
搁浅。各省病民舞弊之情形,如同一辄,此之何革命能成耶!怅叹无已。六时后将到衡阳,
离此尚有五里路程耳。七时到耒河口入湘江,来迎者甚众。沿途鸣炮敬礼。到衡阳城,各界
鹄立欢迎已终日矣。如此盛暑招待心殊抱歉,不知何以报答民众,名浮于实,慎之。驻于旧
考棚即督办署也。接报知飞机误落吉安,心甚愁虑。向民众致敬答谢。
8 月 10 日 阴番未灭。
六时后起床,择生来报告长沙近情甚详。会客。免除团长三人。 本军精神堕落已甚,
恐难救药,可叹,愤恨不堪。李德邻军长来谈甚久,乃知孟潇一决心革命,可喜可贺。下午
与夏曦谈天,李德邻谈天甚久,德邻为一血心之军人也,与之订盟。休息。○○到欢迎会,
民众到者万余人,沿途观者○○○○○不避炎热,甚感。要急色念媿悔○○客气未改,德业不讲,
静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
8 月 11 日 阴番犹未灭也。
昨晚十二时由衡州搭船后就寝。今晨六时起床,船中拟电稿数通,看俄国革命史[按毛
本删俄国革命史,以书字代],甚觉有益也。晚十时半到株州,唐孟潇军长等同志鹄立江干,
候驾者已多时矣。三时到长沙,群众五万人在盛暑中鹄候至午夜,忍饿耐渴,殊足感激、歉
惶。入交涉暑驻节,宴会毕,已四时半矣。
今日色念媿悔客气诸过未改,德业未守,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
8 月 12 日 阴番未灭。
139
昨夜睡时已四时余矣。今晨七时后起床,往访唐孟潇军长,谈至十一时,回行营,会客
谈天○○,下午一时后休息,四时起床,记事,看书。晚主席军事会议,决定作战计划,攻
击开始日期。○○已○○○与陈真如师长谈天后睡。初到长沙,惟感民气之盛,革命精神之浓厚
与紧张而已。不到其地以为诸多困难,一到,难境其难若失,可知决心与精神之不可失与不
可畏难退避,则难自退避矣。
8 月 13 日 阴番必灭。
昨夜一时后睡。今晨六时起床,会客。八时后应市民大会欢迎,到者约数万人,讲演一
时余,回部○○。下午应湖南省党部招宴讲演约一小时,回部,会客,看书,休息,晚○○○○○
军长,十二时回睡。
愧悔躁急疑惧色念懒惰诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
8 月 14 日 阴番可杀。
六时起床,往阅第七、八两军军队,训诫约一小时。回途以马生胆小乱跑以致捣[倒]下,
幸未受伤,然而到湘,初次阅兵,未免愧悔也。回至总指挥部,宴会,讲演约一小时。下午
二时至省党部参加执行委员会讲演,七时至党员大会讲演约一时余。今天演讲四次,精神如
常,可慰也。愧悔色念诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
8 月 15 日 阴番可杀。
五时后起床,记事,七时乘车往株州检阅第一第二两师,训诫至二小时之久,喉为之哑。
下午三时半回长沙城,与嘉伦同志谈天,休息,会客。晚唐孟潇军长来○○○○往访李德邻军
长。回部已午夜,与嘉伦将军谈天,修正宣言,至一时半方睡。
色念媿悔忿激怨恨机心诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。。一见卫兵心恨,凡
事不能忍耐,实平生之大病也,戒之。
8 月 16 日 阴番必灭
六时起床,修正宣言,七时主纪念周毕,修正宣言。九时应湖南省党部第二次代表大会
致祝贺词。下午休息,修正宣言,会客,○○○○○○后与嘉伦将军谈天,至十二时。闻十五日
西北国民军已占领北京,吴系阁员多被拘捕,如此则国内形势又将起一大变化也。奉宁二方
皆须注意。
8 月 17 日 阴番必灭。
六时起床修正○○○○○○孙传芳电稿,会客,唐孟潇军长来谈。孙传芳派员来湘,想以旧
○○○来勾结也。下午会客,休息,宴会第○○官长后,批阅,晚开外交委员会至十一时散会。
德业○○不注重,反增卖智弄巧之过。愧悔色念忿怒骄惰诸过未改,静敬澹一发强刚毅
诸箴未守也。
8 月 18 日 对岳州总攻击开始。阴番未灭
上午静坐,会方耀廷军长毕,令白参谋宴请,而孙传芳之代表适在座,为其所知,余之
疏忽不能慎密至此,可叹!何以成事,戒之。拟电稿数通。前后各处习惯风习染恶太深,何
以能滌肠荡胃,移风易俗,使之戮力革命耶。下午送唐孟潇总指挥出发。总部迁驻前省署,
晚宴会,十一时○○。
忿恨色念媿悔诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
8 月 19 日 何以能顺应环境,打破难关。阴番必灭。
醒后思虑处置之难。起床后,排办事日程,拟电稿数通,记事。往送方耀廷军长。往游
岳麓山,拜谒蔡松坡、黄克强、郭崑涛诸先烈墓以蔡墓地佳为最优○○。黄庄午餐,游云麓
宫甚小○○○○○○便游万寿寺,残破不堪矣。岳麓○○○改为湖南大学,李北海岳麓寺碑尚在也。
湖南人才皆出于此。曾国藩与石达开皆由此出身也,学生坚邀予讲演,予应之。回途遇大风,
至行营已七时许。得前方战报,知已过汨罗河,正在追击中云。夜与嘉伦议事。
德行不讲,色念加浓,骄忿未改,愧悔丛生,终为落伍者也。
140
8 月 20 日 第四军占领平江县城。陆云旅在浯口全为我第七军缴械。阴番必灭。
上午记事,办事,批阅,宴第一师官长,训诫二次,会客。得粤电知后方有迎汪之谋,
代行者亦有此意,或另有他谋,以为倒蒋之本。余思虑再三,必难实现,故置之不理,凡遇
不可测之变,只有听之。下午见第一师窳败萎靡,不胜忿怒躁急,不止一次,外伺者如此,
而本军又不争气,是诚欲哭无泪矣。忧患与日俱增也。往省党部听报告,晚痛骂师团长,恨
极矣。○时后睡。
色念客气忿怒○○○○愁闷懊恼诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
8 月 21 日 阴番必灭。
六时前起床,往径东门外点名,十时后回部,见军队不良,忿恨无已。记事,○○办公。
下午闻飞机三架误落于宝庆,伤人损机不知如何程度,不胜愁闷,幸炮兵团已到,稍舒郁积。
方本仁军长今日就职事。与嘉伦将军谈战略。闻居正、谢持皆谋离间樊钟秀等与本军之举,
彼诚反革命矣。晚与择生谈天,十时后睡。
愁闷忧虑,机心色念忿怒散漫愧悔诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
8 月 22 日 十七时第八军危团克复岳州城。阴番未灭。
上午记事,排事,会客,往省党部开联席会议,至十四时回部,拨左上边牙,幸无○。
阅报见章炳麟讨余文,殊为可笑。测其心意怕与恨也。与嘉伦将军谈天,心滋抑郁。晚商议
作战计划及对闽兵力之运用。何敬之来电欲调第廿师赴汕增防也。十二时后睡。
忧患与日俱长○○○○○○若不发强刚毅,何以自○○○○○○疑虑色念懦弱散漫诸过未改,静
敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
8 月 23 日 阴番必灭。
处境之难,时生○○。天下办○○○而成之事。上午主纪念周,批阅,拟电稿数通,定战略。
得电知南口西北军已于十三日退却,不明真相。吴贼或来武汉指挥其残部,幸岳州已下,贼
胆已破当无问题。下午开经济政治委员会,与建生谈时局,阅向导报,陈独秀有诽议北伐用
意,以减少国民党信仰,而增进共产党地位也。此后入于包围之境,惟有奋斗自强耳。怯懦
恍忽愁闷色念媿悔忿恨诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
8 月 24 日 阴番犹未灭也。
近日忧患日深,耻辱日增,军队之不争气,办事之不奋勉,所以乐少而忧多也。忧为乐
之本,排而去之则心体自舒矣。上午复电,定作战计划,拟训令,时觉愧悔。下午假眠不成,
愧悔○作,怯懦○长,办事应须发强刚毅也,何懦弱为哉?与嘉伦将军谈天,会客,晚早睡。
德业不进,趋○○○萎靡○○惭愧忿满诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
8 月 25 日 以志帅气,以静制动。阴番必灭。
上午批阅完,往省党部报告,回部,阅本校全体党员请汪销假之 箇电,不胜疑虑,从
中必有人操纵,决非全体之真意。自生以来,郁结愁闷未有甚于如今日者也。前方敌军未灭,
而内部精神未能团结,后方乃有此迎汪倒蒋之阴谋暴露,而本校学生亦中其毒,天下无是非
但有狡诈而已,尚有何言。萎靡不振已极,愧悔忿满无附或已,用人之不慎,交友之不择,
乃至于此,可不戒哉。晚宴各界同志毕,入浴,早睡。
8 月 26 日 阴番未灭。
上午寸衷郁结。看嘉言钞及菜根谭,之知天下○邻邻,而吾所处者短,则横逆困穷之○○○○
忍以待其定。又曰逆来顺受,居安思危○○○○○应以大无畏之精神,与此横逆决斗,亦应适应
环境,破此难关也。将其○而就之,则天下无纷争矣。下午假眠不成,终不能释然于怀也。
批阅,办公,阅报,○○。
闻吴贼佩孚已来汀泗桥督战,余亦亲至蒲圻,前方欲与之对垒,但望其不速退,决一大
战耳。
8 月 27 日 阴番必灭。
141
上午一时后起床,二时由长沙出发,各团体来站送别人数与欢迎时相差,深夜远送,殊
可感也。六时后到汨罗江,以铁路破坏,故停顿三时,该江之阔约在六百米突,水浅时可徒
涉也。下午二时后到岳州站,洞庭湖水色连天,阅之心目俱爽,不过看其一角耳。到岳未过
车,直来蒲圻。正在计划时接报,知汀泗桥已于本日辰刻为我第四军克复。吴贼虽亲来督战,
亦不能对敌至若干时间,甚可惜也。晚谈至午夜二时后方睡。今日抑郁愁闷之状,比昨(原
文为“较”)日稍减。以适应环境之心既决,可得逆来顺受之法也。惟愧悔未减,恍惚时现耳。
8 月 28 日 阴番未灭。
上午记事,后往访孟潇兄,回车看书,下午李德邻军长来谈,甚乐。孟潇军长亦○○○○○
与德邻兄谈天,十时睡。
同床异梦,貌合神离,焉能对外。精神萎靡,心事阻顿极矣。愧悔恍忽疑虑诸过未改,
静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
8 月 29 日 阴番必灭。
上午批阅文件。知孙传芳确已派谢鸿勋等部于二十日在九江登陆,向修水前进,攻我通
城,乃即命第六军在现地停止待命。由蒲圻开车至咸宁,经汀泗桥,但见死尸累累,触目伤
心,乃知此次战斗之激烈也。下午五时至咸宁,与各高级官长商议作战计划,甚虑湖水之大,
正面之隘,兵力难展。闻吴逆本人在纸坊,其防御线则在贺胜桥。据土人言,自古无此大水,
恐吴逆已决金口与樊口之堤也。晚回汀泗桥。余决心亲督江西之战,以避名位也。近日忧患
日甚,几无乐趣,盖神明不安也。
8 月 30 日 阴番未灭。
今日十时卅分克复贺胜桥,离武昌城不过数十里而已。此心烦闷郁结比前昨更甚,前后
方皆有隐忧而肘腋之患在在皆是,不自由毋宁死,吾之地位进退维谷,放弃责任,其谁能负,
而他党在内倒[捣]乱。必欲使本党纠纷分裂,可恶也。以志帅气,以静制动之箴尚其守之。
用人不慎,审事不密,终必一事无成。愁闷○○○○萎靡诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未
守也。
8 月 31 日 ○○○○
前方胜仗愈大,武昌距离愈近,而忧患程度亦因之愈深,近日几乎无一些乐趣,但有愧
惶悲痛而已。思去愈切,而责任愈加,关系愈杂,则愈无辞退之法,恨不于二次克复东江后
离去也。接鲍交张、谭转来之电,其限制革命军发展,防范本党扩张之心显而易见,悲乎?
何中师逝世如是之速耶,而使吾辈后死者困穷怜惜至此耶。本日看东方杂志,批阅文件,与
嘉伦将军谈天一次,彼对攻赣尚有犹豫之意,而余则决心入赣也。晚会客。闻炮兵团与卫兵
角斗,纪律废驰至此,恨甚。
9 月 1 日 阴番未灭,武昌犹未下也。
今日接后方电,倒乱阴谋毕露,而武昌城敌闻有守城之势,不胜疑虑。上午决定各种处
置及攻赣计划,下午看书虑事,几无丝毫欢乐之意也。晚○○睡。
9 月 2 日 阴番未灭。武昌○○
武昌陈逆嘉谟据城,死守待援,闻之焦灼。持久之后,恐江西敌军又来侧击,决下攻赣
命令,定本月五日开始前进,并调第一师参加作战,如此第一军第二师参加武昌战线,而第
一师攻赣,破坏建制,后悔已无及,凡事不能熟虑断行,为人所轻,中人之计,可耻也。用
人不能审慎,在在为人利用,欲利用人者,未有不为人所利用也。十一时由蒲圻乘车出发,
下午七时到纸坊市,会唐总指挥,乃知攻城计划已定,心颇安适。晚二时睡。
途经贺胜桥,臭气冲天,吴贼当退却之前,阻止其士兵后退不成,乃杀官兵数百人于桥
边,可惨也。
9 月 3 日 武昌犹未克也。
142
上午专候攻城结果报告,始接电话言已有一部分进城,信以为真,及至第七军部,乃知
电话传误也。下午由南湖学校巡视至洪山麓视察城墙及城内民情后,回南湖学校会议,至十
时半散会。身疲力倦已极,后回车中就寝,已过午夜矣。
愧悔惭惶耻辱忿恨愁闷诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
9 月 4 日 阴番犹未灭。
七时前起床,意兴萧然,几无丝毫乐趣。作事最难是同床异梦,而后方捣乱为尤甚。后
方动摇精神打劫,影响于前方者,比之前方○○为甚。吾今竟处于四面楚歌前 挟攻之境,
耻辱悲怜,痛苦抑郁之情未有甚于此者也。最恨以下凌上,使人难堪也。如此奇辱,岂能忘
乎?唐孟潇言第二师非调赣不可,是何言耶?下午往前方第十第二各师部巡视训勉攻城部
队,对刘师长言,如不争气,不能见人,虽积尸叠城亦所不惜,非奋勇攻城,不能维持光荣
也。
9 月 5 日 阴番未灭。
上午得报谓本早总攻击无效,各部不能入城,后至文科大学,未几得电话报告,第六团
确已入城,此心始慰,信以为真也。直接报告皆言如此,即回李家楼,车中休息,下午三时
犹言如此,然终未得确息。乃与白建生电话言消息不确,恐未入城,不胜愁虑。有生以来,
愧悔愁闷未有如今日之甚者。少顷程潜又来辞职,以不愿受益之指挥,且他人言播弄耳。事
至于此,可为拂逆矣。晚往文科大学会议,二时回车睡。
9 月 6 日 占领汉阳城。阴番
上午与嘉伦将军议事,下午开军事会议,决定第三次攻城计划后回车。午夜与嘉伦谈天
甚叹此次处置之失,当第二师之不争气,愧悔耻辱,忧患共痛之忧,莫甚于此也。
9 月 7 日 阴番未灭。
终日忧愁悲愤抑郁惶愧,莫甚于此也,及得右翼报告,言萍乡已占领,各军已如计开始
前进,以六日辰刻停止命令无效而今又下进攻命令反覆,使人无从遵守,自失其效,愧悔无
地以自容也。晚与嘉伦将军谈天。
拂逆之境未有甚可此者。
9 月 8 日 耻辱已极,如不发奋图雪,诚非人矣。上午接孟潇总指挥函,其意不愿余在
武昌甚明也。与嘉伦、择生等谈天。下午与先云谈天,意气稍宽。与真如谈天。此○○○闷甚
矣。自古任大事者,或其拂逆较今日为尤甚也。武昌未下,江西开战,兵力不能抽动,运用
不灵,手无一兵,如此大军作战,而无总预备队,一方战事未了,而他方又攻,心思不定,
精神打劫,乱我方寸,欲求自全,更不能矣。
9 月 9 日 本日第六军克复修水。
一、请顾鲍;二、发训令;三、金库长;四、收俘虏。武昌犹未下也。
上午接总商会复函,要求宽限城贼投降条件,即令唐总指挥办理一切。○○○○谈天。下
午见商会代表犹言城逆刘玉春残杀民众,态度顽强,余只求解除人民痛苦,如逆刘能早开城,
当可宥宽答之。阅报,会客,晚会客。得赣州六日克复之报。孙贼派其主力第二师及卫队援
赣,彼之死日将到矣。今○○○○适,而忧惧惶愧疑虑耻辱○○○○诸过未改,静敬澹一发强刚毅
诸箴未守也。
9 月 10 日 武昌○○○
今日沉闷已极。孙贼传芳援助城逆之计显见,城贼更强更甚似无降意,坑道未成,攻城
尚无把握,顿兵城下,老师挫锐,而第二师长指挥无能,致该师损伤不堪,又耻又愧,又恨
又悲,平时用人之不考察,临时决策又无果断,为人所制,为人所侮,拂逆至此可不叹哉。
会客,阅报,斥责刘师长之无智无能,余自悔无主见,如当时决出江西而以武汉委人,如此
不争不夺,岂不美哉。沉闷忧患,与日俱增矣。
9 月 11 日 一、电益之,二、复程唐函,三、复王函。武昌未下。
143
今日沉闷如故,惟闻商会已允交款,则此心略安,会客,阅报,受外人轻侮几不能忍,
受所部逼迫愧悔无已,为人将者不能沉机观变,又无容人之量,一意躁急疑愤以致偾事,自
无主见,自不密慎,自不敬畏奋发而徒怨人之侮辱,何益哉!此后对于静敬澹一之箴宜时时
念兹不忘,天下决无便宜勉强之事可以速成也,今后知防人之心不可无也。
9 月 12 日 武昌
本日阅电文及报纸,会客,○○事实非余所能也,烦杂愤闷不○忧患抑郁不减于昨也。出
言不慎,思虑不周,为人所轻,为人所侮,皆自召之也。愧悔无及,夜○○○○。
○○○○预定,须观察情况,○○○后断○故曰物来而顺应也。此次失着皆在逆料失当,任人
不明,既不能沉机观变,又不能果决断行,未有内部不固而能胜敌也。
9 月 13 日 一、发陈函,二、发对闽电,三、发对赣电,四、问伙食。武昌未下。
今日又过了一日,沉闷悲伤不减于昨,惟拂逆之来报谈,聊解忧愁患难,拂逆之来惟有
沉机之以待其变,不可妄意揣测,愈思愈乱也。○伯钊来谈甚○,阅报,批电,今日之忧患,
或为锻炼事业之机,不可以一挫自馁,且现局并未坏败之端。亲统之兵,足有五师,学生不
计也,如此基业如能发奋图强,何不可为,奈何以受辱见侮而自退也。昔日先总理蒙难永丰
舰中,比之当时之沉闷如何耶?然而无此耻辱耳。
9 月 14 日 上午以军需无能,受某军强迫,由部员教唆,不胜愤激。下午会议作战方
针,余决离鄂向赣,不再为冯妇矣,否则人格扫地殆尽,所为者本军不能争气,王茂如又无
能干,致受人侮,堪叹。晚接静江、组安二公函,知奉方将来联我,孙逆吃紧,故使各公团
求和,来电,余姑复之。江西方面各军报告甚少,修水似下而未下,不知究竟如何耶。忧患
忿激耻辱如故,堪怜也。静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
9 月 15 日 本日第八军占领武胜关。武昌未下。
上午择生来谈,后与嘉伦将军谈,第二师决抽调至江西方面作战,攻城不能急遽也。下
午假眠不成,看报,与嘉伦谈天,致克拉○○○函。今日心地未有如昨日之闷,然耻辱忧患愤
恨未有减也。革命至此,可谓悲矣。压迫牵制,监视之难堪,岂能谓之革命乎。
9 月 16 日 一、致宋电,二、会议,三、陈委任,四、政治会议军事。武昌未下。
上午闻第四团在敌前通过,撤退为敌发现,开炮轰击,死伤十余人。又为他军轻侮,如
此官长,如此军队,徒失威信,增耻辱多罪戾而已,恨甚,叹甚。办公,拟电稿,下午批阅
文件。田梓琴、○道腴老同志来谈,其语诚老不堪入耳,会议去后,处置设临时湖北政治会
议。唐孟潇等来谈,至丑夜方去。参谋参他人之谋,顾问亦然,内心向外,独力支持,外敌
不患不治也。事事制肘,左右异谋。吾之无能,一至于此,可耻可叹。持志养气,沉机观变
之箴未守也。
9 月 17 日 整齐严肃专静纯一未能也。武昌未克。
上午与择生谈天,得孙传芳求和电,疑信参半,其必奉军南下乎,无论如何孙逆之思想
顽固,行动取巧,不败者也。余照例复之,令其先撤援赣之兵,以表示诚意。下午假眠,阅
报,会客。此心比昨日略舒。此其或苦中换得乐来乎!武昌未下,江西激战,内部复杂,肘
腋生患,有何乐耶,晚○○○○○○○恨机心妒嫉诸过未改,静敬澹一发强刚毅诸箴未守也。
9 月 18 日 考察人才应定为日课。武昌未下也。
上午八时车抵岳州,往岳阳楼眺望,并往鲁肃墓参观,回部,与嘉伦谈天,阅电知铜鼓
已于十一日克复,下午五时到长沙北站,会客,晚十一时睡。
○○○○燥急,骄矜之病终未改也,持志养气,沉机观变之箴未守也。
9 月 19 日 武昌犹未下耶。
拂晓由长沙开车,正午到醴陵。下午三时到湘东桥,二时过老关,传闻即昭关,石城基
址犹在。六时到萍乡城,民众欢迎热烈甚盛,驻前镇守使署。今日耻辱○○疑惧虚伪诸过未
改,谨言慎行沉机观变诸箴未守也。
144
9 月 20 日 上午批阅文件,见王茂如电可气可耻,不胜忿恨,此小人如不速去,吾业
必不成也。闻瑞州已为我第三军克复,而方本仁被其旧部骗去扣留在吉安蒋镇吕处。下午往
安源即萍乡矿厂也。○○○烈○○○○可感也。参观各处及○○其规模之大,中国无匹。惜厂主无
能,被日本资本压制,至今停工,已将一年。吾主张工人乘此厂主放弃权利时起而自己管理
工厂也。晚回萍乡到欢迎讲演,十一时睡。
谨言慎行沉机观变之箴未守也。
9 月 21 日(丙寅 8 月 15 日) 武昌犹未下耶
今日中秋,尚留萍乡。沉闷恍忽,毫无○○之乐趣,惟有惭惶愧悔○○怨○○○○宽舒,色念
顿生,○○尚思安乐而不知危惧乎。谨言慎行整齐严肃诸箴未守也。用人不慎,始谋○○乃及
此难,亡羊补牢,犹未为晚,及时○作,何不可○○。近日觉得随时变迁与○○下二语○○○顺应
未来不逆二语,在军事○○○○○为切近,凡事只有预○○○○○○之手段,要在毋意必固,我○○须
○○○○○笃行。
9 月 22 日 不忮不求最为○品之要○○○○及为人之欺者亦在求○,以后切记○字,此外则
谨言慎行,亦○力行,则或有万一之成。近日之病多在○料,意必不能沉机观变,物来顺应,
所以诸多疚疚也。既往不○○○悔字○○○○发强刚毅之箴也。三时后起床,四时由萍乡出发。
正午抵宣风镇,道途平坦,民众欢迎,而此心终不宽舒也。假眠后,得程军长电称,十九日
巳刻,武宁之敌已进修水侧背,受其威胁,此乃私心自用,欲先争南昌之过也。屈指时过百
余小时,其危险或已经过矣。此次教训,或使其以后不敢冒险,以戒其私心自用也。
9 月 23 日 孙传芳派门致中往粤求和。武昌犹未下耶。
妄言卖智欺诈求人,是余最大之病,退让畏避○○○利,是余自己讨苦○○○定○○○○余侮,
余欲立业,须○○○○行厚重心神○定,举止有常态,○○则此立品也。未来不过,既往不滞,
物来顺应,当事哀理,比办事○事须先定一目标,至事变之来,千挫万折,应势利导,○○○○
而已。三时后起床,四时后由宣风出发,正午抵袁州,民众夹道欢迎,纸炮沿街令人耳鸣脑
晕,中国习俗殊不文明也。下午研究战局。
9 月 24 日 武昌犹未下也。
持志养气,求才任能二语○○○实,办到不可,总须时时行之不忘。上午会客看书,议事,
下午假眠,会客,应欢迎会之召讲演。晚写各友信约千余言。十一时睡。
今日○○骄矜之心又生,戒之。○○○忿色念未有消也。沉机观变熟思笃行之箴未守也。
9 月 25 日 闻十九日已下南昌。武昌犹未下也。
上午二时起床,三时后由宜春城出发,八时至彬江,正午到分宜城约八十里,途中又看
书,一路山形奇丽秀美,江亦平坦,惟气候之热出人意料之外。接报闻卢亭反攻南昌,我军
退出城外与之对抗,不知胜负,究竟如何,不胜焦灼之至。
9 月 26 日 武昌犹未下。
持志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行之箴毫未省察。○防陷害而不能自强,怠惰
骄淫怨恨○○而不能自立,如此殆一小人之行径耳,尚有成乎。上午二时前起床,由分宜出
发,十时半到新喻城,一路人民稀少山地较多,他省则接近省城人烟稠密,而江西则越出越
稀,何耶?下午决定作战计划,先以第二军全部攻吉安,以安全后方,以三、六二军第一师
攻南昌以破其主力,而以第二师守清江,以对樟树之敌,约有万五枪也。闻吉安蒋镇城已于
廿四夜准备向赣东退却,未知确否?
9 月 27 日 患得患失,喜誉恶毁,是小人行径,此时惟有自立自强耳。武昌犹未下也。
得报称南昌城尚为我第十九师固守,又言吉安已为我军所克,然皆无确息。交通不便影
响于作战,固如此也。上午批阅,中央执行委员会,召我回粤莅会也。到欢迎会讲演。下午
以前方报告前后矛盾,有称第六军失利,程军长尚无下落者,不胜忧闷,但敌无攻我决心。
有我去攻敌,胜算可操,故无过虑。而为本党大会,有人倒[捣]乱。是非不讲,利害是图,
145
实为可叹。晚与嘉伦将军谈军事与党务,彼劝我请汪出任也。
9 月 28 日 武昌犹未下也。
立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行之箴,终不能守,思虑不专,遇事不断,纷
杂,滞人,何以革命。上午传见部○亦有才也,患在不求耳。下午嘉伦出发向南浔前进。得
朱总指挥报告,言程军长已出险,会晤乃知南昌失守消息果确也。此次作战余皆不能自主,
随幕僚顾问之意为转移,故难一致。程欲急下南昌以争功,顾问亦有偏心,如程照原令攻九
江,则第七军不致迟延,而第六军亦不致失败,至此其直冲南昌,而致武宁于不顾,使该路
之敌回攻修水,以致后方动摇,通城吃紧,可叹。
9 月 29 日 武昌南昌皆未下耶。
起床接洁如精卫兄函,精函辩明其无嫌,而其欲出之意,则甚明也。余将复函应之。今
日决心请其复出,以自觉政治能力薄弱,不能主持党国,只要其能于党国与革命前途有益,
则对于我个人之好恶是非,皆可置之。上午七时半由新喻出发,正午到罗坊,闻吉安确下消
息。而南昌敌情紧急,且有败耗也。下午拟电稿,假眠,伤风。晚早睡。今○○○○○○不能不
自励,养气之志,求才任能,沉机观变,谨言慎行之箴未守也。
9 月 30 日 忍辱负重,含羞知苦,此今日之○○也。耻辱未有甚于以宾夺主,以下凌上
也。如此近来之耻辱而不知发○,则非人矣。早起拟电稿,六时后由罗坊出发,下午二时到
清江县城,约有八十里程也。途中深思财政之更张与南昌之敌情,几不能安也。第二军全部
过江,由峡江进攻樟树,决以第二师为总预备队,非万急不加入战线也。傍晚与第二师长商
量守城计划。致朱程鲁各军长函,惟王茂如尚在南昌城中未出,不胜系念。立志养气,求才
任能,沉机观变,谨言慎行之箴未守也。
10 月 1 日 南昌(原文为“武”)犹未下也。
五时后起床,拟电稿数通,以昨晚得程军长在南昌失败详报,决于本晨向高安前进,
八时出发,十七时到太阳圩,途中思索战局,非力破孙逆主力,不能结束也。颇费踌躇。机
心未消,怨尤丛集,忧患齐起,内部不固,组织不良,用人不当,自陷苦境也。立志养气,
求才任能,沉机观变,谨言慎行之箴未守也。
政治复杂,困难已达极点,令人不能处置也。
10 月 2 日 一、致汪电,二、致戴电,三、致宋电。武昌犹未下也。
六时后由太阳圩出发,途中接嘉伦报告,知万寿宫与祥符观之间,前日以来战斗甚烈,
而第一师不守奉新,退维坊,不胜愤恨。王柏龄副军长及缪斌党○袁皆逃避未回,此皆余用
人不慎,计划疏忽,平时不能专心训练,战时不能熟虑断行,以军队为应酬,以作战存谦谨,
此未有不败也。以后作事,应以第一意思为准,遇事不可放过也。正午到高安城,约六十里。
昨日行程足有七十里,而土人则曰○十里也。下午与王达天电话,朱总指挥来谈。晚得报第
三军突破万寿宫正面,俘获敌军伪司令二名,击毙一名,夺获无算云。立志养气,求才任能,
沉机观变,谨言慎行。
10 月 3 日 南武犹未下也。
立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,务实○○诸箴未守也。本日发汪出任之电。
八时由高安出发,十五时后到奉新,沿途探闻奉新之敌若有若无,而余以急于见第一师,故
不愿其如何急欲到奉,盖知敌军必无能攻我也。晚傍对第一师训话约一句钟,士气尚好也。
○颂云来谈天,○事痛斥王俊代师长指挥无方,以致转胜为败,此次援南昌之军,一误于王
副军长柏龄,命令之谬误,以主力为警戒,以一团为主攻,再误于地图之错误,攻击乐化站,
既攻州六小时占领乐化,涂家埠之庐香亭,准备退至德安,而糊涂王俊忽下令退却,转攻南
昌车站,欲达其本任务,既到南昌附近,又不侦察,又不联络,冒昧攻击,而我第三团已抵
抗三日,退至生米,王俊不知,单独进攻,又为逆敌各个击破。作战惟在于将才,无将有兵,
146
虽勇无益,牺牲枉然,可痛可悔。
10 月 4 日 本日五时起床,办公,七时对第六军将士第一团训诫至二小时之久。第一
团长孙元良以不奉命令,不守奉新,弃城退却,照连坐法枪决,下令执行。下午在第六军部
接第七军卅日在武宁箬溪歼灭谢鸿勋全部之报,乃决心下总攻击令,于六日向南浔线开始攻
击矣。晚八时后回高安城,十一时睡。
10 月 5 日 致蒋褚张何各电,程函。南武犹未下也。
六时起床,批阅文件,批复中央电,第四期毕业生训辞,复张谭二主席。孙传芳要求
本月三日停战,取巧惧强之流,只知权利而不知世间有羞耻事也。正午往祥符观,与朱总指
挥商议战局。四时即回高安,记事。致张谭二主席,何敬之,李任潮、邓择生各电,准备进
取闽浙,征求各方意见也。晚看曾公集○○○其○○数息一百 0 八息也。立志养气,求才任能,
沉机观变,谨言慎行,诸箴未守也。
惩忿窒慾务实○○○○养性。
10 月 6 日 南武犹未下也。六时前起床拟电稿,批阅文件,财政无着,军事难成,经
济无方,革命无意义,一方进行军事,一方建设经济,方有济也。上午研究攻浙道路,传见
部员,与嘉伦研究战局,彼主浙江为缓冲地,余则欲乘机扫除孙逆不使其死灰复燃耳。下午
往看伤兵,无被服,眠草卧地痛楚寒冻,令人不忍闻见。余之罪孽深重,诚不可赎矣,以后
谁愿牺牲革命也。此由于余懒惰,漫不经意,且不检查,所以使属员懈怠,士兵受苦也。以
后戒之。回部愤闷无已。
10 月 7 日 南昌何日可克?
六时前起床,静坐数息。七时对警卫团士兵训诫约二小时毕,拟训令第一军将士文约
千余言。下午批阅,往察病院,回部,拟训令兵站病院长稿约千言。接邓择生来函,知唐与
孙擅约停战条件,且有蒋百里在赣为缓冲之谋,是置党于不问矣。晚早睡。
立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,高明
和平。
10 月 8 日 南武犹未下也。立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,
务实求真,涵泳体察,高明和平。不能慎言,不能○气,终败也矣。上午批阅公文,与嘉伦
讨论时局,愤慨无已,又发急燥,戒之。应欢迎会讲演回,得悉第七军于四日直复德安,第
一师今日入永修城,孙传芳力争,卢香亭部已被击溃,即向吴城九江退却。下午拟稿批复,
看书,欲拟讨孙传芳通电,苦难动笔,文○○已极。
军事政治之先○,全在小脑作用,往往于觉悟而不深注意,或不克说之点,力索之,
则几矣。
10 月 9 日 南昌武昌何未下也。
七时前起床,拟稿办公写信,○讨孙传芳通电如制,另一份也至○○○时,接程军长信,
知第七军在德安于五日退却,至箬溪。于是永修亦不能守,移转阵地于城西十里之地,尚能
牵制涂家埠逆敌,不知南昌车站攻击,能否得手也。本军成败在此一举,以势与理,察之未
有不胜也。立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾 务实求真,涵泳体察,
高明和平。
10 月 10 日 本日克复武昌,南昌犹未下耶。
五时后起床,致敬之、建生函,七时由高安出发,沿途探询消息,最后得季方在生米
街。来书,知市议昨日已下,我军已过生米对岸,但不知南昌果有克复否,不胜系念。逆军
既退以后,运用兵力较易,逆军虽多,吾必能击破之。一时后到草山村即官山铺,污秽狭小
不堪。九月时节,寒冷至此,前敌士兵尚无冬衣,又无雨衣,心如焦灼。吾军将士困苦至此,
天如有灵,应助我从速克复南昌,以全兵力也。下午假眠。立志养气,求才任能,沉机观变,
谨言慎行。
147
10 月 11 日 南昌未下。
上午由草山出发,下午一时到生米街,知本军已在围攻南昌中,余急赴南昌,道途艰
难,兼天雨,到邓家埠夜深雨大,路生不能行,即宿营于邓家埠。
10 月 12 日 第五团长文志文学生阵亡于南昌城外,呜呼!
四时由邓家埠出发,七时到南昌城外农业学校,与鲁泳安、白建生商议,知今晨攻城
无结果,余即往第二师北门阵地,决定今夜十二时攻城,种种规定,余以为周密,及至攻城
接近时,第六团为城敌由地道出城埋伏城脚之敢死队所包围,全团几覆,而须挂白布,与电
灯三开为号,亦被敌探悉,甚悔军机不密,与黑夜混战之失策,指挥无方,如此何以见人?
然是夜如不攻击,第二师必为逆军全部包围矣。终夜奔走,未遑休息。
10 月 13 日 早晨由前方造币厂外与刘师长商议后即回第二师部,决定撤兵计划,下
午三时由南昌城外出发,晚十时到生米街疲劳不堪。此次余之疏忽鲁莽,致兹失败,罪莫大
也。当自杀以谢党国,且观后效如何?
10 月 14 日 昨夜倦极而睡,毫无精神,为人所轻,愧甚。今晨十时起床,与建生商
议,复致各处电报,决定作战及暂取守势,以待整顿完毕也。下午批阅文件,往刘师长处谈
话,乃知美国医院及造币厂之电话线与城内交通未拆,此必泄漏计划之点,刘师长人太老实
也。猛将难得,可叹。晚议决作战全般计划,调第四军反贺师来赣,再求决战也。十二时后
睡。
10 月 15 日 电张问汪事。电方问将才,委何为东路司令。调补充师及姚琮,发表讨
孙传芳宣言。
五时起床,由生米街出发,经官山铺打尖,闻第八师有追击前进消息,甚疑,及至中
途得程军长报告称第一师在箬溪附近激战二昼夜获胜,未知结果如何。此次始谋不臧,两师
分用,任人指挥,担任最难最危战局,使我忠勇战士死亡过半,精神大损,中正之罪,诚万
死莫赎,尚厚颜为人乎。八时到达高安,拟稿发电,凡事不精思,不熟虑,一意忽略,尚能
领众乎?立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,高
明和平。
10 月 16 日 南昌○皆未下也。
八时起床,拟电稿,办事,见建生。下午与嘉伦谈天,自愧才力浅薄,名不符实,悔
疚无已。得何军长报告闽逆入据松口,我军由永定反攻,逆敌完全被我缴械,俘虏。无聊忧
患中得此差慰。又闻南昌逆敌向抚州退却,此必往援抚州,非退却,然我或可乘机袭之,亦
一法也。惟徼徫之事,殊无把握耳。训诫学生,记事。立志养气,求才任能,沉机观变,谨
言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,熟虑断行。
10 月 17 日 上午致敬之、经扶各函电,办公。邓○等来会。复和平代表函件。下午
批阅裁复,往县署后瑞园,访友。有残碑一方知文天祥与陶渊明之所居也。古木参天,令军
人在愁闷中稍得慰藉也。回部得双十节已克武昌城,于此聊慰抑郁,以后军事政治或较易设
施也。晚与嘉伦谈天,又与元冲谈天。但有牢○本党○党员实不行也。十一时后睡。立志养
气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,熟虑断行。
10 月 18 日 上午拟电稿数通,往○部主纪念周,回寓,会客。旧友变性,见之痛恨。
季陶来电,神经错乱,更为悲痛,孤苦零丁,何以成事,党员老旧,岂有不败之理。近日甚
想此次军事收束后,及时休退自晦也。下午○○○后假眠,起床办公,事事被动,不能自主渐
惶莫名。
立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,熟虑
断行。
10 月 19 日 南昌未克,负疚一生。
七时起床,拟电稿二通,九时后由高安出发,十六时到奉新。天下事莫难难过于以下
148
凌上也,受人压制,是自召也。沿途人民欢迎之状,若无战事,此种情形虽不胜犹觉安心也。
晚得夏超在浙独立消息,不以为喜。而得第四军廿九日以前可以集中武宁之报,则如得宝也。
发寄中央执行委员会电。
立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,熟虑
断行。
10 月 20 日 南昌未克。
上午拟电稿,研究地形,深惭荒芜。往奉新北门外,选择阵地,此城不可守也。下午
接择生电话及张谭二主席电报,乃知浙江独立之消息确也,惟恐逆敌归路既绝,犹欲困斗也。
到欢迎会讲演。午夜择生○○○谈一切。至三时方睡。
10 月 21 日 南昌未下。
本日为我四十初度,德学事业而无所成,徒获虚名,增长马齿,○○拂逆,以伤父母之
遗体而已。○○○弄巧卖智,为人轻侮,偷闲○○○自强散漫,犹豫不能自主,但有见○于人而
已,上午拟攻击令稿后,与择生议事毕,往南门外训诫第一师官兵。下午与铁顾问谈天,致
孟潇、真如、公博各函。记事。
立志养气, 体察,熟虑断行。
10 月 22 日 南昌未下。
上午写信,拟电稿,择生来谈事毕,送其行后,见黄埔同学会报告第四期学生被人播
弄、挑拨,举动背于,从中 CP 或有作用,不胜愤慨,○○○○形诸口舌,为人所窥,岂是大
○○○○,所谓立志养气者何在?下午○○○○达天、叶剑英来会。看孔子家语。得抚州克复之报,
而易简师长阵亡,可悲也。
立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,熟虑
断行。
10 月 23 日 南昌未下
七时前起床静坐数息毕,办公,批阅,九时后对第一师官兵训诫约一时余。下午李正
秋来会。到奉新○○○成立大会讲演毕,回部途中见士兵衣装不整,军纪不严,为之燥急不堪。
孙传芳代表葛敬恩来前求和,人民代表魏炯亦来约谈数小时。晚对第一师官兵讲话约一时余。
立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,熟虑
断行。
10 月 24 日 得报第二军占进贤。
七时前起床后,静坐,拟电稿,与择生电话商议对孙和平问题。结果三条:一、浙江
归国民革命军,二、孙范围内本党得以自由宣传,三、撤兵之前一日为停战之期也。上午与
葛湛候、魏伯桢谈○○○假眠后,批阅文件,会客。古湘芹、○○○代表政府来慰劳前敌将士,
谈○○○灰心惭生矣。对孙传芳以其处境危亡,立于不败之地。故宽其条约,使其在苏为中立
以缓冲英奉也。
立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,熟虑
断行。
10 月 25 日 南昌未下
立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,熟虑
断行。
上午静坐后,拟电稿毕,陪古部长慰劳官兵,讲演约一小时。下午往乾州圩会程军长,
八时回奉新。闻夏超逃逸,孙传芳委陈仪为省长,断其不确也。办事。
10 月 26 日 南昌未下
立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,熟虑
断行。早起静坐,邪思不绝。上午召集师长训话,十时由奉新出发,下午五时到高安,商定
149
作战计划,朱军长来会。葛湛侯来谈浙江事,余准陈仪暂取中立态度也。致陈仪信以勉其道
德在国家,而忠于个人非道德也。十二时睡。
10 月 27 日 复程信定总攻击期。南昌未下,惭惶何如。
七时半起床,静坐。上午批阅,拟稿,与嘉伦讨论攻击计划,致张○○李德鄰二同志函。
下午批阅文件。送孟湘芹先生回部。批阅文件。○○○○参天,中有碧落轩,乃想到古○○○○或
比此优胜乎?记事。晚接季陶电,复之。
立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,熟虑
断行。
10 月 28 日 南昌未下
七时起床,致各师长电,批阅文件毕,往访蒋伯器代表,以彼自南昌来,为孙贼传芳
说项也。谈至十三时回部中餐后,假眠起床,与嘉伦谈战局,○○○○监来谈,批阅文件。季
陶观察○○○心神亦不是从前衰乱,阅其○○○○气百倍,胜得武汉三镇矣。
立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,熟虑
断行。
10 月 29 日 南昌未下。
昨夜与伯器谈判,彼乃一老实人也。孙传芳既欲求和,又欲保持五省总司令虚名,诚
匪夷所思,余以其先告我撤兵之期,然后再言其他,表明江西非归革命军不可也。今日上午
批阅文件,决定作战计划,电告政府。下午由高安出发,廿时到奉新,以伤风早睡。闻德安
逆军有拉夫退却模样。余料其月之初终必有举动,非退即进也。
10 月 30 日 南昌未下,残恨何如。
八时起床,伤风未痊。与建生谈后往第一军训诫。下午假眠后看孔子家语,会客,对
敌非有残留,余一人亦有必灭逆敌之心不可也。甚恐攻击日期太迟,使敌乘间退却不能消灭
耳。闻周荫人有在永安小溪被乡因枭首之说,不明确否?历事愈多,愈觉随时○○○○化之说
为不诬也。凡事未有不自逆○○○○。立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,
务实求真,涵泳体察,熟虑断行。
10 月 31 日 南昌未下。
上午看孔子家语,批阅文件,致德邻、建生函。下午假眠后往城北○○○○破庙三椽,
而地势突起,风景亦○○○○林,尚足称也。六时回部。晚批阅○○○○。立志养气,求才任能,
沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,熟虑断行。
11 月 1 日 南昌未克,愧悔灭已。
本定今日起每晨以六时起床,因病又不能实行。晏起贪眠以待来年之心不绝。德业其
能○进乎?上午批阅文件,会客,对补充第五团训诫。下午由奉新出发,行四十里到石鼻街
宿营,沿途民众争观风采为荣,见此聊慰战士之心也。晚接蒋方震复葛湛侯,敷衍油滑,是
诚军阀走狗不差矣,其人之肉不足食矣。晚记事。[按以下一行半被贴去]
立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,熟虑
断行。
11 月 2 日 南昌未下。
上午由石鼻街出发,十一时到长埠街,下午经高山二座,约三十里至庙前街熊村宿营。
得飞机报告,本日左翼已占领德安城,而中央与右翼军尚无进步也,以函促之。十时半睡。
立志养气,求才任能,沉机观变,谨言慎行,惩忿窒慾,务实求真,涵泳体察,熟虑
断行。
11 月 3 日 南浔路之德安蛟桥已克。
宴起,常使客卿来催,无任惭惶。以后最迟须六时起床。近日对差人谩骂痛叱,使人
150
难堪,而自亦伤神失体,以后戒之。温宽二字用功为要。上午九时决定第一军加入蛟桥,而
不经樵石港、白马庙,使敌预备阵地不能应用,以集结主力于第三、六军之间后由庙前街熊
村出发,经梅岭,约高 300 米突甚斜,至王村三甲,即至芦坑西方高地炮兵阵地观战,与程
军长会晤,进攻芦坑。闻蛟桥已克。五时回,至三甲,闻已克芦坑。此心稍安。晚十二时至
阳灵观宿营。 |